1.悠の生きた16年7ヶ月

青木悠は昭和59年8月29日生まれ16歳でした。

夏の暑い日、帝王切開で生まれたため、体重3000グラムのきれいな色の白い赤ちゃんでした。

母親が働いていたため、1歳からよいこのもり保育園に通っていました。おじいちゃん、おばあちゃんに送り迎えしてもらって、大事に大事に可愛がってもらっていました。

母親が夜遅くまで働いていたため、愛情不足と言われたこともありますが、ありったけの愛情を注いでいました。早く帰ったときは、よく近くの田畑に散歩に行き、草花や自然に触れていました。父親がいない分、休日は川で鮎など魚つかみ、キャッチボール、サッカーなど兄と親子3人でよく遊んでいました。

土、日の休日は絵画教室・書道・スイミング・音楽教室と母親が習い事に熱心だったため、兄と3人で自転車の前後に乗せて、大津市民会館へ雨の日も国道走っていたのは有名でした。
悠は運動神経も抜群で、絵画もスイミングも習い始めは泣いて嫌がりましたが、やさしい先生の指導で写生大会に参加すると、必ず入選し、新聞に載ったこともあるほど、運動も美術も得意な子供でした。有名な塾にも1回の試験で合格しました。母親にとって自慢の息子でした。
兄が6年生で、悠が4年生の時は、児童会で兄が児童会長、悠は代表委員で活躍していました。
4年生からスポ少でサッカーを3年間休まず熱心に打ち込んでいました。Jリーグが盛んな時だったので、「お母さん、僕、Jリーガに行って、一生楽させてあげる」と言ってました。サッカーの靴が小さくなって、爪が剥がれていても「買って」と言わない我慢強い子供でした。
サッカーに打ち込むため、習い事はほとんど辞めました。
悠は運動神経抜群で、足も速かったが、目立っていなかったため、レギュラーにならない時もありましたが、親の私が見ても可哀想なぐらい試合に出してもらえなくても、休まず練習に行ってました。
悠は幼い頃から、暗い家でお母さんの帰りを待っていたため、母親が「そのうち3階建て建てるから」と言っていたので、4年生の時、3階建てで、子供の部屋にお金をかけたので、悠の部屋はロフトも天窓もある立派なものでした。ただ、この頃から、家を借金して建てたため、朝、7時ごろから、母親が会社に出勤して電話で兄弟を起こしていました。悠はとてもさみしかったと思いますが、「お母さん、会社で頑張って」と言う子供で、母親にとってエネルギー源でした。運動会では走りは必ず1番でした。母親はどんなに忙しくても、仕事を休んで、学校の行事は参加し、4年生の時はクラス委員もしました。
(悠の中1の時は広報委員を担当し、パソコン勉強しながら、よく徹夜で原稿をワープロしてました)

幼児の頃から4年生まで、毎年、夏休みは祖父母と5人で、祖父の運転する車で、北海道連れてもらっていましたが、必ず車の中は、私のひざの上でドライブ楽しむほど甘えたでした。
皇子山中学校に入学し、サッカーでは、レギュラーになれないと思い、兄が入部していたバトミントン部に入り、1年の時は、副キャプテンで、2年生になったら、キャプテンにすると言ってた、顧問のN先生に「青木からバトとったら何も残らない」と、母親を呼んで退部させられました。悠は自分がキャプテンになったら「こうしよう、ああしよう」と熱心に案を練っていたため、何もしてくれない大人しいキャプテンを蹴ってしまったのです。夏休み前の頃でした。最初に手をだした、悠が悪いのですが、N先生に思いっきり悠の背中を蹴られています。昔、皇子山中のバトミントン部を全国レベルにもっていかれた教頭の先生に公演先や中学校まで、頼みに何回も行き「何とかする」と言われながら、何の力にもなってくれませんでした。担任の先生も頼りになりませんでした。2年生になって悠がバトに打ち込みたいために、能開の塾に行ってましたが、辞めたいというので、その頃、30点ぐらいの成績だったのを、「3教科60点以上とったら、辞めてもいい」と言いました。無理な注文と思いましたが、60点以上とり、滋賀県で9位の成績でした。塾の先生には引き止められましたが、悠との約束でした。母親の会社でもらったスポーツ券で2万円ぐらいするラケットも購入し、万全で望んでいたのに、とても残念です。
何度も担任や顧問の先生に頼みに行きましたが、顧問のN先生に「性格治したら入れたる」とまで言われました。我慢強い悠が辞めたくなくて、無視されても、バトミントンの練習を見てました。悠が勇気をだして、謝るつもりで部活に行っても、N先生に「お前なんか帰れ」「何しにきたんやバイバイ」とまで言われ、また「おまえ辞めるというたのやないか」と言われ、悠は学校から泣いて帰ってきました。皆からも白い目で見られ、悠にもいろいろ問題があったかもしれませんが、そこまで意地悪されても部活に行くだけでも勇気がいると思うのに、悠が反省してやり直そうとしているのに、先生方がそういう態度では、悠がダメになると思いましたが、顧問のN先生にそこまで言われたら、もう無理と思い泣く泣くあきらめました。義務教育で先生が生徒をダメにする権利はないと思います。もっと、校長先生や教育委員会に相談に行けば良かったと思います。このままでは悠はダメになってしまうと思いました。心配したとおりになりました。人を恨んだり、人の所為にしてはいけないと思いますが、バトミントンの顧問のN先生は一生恨みます。意思の弱かった悠も悪いかもしれませんが、バトミントン退部させられてなかったら、悠は殺されることはなかったと思います。
母親が心配していたとおり、2学期から、塾も辞めていたため、大好きだったバトミントンに打ち込めるものもなく、今まで、部活でぐったり疲れて寝ていたものが、急に勉強する訳もなく、ヒマな時間を持て余していました。この頃帰宅が遅いので、よく自転車で探しにいきました。心配で母親の勤めていた会社のバトミントン部で練習させてもらっていました。

中3の7月に中学校の教室でサッカー部のエースに背中にひびが入るほど暴行を受け、病院に通院ししばらく休んで家で寝ていました。中学校行くのも怖がっていました。いろいろな悪友の誘いを断ち切りたいため、母親の会社の夏休みにあわせて、10日間おじいちゃんと3人で北海道旅行(8/3〜8/15)をしました。強がって生きてましたが、おじいちゃんや母親に付いて来てくれるほど優しい素直な悠でした。
北海道旅行から帰ってきて、3日後、8月18日午前0時35分頃、パジェロミニに、同乗したバイクで出会い頭に衝突。滋賀県警の娘のK・Y(20歳)パジェロミニに当てられた。
(一旦停止しなくて、アクセルとブレーキ間違えた)
頭を強く打って重体、大津市民病院に救急で入院。右の頭を強く打っているので、助かっても左手は動かない。このまま頭が腫れていけば脳死。また助かっても知能がどこまで戻るかわからない状態。
大津市民病院の世界的に有名な脳外科の最新医療設備のICUで奇跡的に低体温治療法により、命を取りとめましたが、頭を強く打ったため、左半身不随になりました。

事故時の状況

1)  傷病名 頭部外傷(びまん性 軸索損傷 脳挫傷)

2)  病状経過 来院時 JCSV−2 頭部CTにて右内包後脚に出血を認めました。入院後、低体温療法施行し、
その後順調に回復し、左片麻痺がありますが、
リハビリにて装具着用し、歩行可能なところまで回復しました。

右の頭を強く打っているので、助かっても左手は動かない。
このまま頭が腫れていけば脳死。
また助かっても知能がどこまで戻るかわからない状態。
PM1時にICUで面会。兄も対面する。脳外科の先生にCT
写真見ながら説明受ける。低体温治療法で頭の腫れを防ぐ。
34℃ 首に穴を空けてチューブで呼吸。
鼻も口もチューブだらけ。正しく圧をはかるため、
頭に穴をあけた。

皇子山中の先生が朝から夜までずーと、ICUの待合室におられ、
私はずーと同じことを何回も来られる先生に説明していた。
2日後に遠慮していただいた)

学級担任のN先生・優しい女の先生Y先生に
ずいぶん励まされました。
Y先生は高校の合格祝いの
お手紙や、初盆にお供養に来ていただきました。

兄は悠が意識戻るまで、病院から一歩もでず、
ICUの待合室の床で寝泊りしていた。

8月29日 ICUで悠は15歳の誕生日を迎えた。
脳外科の先生の問いかけに指のピースで答えていた。


ICUで悠が北海道旅行で買った、尾崎豊の「I LOVE YOU」のオルゴールを毎日聞かせていました。皆の願いが通じ奇跡的に助かり、寝たきりから歩けるようになり、看護婦さんから、15歳で「お母さんにありがとう」と感謝できるようになってすごいと言われていました

8月30日 夕方、ICUからHCUに変わった。
      悠が一番症状が落ち着いていたから、昼と夜の区別
      をつけて、家族とも長い時間一緒にいることで、
      だんだん、普通の生活に戻していく。
8月31日 夕方からリハビリ開始。少し水を飲んだ。
        むせたけどコクンと上手に
飲んだ。
9月6日 今日は初めて車いすに乗った。 食事もおいしそうに食べた
9月9日 4人部屋に変わった。


11月28日 大津市民病院を退院し、高槻の愛人会リハビリテーション病院に転院しましたが、あまり治療してもらえなかったので、会社の人から、大阪のボバース記念病院が、脳からきた障害のリハビリがいいと聞いて、紹介状もなく、子供と何度も頼みに行きました。悠は気乗りしませんでしたが、タクシーの運転手さんに、ボバース記念病院が「日本の病院で5本の指に入る。スポーツ選手もリハビリに来る」と聞いて、積極的になりました。悠が15歳で治る可能性もあり、12月24日に入院することが出来ました。
まわりはお年寄りや車椅子の人が多く、悠のストレスも溜り、何度も問題を起こし、よく謝りに行ってました。I先生のおかげで即刻退院を何度も許してもらいました。
(4月27日の毎日放送の日本の名医で病院が紹介されました。撮影されている 時、悠は横でリハビリ中でした。)
悠は夜寝られず看護婦さんに迷惑かけるので、2月の末には母親が付き添いするということで、置いてもらいましたが、大阪から草津まで冬の片道2時間の通勤はきつかったです。

交通事故の加害者の父親は滋賀県警の人で、すぐ謝ってこられ、全責任持ちますと言いながら、ほとんど寝ていなかったので、「タクシーに乗って帰ってもいいか」と聞いたら、任意保険に任せたと言い、日新火災も被害者にも責任があるといって、タクシー代もお見舞いも何ももらっていません。
加害者は母親の居ない時にきて、ICUの待合室にいた兄に一万円の商品券を置いていっただけです。その後、全く謝罪もなく、悠も母親も加害者の顔は知りません。事故証明もなかなかでず、母親の会社の顧問弁護士に相談しにいったら、事故証明がそんなにかかるものでないと、大津署に電話してもらったら、「忘れていた」とのことで、8ヵ月もかかりました。(悠に学資保険かけてましたが、事故証明がないと保険もおりず、いつもお金を始末してました)

会社を辞めて、もっと長い時間付き添ってあげようかと悠に言いましたが、「お母さんは会社で頑張って」と言ってました。高校受験時に事故をしたため、お見舞いも少なく、まして大阪では遠すぎます。電話代は月4〜5万は使っていました。ボバース記念病院の横に川が流れているのですが、悠が少し元気になった時「川の水がきれいだったら親子で車椅子ごと飛び込んだ」と言いました。それほど、その頃は疲労困ぱいできつかった。しかし、元の元気な身体に戻して、またバトミントンさせたいのと、事故前、北海道で馬に乗ったり、走り回っていた明るい悠のことを思い、親子で明るくリハビリ頑張りました。3月22日退院したのと、お昼リハビリの通院のため、大津清陵の定時制高校に入学しました。悠は中学2年の1学期までは普通に勉強していたので1番で入学しました。(バトミントン退部させられてから挫折してました)
悠は左半身不随で障害者2級の手帳を持っていたため、Bクラスの友達と一緒のクラスになりました。左手が不自由なため、給食のおぼんは持てないし、階段の手すりは片方だけなので、悠のため手すりも付けてもらいました。悠は突然、障害者になって、友達とかの対応が下手で損してたと思います。脳に障害はうけてないので、身体不自由な分、口は達者だったと思います。
6月頃、担任のT先生から親子で呼び出され、「ここに居たら、青木にとって良くない、もっと、勉強して昼間の高校目指し」と言われて、夏休み、塾に行き、11月からは家庭教師の女の先生に来てもらいました。(悠の明るい素直な優しい面などわかって、亡くなって、大津署にも調書に応じていただきました)
2月定時制を退学し、物凄いプレッシャーのなかで、3月22日に昼間の高校受験しました。帰りの電車のなかで「お母さんお守り」と見せてくれた、家庭教師の先生の優しい励ましのお手紙でした。面接の心得など書かれてました。27日合格し、一番お世話になった大津市民病院に喜びを伝えに行きました。また、朝早く起きる練習し、母親がAM7時過ぎに出勤するのを見送って、「いってらっしゃい、頑張ってね」と言い、心の中で「あんたが負担かけてるのや」と苦笑いしてました。交通事故の前は、母親が文句を言うと「うるさい」と言ってましたが、今は、何に対しても「お母さんありがとう」と言えるように明るい素直な悠になっていました。不自由な身体で食器洗ってくれたり、部屋の掃除手伝ってくれました。毎日、にこにこして、「今まで、お母さんに心配かけた分、親孝行する」と言って、やっと、親子で少し春が来たと喜んでいた矢先でした。