4.事件の概要  平成13(2001)年3月31日

平成13年(2001)3月31日土曜日
昼間の高校の合格のお祝に2万5千円を上げたので、初めて、銀行の通帳とカードを作り、土曜日のお昼に「こずかいがほしい」と言ったので、PM2時前だったら105円の手数料要らないので、私が「早くジャスコに行ってきたら」と言い、2000円の引出しと写真の現像を急いで、悠は自転車(壮絶なリハビリを乗り越え、寝たきりから歩けるようになり)でジャスコに出かけました。
雨が降っているのに、濡れて急いで帰ってきたので、1時間ぐらい雑誌を見て待ってたら、写真ができあがるのに、「何でそんなに急いで帰ってきたん」と言ったら、友達が「初めてのお給料で、僕の合格祝いしたげる」と携帯電話してきたので、喜んで出かけました。
自宅を出る前、「大好きなおじいちゃんの佃煮業の後を継ぐため、身体が不自由になった分、大学を目指して経営学を学ぶ」と言っていたので、私が「滋賀大の経済を目指し」と、言ったら、悠は「京都工芸繊維大学を受ける」と言い、「そんなとこ無理や」悠は「学校を休まずいって死にもの狂いで勉強するから」と笑顔で私に話しながら出かけた姿が焼き付いています。
たまたま、会社の友達が来ていたので、膳所駅の前まで車で送り、私が「どんな友達」と車の中で聞いたら、「僕が清陵の定時制に行ってたら、受験した人」と、言ったので、初めてのお給料と同じ高校に入りたい人ということで、私はそれだけで悠を慕っている人と信じ込み、そんな 恐ろしいことが待ち受けているとは夢にも思いませんでした。
本当に後悔しています。今、毎朝、お線香上げながら、「お母さんを許して」とあやまり続けています。

土曜日のお昼の人込みの多いところなので、携帯で平野小学校と言ってきたので、「歩いていき」と見送った。笑顔で手を振りながら不自由な身体でときめき坂を喜んで歩いて行きました。笑顔で出かけたのが、最後になりました。

私は、3月決算で毎日残業し、忙しくてご馳走も作れなかったので、草津の市場で買物し、炊き込みご飯と茶碗むしを作って、今頃カラオケを友達と歌っているのだろうと思いながら、待っていました。
夜7時すぎ、悠の知り合いのMから「悠君いますか」私は「出かけています」
7時40分Mより、「悠が平野小で気絶してる」私は「すぐ、救急車呼んで」Mは「警察に知られたら困る」「警察に言わないからすぐ呼んで」と言いながら、すぐ電話をきって私が、119番して「子供が平野小に倒れてる。1年半前に奇跡的に大津市民病院で助けてもらっているので、すぐ行ってください」と頼みました。でもまだその時、そんな恐ろしいことが行われているとも思えず、急いで、自転車で平野小学校まで行きました。(嘘なら後で謝ろうと思っていました)
8時20分ぐらいになっていて、救急車が止まっていて、悠は救急車に寝かされて、右手、右足がピクピク動いていたので、「ああ生きてる」と思いホットしました。
救急車の中にHとMが乗っていました。すぐに、大津市民病院に運んでもらいました。

救急治療室で、意識がなく、死んだら三途の川を渡るというので、必死で悠の名前を呼び続けました。全身ずぶ濡れで、あごの骨も外れていて、顔も頭もひどく腫れていて、私がHに「カラオケって喜んで行ったのに何したん」『むかついたから、お腹をどつき、右足払いかけた』私はそれを聞いただけでも、身体を支えることもできない子に何てことしたと怒りを覚えました。
「リハビリしてここまで良くなったの知っているやろ。まして、あんたのほうが体も大きいのに」と怒りをぶつけても、Hは黙って無表情で突っ立っていました。全身ずぶ濡れで、おでこも腫れていて、両手の指に赤い血豆のような傷があったので、「何で、お腹どついただけで、手に傷があるんや」『気絶したから、先輩に電話したら水かけたらいいと言われて、水道まで運んでいった』 この寒い日に惨いことをすると思いました。しかし、私は、悠に助かってもらいたかったので、警察にも言わず耐えていました。

脳外科の先生も麻酔科の先生もすぐかけつけて診てもらいましたが、相当酷い状態ですぐ手術になりました。
手術中に戻していけないので、Hに「何食べたん」『ジュースぐらい』こんな酷い目にあっても、「私はカラオケに行った」と、まだ思っていました。
しかし、このまま帰られても困るので、私の手帳にHの住所と名前と携帯を書いてもらいました。
悠はすぐに、丸坊主にされて、手術室に運ばれましたが、頭が歪んで倍ぐらい異常に腫れていました。
あまりに酷い状態だったので、心配してきてくれた友達も「すぐ警察に言わなあかん」と言われて、PM10時過ぎに大津警察署に電話しました。悠の兄も9時すぎにロビーに来た時、Hはアイスクリームを食べながら、ソファで寝そべっていました。それを見て兄は耐えられないと帰りましたが、次の朝、17才のSが、ロビーに集まっていた子らに『おまえらも、青木悠みたいやったる』とまだ言っていました。
AM3時頃、あまりに内出血と腫れが酷いので、頭蓋骨をはずす手術が完璧に行われましたが、CT写真を、私が見てももうだめと思うぐらいひどい状態でした。その時は言われませんでしたが、もう、脳死状態で左目も瞳孔が開いていて、100%助かる見込みがなかったことを、亡くなったあと、婦長さんから霊安室で聞きました。(交通事故で右目はその時開いている)
脳外科の先生も初めて診るぐらい酷い状態でした。

H13年(2001)4月1日(日)

何時に逮捕されたか知りませんが、15才のHは4月1日に逮捕された。
朝、警察から電話があり、「被害届けを出しにきてください」と言われ大津署でAM10時〜PM1時まで時間がかかりました。
朝、悠の友達から『Sもいて、PM4時過ぎからは、顔見知りの3人もいた』の電話が入りました。
PM1時からICUで面会し顔も左側が、倍ぐらい腫れていて、頭は包帯、鼻に呼吸器、また低帯温治療法で全身冷やされていました。
CT写真を、私が見てももうだめと思うぐらいひどい状態でしたが、先生に「奇跡が起こりませんか」「起こらないけれど、もし1%起こったとしても、高度な植物人間、寝たきりで臭いも味も何もわからない状態」 でも、それもありえないとのことでした。
もう毎日、先生にダメダメと言われていました。

H13年(2001)4月2日(月)

Mが悠に会いたいというので、一緒にICUに行った時、始めて、カラオケは真っ赤な嘘とわかりました。おびきだすための口実でした。

H13年(2001)4月3日(火)

今日は、リハビリで大阪行く日だったので、元気だったら、お世話になった先生や婦長さん、看護婦さんに合格したことを自慢しまくっていたと思うと哀れでならなかった。
担当医の今林先生に電話したらとても残念がって、「また、リハビリしたげる」と慰めてくれた。電話しながら泣いていました。
リハビリが最後になった3月13日(火)の内診の時、「青木君にとって交通事故は、良かったな。それ程、人間的に成長したから」と言われていました。
ICUの面会時間は決まっていますが、朝〜夜9時まで病院にいて、9時30頃家に帰り、長男の夕食作っていた時、一緒にかかわった2人の子が、母親と謝りに来ました。私はもう助からないとわかっていたのと、明日、警察に行ってちゃんと話すと言ったので、「もっと早く誰かに助けてといえば悠も助かったのに」と冷静に言ってました。
悠が死ぬという時に、15歳のKが『つねった』とか『つねられた』とか言ってましたが、何を言ってるのか、意味がわかりませんでした。障害者の悠がKをつねったから殺した?そんな、惨いことされていると知らなかったので……

H13年(2001)4月4日(水)

ICUの家族待合室に私の上司・昨日の15歳の加害者2人・Mらの連れY・K(なぜか仕切っていた人・Mと同じ粟津中学出身)が悠が意識が朦朧として、涙を流し、泡を吹いて、失禁している状態を、Hは笑いながら、プロレス技のパイルドライバーを1m頭上から、悠の頭を真っ逆さにしてコンクリートに打ち付けたのです。そんな、ひどいことしたら壊れるに決まっています。
どうして、頭をぶつけただけで、あんなに脳がグチャグチャになるのかわかりませんでした。
脳外科の先生が「アルミのお弁当箱にお豆腐入れて、ぶつけてみ。お豆腐ぐちゃぐちゃになるやろ」と、言われていましたが、こんな残酷な目に遭っていたのです。身体を支えることも、逃げ出すこともできない障害者の子を5人でおもちゃにしたのです。あんなに頑張って生き、交通事故で奇跡的に助かり、「僕は神様に生かされている」と前向きに8ヶ月の入院と、1年のリハビリの通院を乗り越え、どんなに、辛くても痛いとか音を上げず、また、バトミントンしたいために親子で頑張ってきたのに、言葉にできないほど悔しいです。

H13年(2001)4月5日(木)

朝、病院に行ったら、昼からHCU(個室)に移しますと言われ、1mmも動かせない状態と言ってたのになぜかなと思ったら、ICUは面会時間が決まっているから、あまり会えないので一緒の時間をたくさん作ってあげようと配慮でしたが、もう、ダメということでもありました。
看護婦さんに
「悠ちゃんはお母さん想いのやさしい子やから、即死では、あまりにも、お母さんのショックが大きいから毎日、毎日頑張ってお母さんを納得させてる」と言われた時は、胸にこたえました。
個室になったので、悠の耳元で、「悔しかったやろ、どんなに恐ろしかったやろ、お母さん助けてられなくて、ごめん」と、いっぱい叫んでいたら、
悠の眼から涙がすーと流れました。

H13年(2001)4月6日(金)

あんなに頑張ってたのに、AM4時25分心臓は止まってしまいました。
私の命に代えても生きてほしかった悠に、「お母さんを置いていかんといて」としばらく泣き叫んでいたら警察の人が悠を持っていきました。
泣く間もなく大津署の人に私も事情聞かれていました。
悠が死んだら、新聞に悠の名前が出て、17才のSは取り調べを受けていたが、死んでから逮捕です。逮捕されたら、警察に拘留され、未成年ということで、名前も住所もでません。
加害者の方が守られて、自分の子供が被害に遭って、初めて被害者がどんなに理不尽か全身でわかりました。被害者はあまりの悲しみに打ちひしがれているのに、
『顔見知りの喧嘩で頭打って死んだ』と大津署の発表で新聞記事が出て、二重三重の怒りと悲しみに打ちひしがれます。
あんなに可愛がってもらっていた、おじいちゃん、おばあちゃんの対面が霊安室になりました。私は、両親に何て親不幸したと思いました。それほど、酷い遺体の状況でした。死体解剖のため、滋賀医大に送られました。
お世話になった大津市民病院の先生や看護婦さんに見送っていただきました。(交通事故の時、大津市民病院の先生や看護婦さんの語り草になるほど奇跡的に助かり、惜しまれて手厚い看病をうけました)病院出る時、交通事故の時、助けていただいた芋坂先生に「悠ちゃんは一生懸命生きた」と慰めてもらいました。
悠は大津市民病院で生まれ、交通事故で奇跡的に助けてもらい、また、殺されて大津市民病院で手厚い看護を受けて亡くなりました。
去年、卒業式をリハビリを優先して、欠席していたので、せめて、お葬式は皇子山中の友達にたくさん来てもらうためセレマでお葬式しました。心ない新聞記事で来てくれない人もいましたが、寂しがりやのの悠が喜んだであろうたくさん皇子山中・清陵高校の友達や先生が来ていただきました。
悠の大好きな「ゆず」の音楽に送り出され、毎日、毎日マッサージした手足がお骨になりました。
あんなに行きたかった高校の入学式がお葬式になりました。

*司法解剖に検事さんは立ち会っていただきました。
悠の交通事故の時、受けた10円玉の脳の傷はきれいに治っていたそうです。