5.H13年9月19日第1回公判意見陳述

青木悠は少年法改正の前日3月31日、15才の少年に計画的に呼び出され、惨殺されました。6日間渾身の力で生き、涙で訴え、4月6日に亡くなりました。
悠はとても母親思いのやさしい明るい素直な子供でした。弱音をはかず努力家でした。
息子の幸せを願い16年間一生懸命育ててきました。私の生きがいでした。               
829日で17歳の誕生日を迎えるはずでした。

私の命より大事な大事な悠を、『障害者のくせに生意気』と17才と15才の少年が、計画的にだまし、平野小学校に呼び出して、自分の体を支えることも出来ない、身体の不自由な無抵抗な悠を殴り続けて殺したのです。
障害者の悠は飛び降りることも出来ない
60Cmのコンクリートの上から頭から引きずり落とされたのです。何10発も殴られ、プロレス技かけ、頭から地面にまっさかさまにバックドロップ掛けたのです。あごの骨ははずれ、脳はグチャグチャの脳死状態にしたのです。まだ、最後に『プールに放り込もう』と、途中まで運んでいます。

17才の加害者は、最初はお金で解決しようと脅迫しています。悠はお母さんに負担をかけまいと少ない金額言うと、自分を安く見られたと頭やつま先を踏みつけてます。

無抵抗な障害者の悠を、交通事故で頭遣られているから、頭やったら死ぬと判っていて、頭ばかり狙っています。『障害者やから助ける価値がない』口から泡を出している悠を『障害者はいつもこうや』と障害者を軽蔑し、脳死状態でいびきをかいている時は『狸寝入りや 起きろ』と蹴ったり、挙句に最後に500円盗っています。どうして、悠は17才の加害者からこんな人間と思えない扱いを受けねばならないのか。ただ、『自分の悪口を言った』それを人づてに聞いただけで殺すのか。
悠は障害者になっても、明るく、前向きに生きていたから、妬んでいたのじゃないか。自分の罪を軽くするために、15才の所為にしたり、悠を悪く言うのは、許せません。悠は心優しい子なので、人のことを悪く言ったりしません。
たとえ、もし、悪口言ったとしても、悪口言っただけで、殺されなければならないのか。17才の加害者の父親は弁護士経由で『これだけ謝っているのに、お母さんは会ってくれません』と手紙でありました。
17才の加害者は15才の加害者の所為にして、悠が亡くなってから、4月
6日に逮捕されましたが、悠がICUから個室に移された時や、亡くなった時、17歳の加害者の父親が廊下にいて、看護婦さんから、メモで渡されたのですが、【私に何かお手伝いできることはないか】だったと思います。「悠の命を返してほしい」ただ、それだけです。
突然、こんな惨い目に遭って、私は立っているだけで、精一杯だったのに、加害者の保護者は、自分達の子供を守るため、これだけ謝っていると、病院の廊下で『ここに居ます』と手を振るようにしていました。しかも、謝るのは、少年審判の結果がでるまでです。その後は全く謝罪もなく、初盆にもお線香の1本も無いです。本当に心から悪いと思っているのだったら、現場の平野小学校に行って、お花か線香の1本でも上げてほしいと思います。

加害者も悠が脳死状態までずーと見てて、警察に電話することも、救急車を呼ぶ事もしないで、見殺しにした人達も心から謝罪してほしいと思います。もっと、責任を感じてほしいです。
15才の加害者は『障害者のくせに生意気』とか『ムカツク』からと、障害者の無抵抗な悠を脳死状態まで殴り続け、まだ、笑いながらいろいろなプロレス技を掛けていた。それを『見せて 見せて』と17才の加害者は言っていた。どんな育て方したら、こんな子供になるのか。

15才の加害者は打出中学校で3年間、悪の限りしてきて、弱いものばかりいじめてきたのに、加害者の母親は謝らない人で有名でした。
15才の加害者の母親が4月27日、1度、私の家に来ましたが、チャイムを鳴らし、名乗っただけで、謝罪はありませんでした。こんな母親が居なければ、悠も殺されずに済んだのにとドア叩いて、地面叩いて、「悠を返して」と、近所の人が驚いて出てくるぐらい大声で泣いていました。

15才の加害者の父親は少年審判に立ち会っていますが、被害者に謝罪は全くありません。15才の加害者は去年の秋にも、自宅で下級生の手に大火傷させて、被害届も出てるのに、大津署は大きな事件が先と後回しにされていました。
もっと早く対処していれば、悠はこんな惨い目に遭う事なかったのに。それなのに、大津署の人は、悠は『交通事故で死んでた方がまだマシだった』と言われました。それほど、惨い目に遭って殺されたのです。

悠は私のエネルギー源でした。母子家庭のため、朝早くから夜遅くまで働いていたため、保育園の送り迎えは祖父母にしてもらっていました。私が亡くなっても、自立できるよう、小さい頃から、熱心に習い事させてました。絵画教室行って、写生大会に参加しても必ず入選してました。新聞に特選で載った事もあります。有名な塾にも1回で合格し、特待生と席を並べていました。ピアノも習い、スポーツも万能で特に足が速く、必ず1番になりました。そんな、私の自慢の息子が、中学校でバトミントンの顧問の先生に「青木からバトミントン取ったら、何も残らない」とクラブを退部させられてから、打ち込む事が無くなった悠は遊ぶようになりました。交通事故に遭ったのは、その頃です。

悠は2年前に交通事故に遭い、頭を強く打ったために、低体温治療法で奇跡的に大津市民病院で助けていただきました。左半身不随になり、私は脳外科の先生から、「左手が一生元に戻らない」と聞いて、ただ、泣くばかりでした。あれだけ、運動神経の良かった子が寝たきりになり、不憫で不憫でたまりませんでした。スポーツ万能の悠が突然寝たきりになり、チューブだらけから、クダから、おしめから車椅子から、やっと、歩けるようになるまでは、病院の先生、看護婦さん、婦長さん、リハビリの先生の必死の努力がありました。
悠は「神様に生かされた」とどんなに辛いリハビリにも弱音を吐かず、血のにじむような努力の結果、歩けるようになりました。
3ヶ月余り、大津市民病院に入院し、リハビリのため、有名な大阪のボバース記念病院に、紹介状もなく、まだ、あまり歩けない悠を連れて、何度も頼みに行き、やっと、念願かなって、入院させてもらいました。先生やリハビリの先生、婦長さん、看護婦さんの暖かい介護のおかげで、腰の負担のかからない歩き方や、もう、元に戻らないと言われた、左手も少しは動くようになりました。毎日、毎日どんどん左半身の手足の筋肉が固まっていくのを、毎日、毎日、マッサージして、柔らかくしていくのです。
悠は我慢強く、「痛い」と一言も言いませんでしたが、リハビリ中、大人でも大声上げるほどで、相当痛かったと思います。それほど、辛い辛いリハビリに耐え、去年の
3月22日に退院しました。

私が、リハビリの治療を優先したため、中学校の卒業式は欠席しました。悠はずーと、卒業式を出られなかったことを悔やんでいました。こんなに早く亡くなるのなら、無理してでも出席させてやりたかったです。可哀想なことをしたと思います。リハビリの通院のため、定時制に行ってたのを、大学に進むため、去年の夏は塾の夏季講習を受け、また、家庭教師の先生に来てもらって、猛勉強し、昼間の高校受け直しました。
凄いプレッシャーのなか、3月27日に合格し、毎日にこにこして、「これから、お母さんに心配かけた分、親孝行する」と言って、少しでも、お母さんを楽させたいと、不自由な身体で、食器洗ってくれたり、お花に水あげたり、家の掃除を手伝ってくれてました。やっと、親子で少し春が来たと喜んで矢先でした。

331日土曜日のお昼のことです。
『高校の合格祝いにカラオケおごってあげる』と15才の加害者から携帯で呼び出されたのです。悠は心優しいから、嫌な人でも、自分のために喜んでくれるのなら、笑顔で出かけたのです。『H』と名前を聞いていたなら、絶対に止めていました。
3月10日しつこく携帯で呼び出し、バイクに乗せ、暴走し、膳所のレストランに深夜に放置したのです。雪の振る寒い日でした。私は夜中の3時頃に自転車で、雪の降るなか迎えに行きました。二人で雪の中、とぼとぼと歩いて2時間ぐらいかけて明け方帰って着ました。
その前にも、悠は障害者でバイクも乗れないのに『バイクを壊した』と言ってお金を脅迫しています。17才の加害者の調書は嘘が多いです。悠は死人で口無しなので、加害者が悠を悪く言うのは、絶対許せません。放置したのに、『勝手に帰った』とどうしてなるのか。
加害者に「悠の命まで盗って、まだ変ないいがかりつけるな」と、私は、言いたいです。悠はお母さんを友達のように、何でも話していたし、日記も毎日のように書いていたのでいい加減な事は言わないでほしいです。

そんな恐ろしいことが、平野小学校で待っているとも知らず、悠は、自宅を出る時、大好きなおじいちゃんの佃煮業の跡を継ぐため、「身体が不自由になった分、大学目指して、経営学を学ぶ」と言っていたので、私が「滋賀大の経済目指し」と、言ったら、悠は「京都工芸繊維大学を受ける」と言い、私が「そんな無理や」と言うと、悠は「学校休まず行って、死にもの狂いで勉強するから」と、笑顔で私に話し掛けたのが最後になりました。

辛い、辛いリハビリを乗り越え、大学目指すため、昼間の高校合格して、「1からやり直そう」としていた矢先に、こんな惨い目に遭ったのです。
加害者は悠が奇跡的に助かって、寝たきりからやっと歩けるようになったことを、知っているものが殺したのです。

「障害者のくせに生意気」と。あんなに行きたかった高校の入学式がお葬式になりました。


悠は160cm50kgと華奢で、体力もなく、突然、障害者になりました。自分の身体を守ることもできないから、口で強がり言ってたかもしれません。
悠は明るい素直な子だったので、障害者になって、人の視線を気にしたり、意地悪されたり、仲間はずれにされても、前向きに生きました。お母さんを悲しませないように愚痴ひとつ言わない子供でした。今まで、スポーツで発散させていたのが、身体が不自由になり、さみしい想いをしていました。私が「もっと友達を選び」とうるさく言ってましたが、悠は「みんな、どこか良いところがある」と言うような優しい子供でした。

17才と15才の知り合いのMと悠が仲が良かったため、殺された悠は可哀想すぎます。去年の11月、Mが大津市民病院に入院した時、悠は自分が入院した時、お見舞いも少なく、とてもさみしい想いをしたから、毎日、不自由な身体で、1時間以上もかかるのに、歩いて、電車に乗り継いで、雨の日も、体調の悪い日もお見舞いに行ってました。(殺人ほう助した3人も、お見舞いに行った時、知り合ったみたいです。)
悠の身体を心配した私が、「行くな」と言っても、「Mが寂しがっているから」と毎日お見舞い行っていました。

331日土曜日の夜、悠がもう帰ってくると、炊き込みご飯と茶碗蒸し作って待っていた時です。午後7時40分頃、Mから『悠君が平野小学校で気絶している』と電話がありました。『カラオケ』に行ってどうしてと思いました。
私は、すぐ
119番に電話して、「2年前にも、大津市民病院で奇跡的に助けてもらいました」と言って、自転車で必死で平野小学校まで行きました。悠は救急車の中でした。ピクピクとしたので「あー生きている」と思いました。
大津市民病院に運ばれ、頭は異常に腫れて、あごの骨ははずれ、顔もゆがんでいました。服は全身ズブ濡れでした。Hに「カラオケに喜んで行ったのに何したん」『むかついたから、お腹をど突き、右足払いかけた』私はそれを聞いただけでも、リハビリでやっと、ここまで良くなった息子になんてことをしたんだろうと思いました。
自称空手3段の力で障害者を、コンクリートの1mの上から、パイルドライバー掛けられたのです。それも、笑いながら。その時は、お腹殴られただけで、どうして、こんなに頭が腫れているのか判りませんでした。Hは無表情でした。あまりに、頭の腫れが酷いのですぐ、丸坊主にされ、頭蓋骨を外す手術が行われました。その時、Hはアイスクリームを食べ、病院のソファーで寝そべっていました。
すぐ手術してもらいましたが、脳死状態で左目も瞳孔開いてて、100%助かる見込みはありませんでした。もう毎日、毎日、今日が山場と言われていました。それ程、頭ばかりやられて、脳がグシャグシャだったのです。

3月31日脳死状態になりながら、悠はとてもお母さん想いの優しい子供だったので、即死では余りにもお母さんが可哀想と6日間生き続け、亡くなる前の日、ICUから、少しでもお母さんと一緒にいさせてあげようと、病院の配慮でICUから個室に移り、私が悠の耳元で「恐ろしかったやろ、悔しかったやろ、お母さん助けられずに許して」と、大きな声で叫んだら、悠は涙を流したのです。涙でしか訴えることができなかった、悠の張り裂けそうな無念を思うと耐えられません。その時の怒りと悲しみが私を支えています。
大好きだった、大津市民病院の先生や看護婦さんに手厚い看護を受け、46日に亡くなりました。解剖のため、滋賀医大に泣いて見送ってもらいました。殺人なのに傷害致死で扱われ、何のために、解剖したのでしょう。余りに脳が腫れているので、頭蓋骨を外す手術をし、また、解剖されたのです。
大阪の病院まで、毎週1回、片道2時間の通院でリハビリは大変でしたが、治る可能性はあったので、親子で励ましあい、やっと、少し春が見えて来たという時に。酷過ぎます。

悠は将来、大学行って、経営学学び、おじいちゃんの商売継ぎ、早く結婚したいとたくさんの夢を持っていました。子供もでき、悠は父親がいなかった分、寂しい想いをしたから、きっといいお父さんになっただろう、たくさんの夢も希望も。私達、家族の幸せも一瞬で奪ったのです。悠はあれだけ「学校に行きたい。おじいちゃん、おばあちゃん、お母さんを楽させたい。」と願って来たのに。「命を大切に」と言ってた悠が、残忍な加害者に弄ばれて、命が奪われたのです。

生まれた時から、オムツを替え、大切に愛情一杯かけて育ててきた孫が一瞬で殺され、祖父母は毎日、毎日、泣き暮らし、ショックで寝こんでいます。交通事故に遭ったとき、祖父は大好きなお酒を絶ち、毎日、神さん参りをし、元気になることを祈ったのです。やっと少し歩けるようになり、不自由な身体でも、「おじいちゃん、何か手伝うことはないか」と悠は毎日、言ってました。祖父は、今でも、悠が亡くなったことが、信じられなくて、毎日、お経を唱え、気が変になったように、「悠はどこに行った。まだ、帰って来ないのか」と毎日、私に聞きます。祖父母は孫のために、歩けない身体で杖を突いて、大阪まで仏壇を買いに行った時は、何て親不孝したと、私は心の中で泣いていました。

悠は去年の夏休み、私の会社にアルバイトにきて、始めてのアルバイト代を半分、私にくれるような優しい子供でした。あれほど、悠はお母さんに負担かけまい、お母さんの幸せを願っていたので、私が泣いていたら、もっと、悲しむので、泣くこともできません。悠をこれ以上苦しめたくありません。悠の苦しみを思うと弱音は吐けません。

こんな、人間と思えない残忍な17才の加害者を逆送できたのに、村地勉裁判官は反省している、感受性があると、中等少年院送致にしたのです。
私は、裁判官が調書を全部読んだのかと疑いました。なぜ、中等少年院送致なのか信じられません。せめて、悠の命を奪った、殺人をした加害者に極刑を望んだにそれも叶わなかったのです。裁判官に少年審判の前に、せめて、加害者に厳罰を望み、涙で意見陳述しても、加害者は中等少年院送致になり、被害者は救いはありません。

渾身の力で4月6日に亡くなった悠のために、「新少年法で裁いてほしい」と訴えました。
新聞・テレビで報道され、極刑を望み、1週間ぐらいで一万人余りの署名が集まりました。暖かい励ましの署名を持って、書記官に渡しました。15才の何の反省の無い手紙も持って行きました。田村書記官は署名を10万人集めても、「束が厚いだけで、何の意味がない。裁判官は判例で裁く」と言われました。
法律で裁いてくれないのなら、被害者に救いはありません。なぜ、殺人した加害者に将来があるのか?なぜ、刑務所でなく、少年院なのか?
なぜ、殺人した加害者は少年ということで少年法で守られるのか?なぜ、加害者は私が意見陳述の前に、加害者の弁護士から、少年院で1年〜2年で出られると聞けるのか?何のために、私が意見陳述したのか?体裁だけだったのか?
人間が決めた法律ならば、もっと重い罪に変えられないのか?加害者は1年半か2年で、少年院で矯正教育を受けて、社会に出てきます。15才の加害者は何の反省もない手紙を「少年院って1年か1年半ででれるぞ」と出しています。
悠の将来も何もかも奪った加害者は少年院で3食食事をし、太陽も浴びて、税金で暮しを守られています。悠は、あんなに毎日、毎日、元の身体になる事を願って、マッサージした手足がお骨になったのに。こんなお骨を拾うより、辛い酷い調書を読んで、自分が大事に大事に育てた悠が殺されていく様子がわかり、助けることもできなくて、悠はどんな思いで意識が無くなっていったか思うと耐えられません。気が狂ったり、病気になったら、悠はもっと悲しむと、自分を強く言い聞かせてきました。悠は死にたくなかったのに、こんな惨い目に遭わされて、親として、極刑が無理なら、加害者に同じ暴力を味わってもらいたい。悠の「死にたくない」と悲痛の叫びが聞こえます。裁判官や警察の方が被害者の力にならなくて、どこに救いを求めれば良いのでしょうか。
悠の元へ早く行きたくても、死ぬことも出来ません。これだけ、加害者は少年ということで、少年法で擁護ばかりされてます。
悠は亡くなったら、名前と住所が公表され、加害者は名前も写真も住所も発表されず、なぜ、殺人したのに、罰でなく、矯正教育なのか。
悠は殺されたから、悠の調書はありません。加害者の自分を擁護する調書ばかりで裁かれ、悠は殺されてどんな無念の気持ちでいるでしょう。
被害者はこんな甘い甘い懲罰に文句が言えなくて、残された道は、民事訴訟しかありません。大事な大事な悠の命をお金で償ってもらう、こんな悲しいことはありません。
せめて、悠の一生を奪った加害者、加害者の保護者は一生かかって、悠の味わった苦しみや悲しみを償ってください。事実は受け止めてください。自分達は命があるのだから。誠意を見せてください。

私の卒業した平野小学校で土曜日のお昼に、殺人が行なわれ、安全対策も怠り、校長先生からお悔やみの言葉もなく、『花も飾るな』と張り紙してます。
加害者5人共、打出中学校出身なのに、校長先生も知らん顔して、ひとつの大切な命が亡くなったのに、誰ひとり無責任にして、12時間、悠が殴られ踏ん張っていたのを、見ていた逮捕されていない3人は普通の暮しをしています。

法律で裁いてもらわなければ、被害者は張り裂けそうな怒りや、気が狂いそうな悲しみはどこにぶつけたらいいのでしょう。加害者の言い分ばかり聞いた大津署の心ない発表で新聞報道されました。
一生懸命、前向きに生き、これから、「回りに振り回されず自分の道を進んで行く」と目標たて、「幸せになります」とメッセージを残してました。
悠はやっと、障害者になったことを、受け入れて、4月からスイミング行くことにしパラリンピックで活躍して、有名になると言ってたのです。これからという時、殺された、悠の名誉のため、泣くことも寝込むこともできず、悠の母親として、微力ながら、戦ってきました。

大津署の方は休日を返上して、悠のためにいろいろ調べてもらいました。しかし、悠は脳死状態で、死人に口無しです。加害者の自分達を擁護ばかりした調書です。悠の命は帰ってきませんが、無念の死を遂げた悠のために、真実を明らかにしてほしいです。
どんなに泣いても、悠の命は戻ってきません。せめて、自分が戦うことによって、少年法が見直され、このような酷い事件が二度と行われないよう願います。こんなに辛い辛い被害者を作りたくないです。

あんなに、毎日、毎日「お母さん、喉渇いた。お腹が空いた」と言ってたのに、亡くなって、毎日、仏壇に声をかけ、[お供え]する毎日です。階段を引きずる足音が堪らなく不憫で、一生懸命、元の身体に戻ることを願ってきたのに、足音も声も姿も見えない静かすぎて、毎日、気が狂いそうな状態です。しかし、思い浮かべるのは、悠が笑顔で出かけた姿です。
初盆には『お母さん、そんなに泣くな』というように、笑顔で現れました。せめて、天国で大好きだった、尾崎豊やHIDEと一緒に歌っててほしいと思います。
これからは、悠がお母さんを見守ってくれてるから、悠と共に生きて行きます。加害者が一生かけて、償うのを見届けてから悠の元に行きます。   

                9月19日 青木 和代