10.日記



2007年11月13日 火曜日
日記の更新はできていませんが、元気に仕事など頑張っています。疲れてうたた寝をして、夜中に仕事など片付けていますが。
16日〜18日まで近江八幡で
「生命のメッセージ展IN滋賀2007」が開催されます。場 所 滋賀県立男女共同参画センター(G-NETしが) 大ホール http://www.eonet.ne.jp/~inochim2007/
滋賀県では4年前にピアザ淡海で開催以来2回目です。皆様が会場に訪れてくださることをお待ちしています。


2007年10月20日 土曜日
近江八幡で生命のメッセージ展の映画「0からの風」の上映会があり、朝早くから1日お手伝いに行きました。私は「0からの風」を初めて見ました。塩屋監督も来られて、3回も挨拶をされました。とても優しい方でした。

映画の最後のほうで、加害者がメッセージ展の会場に訪れてくるのかを待っているときに、零君の彼女がピアノを引いて、零君の友人役の亮太君が彼女を紹介する場面があります。
悠のオブジェをたくさん映していただきましたが、亮太君役は悠の小学校時代の同級生でした。小学校のアルバムを取り出して見ましたが、祐喜君の将来の夢はタレントで、悠はサッカー選手でした。
祐喜君は夢を叶え、悠はオブジェで遺影です。悠が哀れで泣いていました。同級生と悠のオブジェを一緒にたくさん映してくださった塩屋監督の優しさを感じました。祐喜君は塩屋監督の演劇学校の教え子とのことでした。


2007年10月6日 土曜日
9月は父の退院手続きやディケアの手続きや、商売のことなどで忙しくしていました。福岡の前原でメッセージ展http://plaza.rakuten.co.jp/inmaebaruが行われています。出席したかったのですが、仕事や雑用があり参加できませんでした。
将来に向けて頑張っています。


2007年10月5日 金曜日
9月6日にJA滋賀中央会にメッセージ展の協賛金のお願いにお伺いしました。4年前に大変お世話になった専務理事さんは退社されていましたが、新しい方がいろいろ検討していただいてたくさんの協賛金をいただきました。
JA共済・JA滋賀厚生連・JAバンク滋賀・JA全農しが・JA滋賀厚生連・滋賀県農業協同組合中央会などからいただきました。どうもありがとうございます。心から感謝です。


2007年9月25日 火曜日
父が退院しました。去年5月に脱水状態になって入院してから、1年以上の入院生活でしたが、胃ろうから三食口から食べれるようになって元気になりました。母の負担は大変ですが、自宅に帰れるようになって嬉しいです。
ディケアの手続きなどいろいろあり、大変でしたが。


2007年9月6日 木曜日
うたた寝をすると夜中に仕事をして、朝方まで起きることになるので、9月からはうたた寝をしないと決めましたが、また寝ていて、夜中に起きて、日記の更新をしています。(7月11日〜9月6日)
午前中は仕事をして、悠の月命日でもあり、昼からは気合を入れて、お化粧もして、チラシをもって、滋賀開催の「生命のメッセージ展」の協賛金のお願いやポスターを貼っていただくお願いに行きました。最初、法務局に行って、総務の方にお願いをしましたが、行政以外は貼らないようで無理でした。気を取り直して、4年前の「生命のメッセージ展」大津開催時に大変お世話になった滋賀県職員労働組合に行きました。突然伺ったにも関わらず、協賛金や寄付をいただき、ポスターも貼っていただきました。また4年前にたくさん寄付をしていただいたJAも行きましたが、その時大変お世話になった専務理事さんは退社されていました。建物も変わっていて、元打出中学校の跡に建てられた建物でした。雨のなか、ポスターなどナイロンに包んで自転車で行きました。帰りに中学3年生の時の恩師のお宅に寄りました。先生と懐かしいお話をして、二人で自転車で出かけて、おいしい中華料理をたくさんご馳走していただきました。また新たに頑張ろうという気持ちになりました。


2007年8月29日 水曜日
悠の23歳の誕生日です。元気な悠にとても逢いたいです。ケアマネジャーさんが実家の間取りなど調べに来られて、母と3人で話をしていましたが、母は愚痴が多いので、聞いているのはしんどいです。仕事が遅れて、昼から昆布を巻いていましたが、落ち込んでいて夜にショートケーキを買ってきて、供えていましたが、悲しくて辛かったです。


2007年8月26日 日曜日
仕事のある日に、外出すると洗い物が残っていて、朝から汗だくになって洗っていました。昼から岐阜で芝居があるので、JR線を乗り継いで行きました。帰宅後は疲れてビールを飲んで寝ていました。また夜中に起きて、明日の仕事の準備をしていました。


2007年8月25日 土曜日
朝6時頃からお昼まで仕事をして、昼から近江八幡へ生命のメッセージ展の実行委員会に参加しました。15時〜18時まであり、家に帰ったのは19時ごろでした。長男が商売から帰ってくるので後片付けをします。


2007年8月24日 金曜日
うたた寝をして、夜中に起きてお豆などを付けて、後片付けをしていました。塩昆布用に昆布を切り、資料を作成して朝5時頃に寝て、また7時に起きました。朝から用事がたくさんあって、午前中は志賀に行ったり、京都に行って、昼からまた仕事をしていました。



2007年8月17日 金曜日
14日から3日間体調を崩して寝込んでいました。月に1回ぐらいは腹痛を起こしますが、3日間も起き上がれなかったのは初めてのような気がします。それでも飲み物も無いので、ジャスコに買いに行ったりしましたが、病院も休みで困りました。



2007年8月8日水曜日
琵琶湖の花火大会です。家のベランダから今までは見えましたが、だんだん湖畔にマンションが建ち見えなくなりました。個人が家を建てるとき、公園法など厳しい規定があるのに、マンションはどうして湖畔近くに建てられるのだろう。スイミングに行きましたが、さすがにメンバーは少なかったです。



2007年8月6日 月曜日
悠の月命日です。6年前に民事訴訟を起こした日です。裁判はとても疲れます。疲れても良い結果が得られればまだやりがいがありますが、残念な結果に終わると傷だけ残り、なかなか立ち上がれません。


2007年8月5日 日曜日
産経新聞の朝刊に湖国グルッと「守り続ける祖父の味」で青木煮豆店を紹介していただきました。



2007年7月31日 火曜日
父が元気になって、退院することになり、市役所に行って介護保険の手続きをしたり、今日は退院後の生活のことなどでケアマネジャーと病院で打ち合わせをしていました。母が来て、話しが長くなり、私はまだ夕方から用事を入れていたので、あわてて帰宅して、また別件で外出をしました。


2007年7月28日 土曜日
お昼から近江八幡で「O(ゼロ)からの風」http://www.zero-karano-kaze.com/contents/index.phpの試写会があり、どうしても見たかったので朝5時ごろから起きて、仕事が早く片付づくように頑張っていました。西大津に行きましたが、人身事故で湖西線が遅れていました。遅れては映画も見られないので、あきらめて家に帰り、汗だくになって釜洗いなどをしていました。とても残念でした。



2007年7月17日 火曜日
午前中は仕事をして、昼からATCへ後片付けに行きました。いいお天気でしたが、平日なのでひっそりしていました。メッセージ展の写真もたくさん写しました。寄付金を計算していましたが、たくさんの善意でした。心から感謝です。(通勤ラッシュの前に早めに帰りました。)



2007年7月13日 金曜日
仕事の日でしたが、台風接近のためお休みにしました。お昼前に大阪のATCに「生命のメッセージ展 in 大阪南港 ATC」開催前のお手伝いに行きました。関西でメッセージ展があるのも久しぶりで、遺族の方にも会えて、いろいろ話ができて嬉しかったです。



2007年7月11日 水曜日
お昼にお電話があり、夕方に訪れても良いかということで、大村議員が安城市から大津に来られて、悠の仏壇にお参りしていただきました。テレビの件で心配していただいていたようで、とても優しい方でした。お店にも寄っていただいてお豆など購入していただきました。かまどのある作業場をご覧になって、懐かしい感じがするとおっしゃっていました。お忙しい中、貴重な時間にお話できて良かったです。



2007年7月6日 金曜日
朝早くから何度も平岡議員からお電話がありましたが、仕事は休みなので疲れて寝ていました。悠の月命日に国会議員からお電話があることも凄いことなので、これを機会に少年法や被害者の立場が見直されればと願います。
昨日昼から外出したため出来なかった、鍋や釜洗いを2時間ぐらいしていました。昼からはスイミングや郵便局に振込みや銀行に行きました。テレビ出演後、皆様からたくさんの励ましのメールをいただきました。ありがとうございます。


2007年7月5日 木曜日
朝6時ごろから、ゴマメを炊いたり、昆布巻きを炊いて味付けをしてお昼頃まで商売に出かける準備をしていました。昼からは用事があり、その準備をして京都に出かけました。夕方、夕食の材料を買って帰宅しました。時計を見ながら夕食を作っている時に、郡和子議員から携帯電話に掛かってきました。(6月18日に名刺交換をしていました)「国会開催中で忙しくて、お電話を掛けるのが遅くなった」とおっしゃっていましたが、「私はかえって民主党批判になり、迷惑をかけて申し訳なかった」と言いましたが、夕食を作ってすぐ外出をしなければならなかったので、すぐ切りました。長男が帰宅して、遅れながらスイミングに行きました。帰り道、週刊新潮7月12日号を買いました。
「少年犯罪被害者」に冷淡だった民主党「法務大臣」が紹介されていました。帰宅後、平岡議員から謝罪の電話がありました。


2007年7月4日 水曜日
平岡議員の発言が反響を呼んでいるようです。
http://jp.youtube.com/watch?v=qmjLPH9CKGA

2ちゃんねるでも平岡議員の発言が大問題になっております。
http://news23.2ch.net/test/read.cgi/news/1183262314/

私も2チャンネルから知って、平岡議員のHP(http://www.urban.ne.jp/home/hideoh29/hitokoto.htm)を見ました。正直、お詫びとは本人に直接謝ることではないのでしょうか?会うことが無理なら電話かメールか手紙で直接謝るべきだと思います。平岡議員は自分でどんどん墓穴を掘っているようで、かえって心配します。限られた時間とはいえ、平岡議員や郡議員の人間性が画面にでたと思います。ただ、私としては現実はこういう偉い人が多いです。障害2級の悠が1時間以上のむごい暴行を受け、バックドロップなどプロレス技を見ていた見張り役3人に法的責任を求めた民事訴訟をしましたが、去年の12月13日に敗訴しました。大阪高裁の若林裁判長も最悪でした。若林裁判長は判決理由で、「3人が暴行の制止や通報など、何の措置も取らなかったのは道義的には非難される」としながらも、「加害少年の仕返しを恐れて通報しなかったとしても個人の自由」などとして法的責任を認めませんでした。意見陳述後、2ヶ月足らず「審議します」は何のためだったのでしょう。敗訴後は、悠の最後の言葉になりました「おじいちゃんの佃煮屋を手伝いたい」を長男と二人でしています。さらに働くようになり、仕事が忙しいので、あまり落ち込んだり、泣いたりはしてません。疲れて寝るという生活をしています。(おじいちゃんは悠が亡くなって寝たきりになりずっと入院しています)悠の生きたくても生きられなかった分まで、商売で頑張って実績を残していきたいです
平岡議員を責めるよりも、少年法が廃止になったり、殺人を犯した少年は裁判が行われ、真実が追求されるよう願います。


2007年6月30日 土曜日
昼から交通遺族の米村泰彦さんの追悼コンサートに行ってきました。命を奪われてから10年が経ち、泰彦君の誕生日に行われました。作品や歌によって生き続けている凄さを感じました。メッセージ展のメンバーにも会えて少しホッとした時間をもらいました。大津でメッセージ展を開催した時、お世話になった方にもお会いできて良かったです。

今日から大阪市浪速区の「なんばパークスシネマ」で、映画「0(ゼロ)からの風」(塩屋俊監督)が上映されます。
この映画はフィクションですが、主人公のモデルとなったのは、「生命のメッセージ展」の代表をされている鈴木共子さんです。
映画では、飲酒運転で19歳の一人息子を亡くした母親が刑法改正署名活動や、命の尊さを訴える活動に取り組み、息子さんの人生を代わりに生きようと、大学受験に挑戦していく母親の姿が描かれています。
従来の映画とは異なり、この映画はすべて企業・団体・個人の寄付金で制作されています。まだまだ寄付・協賛の協力が、たくさん必要だそうです。
映画および寄付に関するお問い合わせは、http://www.zero-karano-kaze.com/または電話03(3237)7004、ウィル・ドゥへ。


2007年6月29日 金曜日
午後8時から 、読売テレビで  「太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中」が放映されました。長い時間の議論を編集されますので、平岡議員の悠を殺した加害者にも「事情がある」が流れるのかがわかりませんでした。
弱い立場の人のために、世の中を安心して暮らせるために日夜努力を議員の方はされていると思いましたが、間違っていました。民主党の平岡議員が「加害者にそれなりの事情があって」殺す事情があると言ったのです。私が怒り心頭していました。平岡議員が「加害者に死の恐怖を味わせたいという気持ちで、青木さんがそれで幸せか納得すると思えない。 悪いことをしたことにそれなりの事情があって」 私「事情!」私は怒っているのに、まだ真面目な顔をして「彼らの育った環境、親とかの関係がどうなってもらいたいか、加害者に反省して、これからの人生をどのように歩んでもらいたいか」などおっしゃっていました。
メールで
悠君のお母様、よく耐えられました。最後まで理性的でおられました。私だったら、あの議員を馬乗りになって、殴りかかっていたと思います。

私は正直、平岡議員に「収録が終わっての帰り道、少年の暴漢に襲われて命を奪われても同じことが言えますか」と言いたかったのです。愛する家族を残して殺されても何も言えません。私は言葉の暴力に頭にきていましたが、ぐっと我慢して被害に遭うということを説明しても、平岡議員は私に謝罪もなく、まだ真面目に加害者の更正を言っておられたので頭が変かと思いました。HPを見ましたら東大卒でした。裁判官も変でしたが、平岡議員も最悪でした。
 
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B2%A1%E7%A7%80%E5%A4%AB  に紹介されていました。
 2007年6月29日に放送されたテレビ番組『太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。』(日本テレビ)に民主党ネクスト法務大臣として出演した際、番組内で行われた少年法問題での討論のなかで「障害者が高校に行くのは生意気だ」との理不尽な理由で暴行を受け死亡した少年の遺族に対して、「(加害少年には)犯罪を冒す事情があった」と発言したことが批判を浴びた。

しかし、「少年法を廃止」とテレビで大きく取り上げていただいたことは感謝です。たくさんの方から応援のメールをいただきました。現在は仕事を忙しくしていますが、将来「少年法を廃止する」運動は続けていきたいと思います。
殺された悠の命を生かしていきたいです。


2007年6月26日 火曜日
用事があり、湖西線に乗っていたが、昨日の日記が思い出され、また窓の外を見ながら泣いていました。家に居ると朝から夜遅くまで仕事があるので、疲れて悲しみや怒りは少しは横において暮らしています。
いつも疲れて寝るという生活をしてて、夜中に目が覚めると辛いです。



2007年6月25日 月曜日
あることに必要になり、過去の日記を見ていたら、悠の6歳の誕生日のことが書かれていた。何が欲しいと聞いても泣いて答えなかったが、大津のおもちゃ屋さんに一緒に行って、ドクターマリオのフャミコンを買った。ケーキと鯛を買ってお祝いをしたことが書いてあって、その日のことを鮮明に思い出し、泣けて泣けて仕方がなかった。悠の幸せを望んでいたのに、こんな惨い目に遭って、加害者は普通に暮らしていて、気が狂わないほうがおかしいと思う。



2007年6月18日 月曜日
朝早く起きて仕事の準備をして、東京に出かけました。初めてのテレビ出演でとても緊張していました。月曜日のせいか新幹線は混んでいました。新幹線の中で悠の記事をコピーしたものをホッチギスでとめていました。
被害者として参加したので、控え室で長い時間待っていました。お化粧などしていただけるのかと思っていましたが、何もありませんでした。大津は雨が降っていましたが、東京は晴れていました。
最終の新幹線で帰り、新幹線の中でいただいたお弁当を食べていました。(これで即体重は戻ったと思います)

番組名         「太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中」

放送局    日本テレビ放送網(全国ネット)

司会      爆笑問題

放送日      2007年 6月29日(金) 20時〜20時54分(予定)



2007年6月17日 日曜日
朝からテレビなどを見ながら食器を洗っていました。ダイエットをしているのでお腹がすいて元気がでません。父の日でも何にもできないので、昼からは父のお見舞いに行ってきました。夜は明日の準備をしていました。



2007年6月16日 土曜日
午前中は近くのコピーセンターにコピーに出かけました。昼からは近江八幡に出かけました。11月に開催されます滋賀のメッセージ展の打ち合わせがありました。帰りに新幹線の切符を買って、夜は下鴨神社に蛍を見に行きました。幼い頃は見たことがありますが、久しぶりに見ました。昼間に見たらきっと綺麗な水のせせらぎと思いますが、水辺に蛍が舞っていました。静寂でなかったのが残念でした。


2007年6月1日 金曜日
折角伸びている木をたくさん切ったので罰が当たりそうです。お昼に自転車で郵便局に行きましたが、突然歩道に車が出てきたので、自転車ごと車にぶつかりました。私が良く見ていたのと、スピードがあまり出ていなかったので無事でした。昼からはスイミングに行きました。また夜は山椒の実を選っていました。。


2007年5月30日 水曜日
2〜3時間寝て、また朝から仕事をしていましたが、電話線に枝が伸びて当たっているので、隣のおじさんがしつこく切れと言われ、私はプチっと切れて、電動のこぎりを持ってきて、2本の木を下から切ってしまいました。
春からしつこく言われていましたが、悠が元気な頃から伸びている木を切りたくなかったので、無視していましたが・・・。木を切って駐車場に山積みにしていましたが、まだおじさんが来て、違う木も切れ切れとうるさく言うので、「勝手に切ってください」と言ったら、のこぎりを持ってきて、下から金木犀の木を切り、バラの枝まで折れてしまいました。以前は花壇に脚立を置いて切ったので花は枯れてしまいました。郵便局や銀行に行く用事もできず、お豆も焦げそうになり、枝の後処理をしていました。大きなゴミ袋が10個ぐらい出来ました。本当に不愉快でした。


2007年5月29日 火曜日
午前中は仕事をして、昼から草津に行きました。組合のお金を積み立てたまま、そのままになっていたので解約に行きました。夜から朝方まで市場で買った山椒の実を選っていました。


2007年5月26日 土曜日
午前中は仕事をして、昼からは美容院に行き、夜は30年ぶりぐらいの元職場(カードユニット工場)の初めての同窓会に行きました。
新聞などの報道で陰ながらとても心配していただいた方には、元気そうな私に安心をしてくれました。少し?太った私に「ふっくらしたね」と言われました。お世辞で昔も現在も肌は綺麗と言われ、私は「毎日お豆を食べているから」と答えていました。皆は孫の世話や、外国旅行、カラオケ、家庭菜園など悠々自適なのに、どうして私は朝から夜遅くまで働いているのかと思いましたが、仕事のあるありがたさを感謝しました。
私より若い方で孫が9人の方が居たり、昔も現在も変わらず可愛い方が居て、羨ましい限りでした。30年前にタイムスリップし、話が弾みました。男の方のほうがやつれていました。


2007年5月25日 金曜日
産経新聞の夕刊に改正少年法成立に伴い被害者遺族の言葉を載せていただきました。
私は加害者の年齢でなく殺したことに対しての罰を与えて欲しいです。悠の命を奪った加害者には命で償ってもらいたいし、それが無理なら死の恐怖を関わった人達皆に味わってもらいたいです。どんな思いで意識が薄れて行ったかと思うと耐えられません。厳罰化という前に、罰も与えられずにのうのうと生きている加害者の現状をもっと把握してほしいです。


2007年5月19日 土曜日
11月に近江八幡で生命のメッセージ展が開催されます。http://www.eonet.ne.jp/~inochim2007/
竜王町橋本の交通遺族の田中さんが開催責任者です。滋賀開催は2003年10月大津で開催以来2回目です。実行委員会があり、久しぶりに参加しました。3月、4月は仕事も忙しかったこともありますが、辛くて参加できませんでした。是非皆様に会場に訪れていただきたいです。


2007年5月15日 火曜日
父が元気になって食べれるようになり、胃ろうのチューブを取りに日赤に行きました。午前中は仕事だったので、朝もお昼も食べずにタクシーで行きましたが、病院で2時間も父の背中をかきながら待っていたのでとても疲れました。
父が元気になってとても嬉しいです。皆様にご心配をおかけしました。励ましていただいてありがとうございます。


2007年5月11日 金曜日
久しぶりにスイミングに行き疲れました。体重は増えたままでした。


2007年5月4日 金曜日
ゴールデンウイークは仕事はお休みだったので、何年か振りに冷蔵庫の中のものを全部出して掃除をしました。たくさんの調味料などの残りが賞味期限切れでした。たくさんのことの整理が出来ていないので、これからぼちぼち片付けていきます。


2007年4月30日 月曜日
信楽の陶器市に行きました。信楽焼きの食器を少しづつ集めています。普段より安くてお湯飲みやお茶碗を買いました。


2007年4月28日 土曜日
午前中は仕事をして、午後から大阪被害者支援アドボカシーセンターの追悼会に初めて参加させていただきました。悠の7回忌では泣けなかった私も、追悼会のアベェ・マリアなど献歌を聞いて涙が溢れました。
交流会で挨拶をさせていただいて「12月に敗訴して、今年は仕事を頑張っていこうと思っています。現在は佃煮屋のホームページを作ろうと勉強しています。生きたくても生きられなかった悠の分まで残りの人生を有意義に過ごしたいと思っています。」と佃煮屋の宣伝もさせていただきました。悠がおじいちゃんの商売を手伝いたいと言っていたので、それを守っていきたいと思います


2007年4月20日 金曜日
交通遺族の方の裁判に大阪高裁に行きました。自分の裁判以外の傍聴は初めてです。
相手方の反論でしたが、弁護士が弁解をしていました。遺族が傍聴席の1番前に座って、2列目に娘さんが遺影を持っておられました。被害者なのに、傍聴席に座るのが理解できなかったです。
大阪に行ったので帰り道、本屋さんに寄って、ホームページの本を買ってきました。(悠のHPを立ち上げた時は、図書館で借りて独学でしました)これなら最初から本を買って独学でしたら良かったと思いますが、何事も経験なので・・・
裁判所に行く時、歩道橋でおばさんが手相を見て、長女なので、家の運命を皆持つみたいなことを言われたり、子供と縁が薄いとか言われ、興味がありましたが、おっかないので、時間が無いからと断りました。
これだけいろいろあると占ってもらったり、改名したほうがいいかもしれませんが、悠は戻ってきません。


2007年4月19日 木曜日
2月から商売用のホームページを立ち上げたくて、家の近くのパソコン教室に週2回習いに行っています。
悠の命日に佃煮屋のホームページを立ち上げたくて、倍の月謝を払っていましたが、月謝ばかり高くて、習いたかったことを教えてくれません。今日もパソコン教室に行きましたが、「本を買って自分で勉強してください」と言われました。3ヶ月も高い月謝を払ってきたのに、約束と違いますが、文句を言ったら、私の頭が悪いと言われそうです。今からプロの人に頼むとまたお金が要るので、ボチボチ本を見ながら勉強していきます。


2007年4月6日 金曜日
悠が亡くなって6年経ちました。毎日悠のことばかり思いますが、気が狂わないで生きている私がいます。毎日、自分を責め、ため息ばかりついています。今日は仕事が休みなので長男と京都に用事で出かけました。
1月頃から歯が痛んでいたのですが、歯医者に行けなくて、やっと夜に行きました。麻酔をされたのですが、歯を抜いた時は、気絶するほど痛かったです。このまま悠のところへ行くのかと瞬間思いました。
悠は交通事故に遭ってから、歯の治療もしていたので、歯医者に行くのも辛く、治療もせずほっていたので顔も腫れていました。(抜くのだったら、もっと早く治療に行けば良かったと後悔しました。)


2007年4月4日 水曜日
今日は久しぶりにやまとの湯に行ってきました。家のお風呂も入らないし、スイミングも休んでいたので、長男に不潔と言われ行って来ました。気持ち良かったです。回数券を何年も前に買って、今日始めて使いました。


2007年4月2日 月曜日
今日も朝早くから仕事をしていました。釜や鍋洗い、塩昆布切り、にしん切り、昆布を巻いて夜は徹夜で蒔きで焚きます。夕食は近くのジャスコへ買い物に行きましたが、親子連れや男の子を見るだけで涙が出ます。沖縄で買った泡盛を飲みながらHPの日記を更新しています。一時期アルコールを飲まないようにしていたのですが、今の時期だけは許してと飲み続けています。お風呂も入らないし、服を着たまま疲れて寝るという生活を長くしています。もうそろそろ悠が元気で居た頃のように、普通の生活をしないと悠に申し訳ないとは思っています。


2007年4月1日 日曜日
朝から掃除をしていました。お坊さんに昼から御参りをしていただきました。お経とお話がありましたが、「悠ちゃんはあの世でお母さんが来てくれるのを待っている」とお話されました。私は悠ができなかったことをこれから商売で頑張っていくこと、いつも悠がお母さんを守っていてくれるなどとお話しをさせていただきました。兄夫婦は千葉から、妹夫婦は大垣から来てくれて身内だけでささやかに行いました。



2007年3月31日 土曜日
私にとって1年で一番辛い日です。朝早くから仕事をしていました。昼からは明日の7回忌のため部屋の掃除をしていました。時計を見るたびに、今は呼び出された時間、殴なられていた時間と苦しくて張り裂けそうでした。
仏間も掃除していましたが、悲しくて悲しくて辛かったです。夜にお花を贈ってくださった方にお礼の電話をして、夕食の時、泡盛を飲んで早めに寝ました。


2007年3月25日 日曜日
あれだけ飲んだのに二日酔いはしませんでした。石垣島の方が私のために同じホテルに宿泊して下さって、朝食も一緒にしました。またどこかに行きたいかとか、何を食べたいかなどいろいろ聞いて下さって飛行機で旅立つまで付き合っていただきました。私はブリッ子で宮本亜門さんのお家を見に行きたかったのですが遠いのと、朝は雨も少し降っていたのであきらめました。心のどこかで観光で来ている訳でないという気持ちもあります。お昼に沖縄を出て大阪に着き、18時ごろに自宅に帰ってきました。母におみあげや無事に帰ってきたことを伝えましたが、七回忌の前に掃除もしないで出かけたことを怒っていて厭味ばかり言っていました。私としては悠が亡くなって南の島に出かけられたことを喜んでいましたが、身内にはなかなか理解してもらえません。沖縄タイムス・琉球新聞が大きく報道していただきました。



2007年3月24日 土曜日
朝、ホテルの近くのコンビニでコピーなどをしていました。首里の近くで久米島の陶器のギャラリーでコーヒーのカップの気にいったものがあり、また見に行ったのですが、私にとっては高価だったので買えませんでした。少しお店の方といろいろお話をして講演会場に行きました。2時から打ち合わせをして4時から講演がありました。わざわざ石垣島から少年犯罪の遺族の方が聴きに来てくれました。被害に遭って11年とおっしゃっていましたが、何年経っても癒されないということは強く感じました。テレビや新聞記者の取材もあり盛況に終わりました。夜、スナックに行って泡盛を飲みました。おいしかったです。
ひだまりの会okinawa―犯罪被害者支援
HP:http://homepage2.nifty.com/hidamari-okinawa/


2007年3月23日 金曜日
徹夜で後片付けなどして朝少しうたた寝をして沖縄に行く準備をしていました。24日に沖縄で開催されるひだまりの会に講演の依頼をうけて旅立ちます。悠は小学生の春休みの時、長男と奄美大島に遊びに行っていました。亡くなった春休みも奄美大島に来ていたら殺されることは無かったと友人から言われていて、返す言葉もなく南の島にはもう行けないと思っていたので、招待されたことはとても嬉しかったです。久しぶりに飛行機なので早めに伊丹空港に行きました。那覇にPM2時過ぎに着き、ゆいレールに乗ってホテルにチェックイン後、首里に行きました。夏のように暑くハイビスカスなど花も咲き乱れていました。首里周辺や国際通りや市場など5時間ぐらい歩きました。首里城に行った時、学生さんに観光ですかと質問されてはいとは答えられませんでした。でも久しぶりに一人でいろいろ歩けて良かったです。



2007年3月13日 火曜日
午前中は仕事をして昼から確定申告を見直して、自転車で税務署に提出に行きました。夕方、横浜から大津に講演に来られた方から電話があり、ホテルまで会いに行きました。早めに確定申告を提出できたご褒美のようでとても嬉しかったです。遺族同士のお話は遠慮がなくいろいろお話ができてパワーをもらいました。毎日のように全国を講演されているので陰ながらとても心配をしていましたが、お元気そうで安心しました。夜遅く自転車で帰宅して夜中にお豆を付けていました。


2007年3月12日 月曜日
徹夜で確定申告をまとめました。今までずっと夜中はパソコンの画像の勉強をしていましたが、あまりはかどっていなくて、あきらめて確定申告のまとめをしていました。


2007年3月6日 火曜日
2月から4月に商売のホームページを立ち上げたいとパソコン教室に昼間通っています。画像の合成とか習っていますがあまりはかどっていません。悠のホームページは独学で短期で作ったのですが、商売になるとお金も絡むのできちんと習わないといけないと思って勉強しています。昼からパソコン教室に行き、保健所に行き、7回忌のお願いにお寺さんに頼みに行きました。


2007年3月2日 金曜日
朝早く起きて原稿の作成をする。湖西線が遅れては困るので早めに出かけました。京都から近鉄に乗って、伊勢に行く。宮川医療少年院に講演に行くためだ。電車の中で原稿を読むが何度読んでも涙が溢れる。悲しいほどいいお天気です。
年末に新聞記者の方に何度も何故少年院に講演に行くのかと質問されましたが、再犯して欲しくない、同じ悲しい想いをする遺族を作りたくない、悠の命をいかしたい想いがありました。少年たちの服の色はとか、靴はとかいろいろ質問されましたが、あまり見ていないし覚えていませんでした。悠と同じぐらいの年頃の少年達が何らかの罪を犯して、少年院に入っているのですが、何故かも聞かないしわかりません。悠を殺した加害者には命で償ってもらいたいと願っています。でも少年院の少年たちには退院したら強く生きて少しでも幸せになってもらいたいと願っています。矛盾していますが・・・・ 帰宅後スイミングに行きました。唯一少し気分転換になります。


2007年2月25日 日曜日
明日26日に悠の事件を取り上げていただいた本が発売されます。

『殺された側の論理』(講談社)藤井誠二著 2月26日発売!
「まえがき」と目次を先行公開。http://ameblo.jp/fujii-seiji/
HPより抜粋させていただきました。
 第3章は、少年法改正の前日に、少年からリンチを受けてわが子を殺された青木和代さんの闘いを描いた。直接の加害者はもとより、リンチの現場に居合わせながら止めにはいらなかった「見張り役」の少年たちに対しても、青木さんは損害賠償請求訴訟を起こし、法的責任を追及してきた。


2007年2月24日 土曜日
午前中は仕事をして昼から近江八幡へ打ち合わせに行きました。今年11月に近江八幡で生命のメッセージ展IN滋賀が開催されます。
開催日 2007年11月16日(金)〜18日(日)
場所   滋賀県立男女共同参画センター(近江八幡市鷹飼町)



2007年2月11日 日曜日
いつも父のお見舞いは夕方に行くのですが、今日は昼前に行きました。父が車椅子に乗って自分の手でおかゆを食べる姿を見てとても嬉しかったです。毎日悠のことを想って涙ぐむことが多いですが、久しぶりに父の元気な姿を見て涙ぐみました。



2007年2月9日 金曜日
私の誕生日です。私が水着をほしがっていたので、仕事が終わってから、長男と一緒に草津まで買いに行き、帰りは夕食をご馳走をしてもらって帰ってきました。


2007年1月28日 日曜日
下野新聞「犯罪被害者」取材班が「疋田桂一郎賞」受賞。
昨年8月の栃木県宇都宮市で開催された「生命(いのち)のメッセージ展inとちぎ」に端を発した一連の報道が、第11回新聞労連ジャーナリスト大賞の中の、「疋田(ひきた)桂一郎賞」に選ばれました。
受賞報道の一部が下野新聞社のホームページでも掲載されています。ぜひご覧ください。http://www.shimotsuke.co.jp/hensyu/prize/ 

青木悠の事件時の報道被害を掲載していただきました。
企画・犯罪被害者報道 とちぎからの報告(2)裏付け取材/当局発表に頼る危うさ


2007年1月20日 土曜日
判決後の日記を書きました。いつまでも落ち込んでいても、裁判官を恨んでもどうにもなりません。1日の産経新聞が紹介してくれましたが、悠が商売を手伝いと言っていたので、悠の分まで頑張って仕事を大切にしたいし、悠の事件で寝たきりになった父の分までも頑張って商売を守って生きたいです。悠にパワーをもらってこれからも前向きに頑張ります。美味しい物を毎日同じように作る難しさを感じ、悩みながら日々努力をしています。


2007年1月19日 金曜日
今日は休みなので昼間もスイミングに行き、手続きの件で保健所にも行きました。その帰り道、中学の恩師のお宅に寄って、裁判が負けたことを伝えました。私が元気そうにしていたので安心されました。いつもお豆の煮汁を飲んでいるので顔色はいいです。。


2007年1月18日 木曜日
今日はお昼の料理番組をみてかきフライを作り初めてタルタルソースを作りました。またスイミングも行きました。今は商売のHPを作りたいと準備中です。お豆や昆布巻きなどを通信販売で売りたいと思っています。ずっと言っていてはかどっていません。近いうちに作りますのでよろしくお願いします。


2007年1月15日 月曜日
今日から仕事初めです。新年はゆっくり休めました。長男が生きている僕も大事にして欲しいと言われていて「裁判が終わるまで待って」と私は言っていました。今まで手抜きをしていた夕食はレシピを見て酢豚を作りました。
悠には作らなかったなぁと思いながら・・・
じんけん1月号に 特集● わたし はっしん! 〜ニューイヤー 人権メッセージ〜で 周りに振り回されず自分の道を進んで行く!で紹介さrました。このタイトルは悠の亡くなる前に書いていた言葉です。


2007年1月9日 火曜日
2月か3月頃に本が出る中に、悠の事件も紹介されるので、その原稿の校正を徹夜でしていました。年末年始に取材などあり、悠の事件時のことも何度も聞かれてとても辛かったです。でも聞く人も辛いと思うのであまり泣かずにまだ愛想笑いをしている自分が居ます。いつも悠の嘆きに比べればと思いますが・・・


2007年1月7日 日曜日
中日新聞に掲載されました。 明日がある(6) 敗れざる者たち
 息子を事件で亡くした遺族 被害者の声 伝え続ける 紹介されました。


2007年1月6日 土曜日
大阪の元裁判官のお宅で「少年問題を考える会」があり参加させていただきました。裁判官に遺族の痛みなど知ってもらいたいので、とても辛いですが、悠の月命日でもあり、参加して裁判官に遺族の想いを伝えました。優秀な裁判官にはなかなか被害者の命の重みは伝わらないと思いますが、伝わるまで言い続けたいです。夜は大阪駅の近くで交通遺族の方たちと夕食を共にして話し合いました。


2007年1月4日 木曜日
久しぶりにスイミングに行きました。腰痛もあり、水の中で歩いていました。13日の判決後、暴飲暴食をして2キロぐらい太りました。また運動をして少しは痩せたいです。


2007年1月1日 月曜日
産経新聞が滋賀版一面に きょうから新しい年・・・リセットできないものもある 命の大切さかみしめて 輝いていた夢 息子の命を生かしたい 掲載していただきました。
朝刊を読みながらあまりに悠の不憫を想い泣いていました。
中日新聞も生きるって素晴らしい 明日を信じる人からの賀状  「私は生きたくても生きられない人がいることを考えて、絶対に自殺しないでほしい。悠の分まで幸せになってください。」とおくりました。


2006年12月31日 日曜日
年末は睡眠時間を削って仕事に打ち込んでいます。ほとんど寝ていないと断っているのに、取材がありました。昼から来られて3時間ほど取材がありました。お客さんが来られる、その間の取材でした。写真撮影だけと思っていましたが、それはありませんでした。洗い物は出来ないし、宅急便で送る準備もできず大変でした。年明けにしてほしいと頼んだのですが無理でした。年末のそれまでに何度も同じ方から電話での取材もありとても大変でした。
取材をしていただけるのは感謝なのですが、1年で一番忙しい時期は限界です。


2006年12月30日 土曜日
お店に悠の家庭教師の方がお豆など買いに来られて、その時に聞きました。悠はお母さんが歳より若く見えることを自慢していたとのことでした。中学の時は、参観日など行っても嫌がっていて、買い物もほとんど一緒に行きませんでした。交通事故に遭ってからは、ほとんど毎日一緒の時間がありました。いつも「お母さんお母さん」と言ってくれていました。あれだけ私のことをよく思っていてくれたのに助けることも、幸せにすることもできず辛いです。


2007年12月26日 火曜日
最高裁に上告をしました。裁判費用(24万円ぐらい)はたくさんかかりますが、法律で最後まで戦いたいし、突然理不尽に殺された悠は何の文句も言えません。弁護士さんは名古屋から大津まで来ていただいて、その足で大阪まで手続きに行っていただきました。


2006年12月19日 火曜日
新聞の取材が午後にありました。悠のいろいろな一面を取材していただきました。取材に応じるとその時は写真などは見られます。


2006年12月14日 木曜日
朝日新聞・京都新聞・産経新聞・中日新聞・毎日新聞・読売新聞が判決の結果を掲載していただきました。
本当に残念な結果です。見て見ぬ振りした人も加害者だということが認められれば、少しはいじめの抑止力になると思いましたが何もかも残念です。


2006年12月13日 水曜日
今日は判決の日です。今日まで死ねない、病気にならない、事故に遭わないと自分に言い聞かせてきました。
仕事は休めないので、朝方まで昆布など切っていて、うとうとして雨の音で起きました。雨の音がしていたので、厭な予感がして、記者会見も駄目な時の感想を考えていました。良い結果がでればその反対を言えばよいと覚悟をしていました。悠の少年審判の時などニュースステーションがよく特集してくれたけれど雨が多かったです。私が落ち込まないように、悠ちゃんが知らせたような気がしました。
若林裁判長は「3人は見張りや暴行のあおり行為をしておらず、暴行を通報する法的責任もない」「道義的に非難されるが、加害者の仕返しを恐れて通報をしなかったとしても個人の自由」とまで言いました。記者会見で私の弁護士が怒っていましたが、悠の命が助かれば主犯も喜んだであろうし、命が関わっているのに、若林裁判長の調書にも書いていない自分の意見を判決の書くのはおかしいと言ってくれました。私は信じられない気持ちが強くて、あまり判決を聞いていませんでした。若林裁判長は変です。悠の命の重みも何も伝わっていない。何を2ヶ月以上審議していたのでしょう。良い結果がでて、将来に向けて、新年を迎えて頑張ろうと思ったけれど、遺族の生きる力も若林裁判長は与えてくれないのかと思いました。加害者の母親がチラシを配っていた時、私に怒鳴ってきたけれど、その親が喜んで居ると思うと悔しいです。
テレビ放映は大きな事件の判決もあり、悠の時間は短かったですが、記者会見もあり、たくさん取材していただいて心から感謝です。
夕方帰宅後、また深夜まで仕事をしていましたが、悠が仕事を与えてくれて、気がおかしくならないように守ってくれていると思います。

昨日、膳所高校で人権学習をさせていただいた感想文が送られてきました。朝、大阪に行く電車の中で感想文を読ませていただき、たくさんの励ましをいただきました。ありがとうございます。高校2年生の方でもわかる見張り役3人も同罪だということが、法律の専門家はわからないのでしょうか?


2006年12月12日 火曜日
産経新聞の朝刊の社会面に判決の前に記事が紹介されました。悠の無念の想いが裁判官に伝わって、1時間以上むごい暴行を黙ってみていた3人が法的責任を科せられるよう心から願います。せめて法律で厳しく罰していただきたいです。


2006年12月10日 日曜日
夜中に仕事の後片付けをしていたので朝早く起きれませんでした。9時ごろからお昼までリビングを片付けていました。午後からは取材がありました。その後、久しぶりに父のお見舞いに行きました。悠の保育園の頃のビデオを持っていき一緒に見ていました。悠の保育園の頃の運動会や発表会でした。いじらしいほど頑張っていました。悠の保育園の送り迎えをしてくれていた父にまた昔のように元気になってほしいです。12月は家業も忙しく裁判があるから仕事が手が付かないと言い訳していたらどんなに年末になって困るだろうとわかっていても捗りません。
メッセージ展も今日まで早稲田で開催されていますが行けませんでした。


2006年12月 6日 水曜日
久しぶりにスイミングに行きました。昨日は5日締め切りの原稿をお昼から作成していました。夕方までに作成をしました。仕事の合間にいろいろなことをしているので雑用が溜まり、スイミングは休んだりしていました。スイミングを休むとすぐ体重が増えます。顔が丸々して恥ずかしいです。


2006年12月 2日 土曜日
草津の幼稚園で保護者の方に命の大切さの講演をさせていただきました。講堂ぎっしり100人以上のご父兄の方が熱心に真剣に聞いていただき心から感謝です。草津には33年間通勤しました。仕事を大切にして悠にたくさんの我慢をさせました。後悔しても当たり前の幸せは戻ってきませんが、一番可愛いい時期の3.4.5歳児を育てておられるご父兄の方に、子供達をお金をかけるのでなくてたくさん目をかけてほしいとお話をしました。私は悠にたくさんの習い事をさせていたので、悠にとっては負担だったと思います。とても母親想いの優しい悠だったので、母をがっかりさせないように頑張っていて、今思えがいじらしいです。悠が元気な頃よくガーデニングのため草津園芸に行っていましたが、亡くなってから久しぶりに歩いて行き、苗など買いました。来年の春をめざして植えました。


2006年12月 1日 金曜日
「犯罪被害者週間」国民のつどい 大阪大会に参加しました。お昼は和歌山の遺族の方とお茶をして1時ギリギリに会場に行ったので座る席が無いほどぎっしりでした。第1部は人形劇「悲しみの果てに〜絶望」がありました。第2部は「犯罪被害者を取り巻く問題について」大谷先生の講演がありました。講演のあとロビーで大谷先生と少しお話をさせていただきました。第3部はパネルディスカッションがありました。その後、大阪駅に戻り、裁判前の心境などの取材をうけて帰宅をしました。悠の無念の想いが裁判長に伝わって、せめて法律で厳しく裁いていただきたい。悠の仏壇に良い報告がしたいです。


2006年11月27日 月曜日
今日発売の週刊ポストに青木悠の葬儀の挨拶が掲載されました。

 2006.12月8日号
ニュースを見に行く!「現場の磁力」 ●山藤章一郎  生き残った者の「証言」と死に追い込まれた者の「遺書」
 
亡くなってから5年8ヶ月経ちますが、何年経っても癒されることはありませんが、前を向いて生きていかねばなりません。
改めて葬儀のあいさつ文を読んで、その時の深い深い悲しみを思いました。私はどうして葬儀所に喪服で立っているのだろうという気持ちで、あまりのショックで泣くこともできませんでした。お通夜のあと泊まった葬儀所でどうしたら悠の無念の想いを伝えることができるか徹夜であいさつ文を考えました。会社の取引先の方が弔辞をを聞いて、お昼も食べられなかったと言っていました。
見張り役の3人と母親もお葬式に来ていました。

2006年11月25日 土曜日
昼から大阪市立大学で行われた司法制度を考えるシンポジュウムに参加しました。裁判員制度における課題をいろいろな立場の方がどんな問題点があるかのお話でしたが、被害者になって初めてわかったことは遺族は何も言えないということでした。裁判員制度も大切なことかもしれませんが、まず被害者の権利を確立していただきたいと思います。
天王寺であったので、環状線に乗っていきましたが、悠と将来に向けて、不自由な身体で必死にリハビリに通っていたので(京橋で乗り換えて)きつかったですが、以前のように電車内やプラットホームで泣くことはありませんでした。死因究明も日本は95%以上が犯罪の疑いなしとされ、司法解剖されていない制度の問題があると説明されていました。


2006年11月16日 木曜日
午前中は仕事をして昼から自転車で膳所高校に向いました。途中、平野小学校の横を通りました。運動場で子供達がスポーツに励んでいました。現場で手を合わせたいと思いますが近づけません。
膳所高校は新校舎になって立派な鉄筋で中庭も凝っていました。悠の亡くなった歳の生徒さんに話すのは辛いことですが、生きたくても生きられなかった悠の無念の想いと、大切な命の重さを考えていただけたらと思います。


2006年11月15日 水曜日
今日は1か月分ぐらいの日記を書きました。(10月6日〜)ノートには毎日短い日記をつけています。ボケないようにと漢字を忘れないようにと少し心がけています。たくさんの課題があり、なかなか片付かないし、ここ何年も同じことで悩んだり(家が片付かない)しているので自分自身が厭になることが多いですが、少しづつでも片付けていこうと思っています。


2006年11月6日 月曜日
犯罪被害者の会で知り合った東京の方が、伊勢に講演に行くのにわざわざ京都経由にして会いに来てくれました。午前中は京都駅のホテルの喫茶店で2時間ぐらいお話ができました。午後は仕事です。夜は長崎の遺族の方の手記を読みながら2時間ぐらいゴマメを炒っていました。コーヒーを飲みすぎて身体は疲れているのになかなか寝れませんでした。


2006年10月21日 土曜日
退職した会社のOB会があり、久しぶりに参加しました。署名していただいた方にお礼をと思ったのですが、早期退職制度で退職したので、定年まで勤めた方が多かったので、場違いな感じがしましたが、親切な方も居られて、「来年も出席してください」とおっしゃっていただきました。また昔の上司にお会いでき懐かしかったです。


2006年10月17日 火曜日
報道被害ということで10月16日の下野新聞(栃木県)に紹介されました。

新聞週間企画「犯罪被害者報道」A/裏付け取材/「事実を確認したのか」/当局発表に頼る危なさ
 今年八月、宇都宮市で開かれた「生命(いのち)のメッセージ展inとちぎ」に参加した滋賀県の青木和代さんは今も、事件の内容を詳細に記したチラシを配り続けている。一日千枚にのぼる日もある。「息子の名誉を回復したくて。報道されたイメージをぬぐい去るのは難しい…」
 二〇〇一年三月末、青木さんの息子の悠さん‖当時」ア‖は十五歳と十七歳の少年に呼び出され「障害者のくせに生意気だ」と何度もコンクリートの上に頭から落とされた上「障害者やから助ける価値がない」と放置され、六日後に死亡した。
 せい惨なリンチ殺人だったが、当初の報道は被害者にも落ち度があるかのような内容だった。「ささいなことから口論となり…」。メディアは警察発表をうのみにし、事件の背後にある障害者への偏見などに迫ることはなかった。
 悠さんは交通事故で左半身不随になったが、懸命なリハビリで克服。高校に合格し「お母さんに心配かけた分、親孝行するから」と話していた直後だった。入学式に臨むはずだった日は、葬儀に変わってしまった。
 「加害者は暴力をふるう目的で呼び出した。なんで事実を確認してくれなかったのですか」。青木さんは各報道機関に抗議し、記事の訂正を求めた。息子の生前の様子や事件の構図を記したチラシも作成した。数社は「間違いだった」と謝罪してきたという。
  ◇  ◇  ◇
 「上三川リンチ殺人事件」の被害者・須藤正和さん‖当時」エ‖のケースも、当初の警察発表に報道が引きずられた。
 事件が発覚した一九九九年十二月当時、ほとんどのメディアは「犯人と正和さんは元暴走族仲間」と報じた。捜査していた警視庁が、記者たちに説明したという。
 「正和さんは暴走族だったのですか」。下野新聞の記者たちは発表当日、正和さんの実家がある旧黒羽町などに足を運び、近隣住民や同級生から話を聞いた。「まじめで優しい子」が、一致した見方だった。
 警察発表と記者が集めた情報の不一致。下野新聞は「被害者の名誉を考えれば、あやふやな情報は掲載できない」と判断し、「暴走族」と記事化するのを締め切り直前に見送った。
  ◇  ◇  ◇
 速報性などを重視するあまり、捜査当局の発表だけに頼り、記者自らが事実関係を確認するという「基本」がおろそかになるケースがある。そこには被害者の人権を傷つけたり、真実を見失うという落とし穴もある。
 被害者支援などに取り組んでいる白おう大法学部の平山真理講師(刑法)は、被害者から話を聞く意義について「誤報を防止するばかりでなく、メディアの最大の使命である権力の監視にもつながる」と力説。メディアの適切な働きかけを求めている。

2006年10月8日 日曜日
いいお天気にも恵まれ高野山の奥の院にお参りに行きました。観光客も多く、駐車場は一杯でした。紅葉は少しだけでしたが、晴れていて遺族同士で愚痴をたくさん聞いてもらい元気をもらいました。明日は午前中は取材があり、午後は仕事があるため夕方には和歌山をあとにしました。


2006年10月7日 土曜日
午前中は洗い物をして、父の病院に少しだけ寄って、大阪に行きWILLに参加しました。悠の事件の遭った年に会員でないがスピーチさせていただいた以来5年ぶりです。懇親会にも参加させていただき、和歌山の遺族の方と一緒に和歌山に行きました。泊めていただいて夜遅くまで話をしていました。
京都新聞が昨日の裁判のことを掲載してくれました。


2006年10月6日 金曜日
夜中から原稿を作成して意見陳述(30分)を声にだして読む練習の時間もありませんでしたが、悠の無念の想いを涙ながらに必死で若林裁判長に訴えました。真剣に聞いていただき、「審議する」とおっしゃっていただき、12月13日(水)午後1時15分から判決になりました。 判決 12月13日(水) 午後1時15分〜
このまま事務的に裁判が終わってしまったら、泣くにも泣けないと思っていましたが、壮絶なリハビリのあとに、むごい殺人が待っていた悠の言葉に表せないぐらいあまりにもむごい事実を話す機会を月命日に与えていただいて心から感謝です。
急な案内だったのでテレビの取材は0でしたが、お忙しい中、記者の方や先生や大学生の方に意見陳述を聞いていただいて感謝しています。
夜中に原稿を作成してて、プリンターのカートリッジが無くて、印刷ができなくなり、あわてていましたが、パソコンの添付資料で送付して、早朝から印刷や私の朝食や応援傍聴に来ていただいて感謝です。大津の地裁の時も大阪から応援傍聴にきていただいていましたが、本当に困っている時にたくさん助けていただいて心から感謝です。A先生ありがとうございます。
午後は雑誌の取材があり、あわてて大阪から帰宅して掃除をしていました。夕方まで取材があり、夜は疲れていましたが、スイミングに行きました。


2006年10月5日 木曜日
今朝弁護士さんから、明日意見陳述ができると聞きました。午前中は仕事があり、午後からメールやFAXで明日応援傍聴に来て欲しいと連絡をしていましたが、1回目の裁判は5分も無かったので、応援傍聴に来て欲しいと言いにくかったです。急な勝手なお願いですが、もしお時間に都合が付く方は是非聞きに来てください。よろしくお願いします。

第2回口頭弁論 10時〜意見陳述 第83号法廷(8階) 若林諒裁判長 大阪高等裁判所 別館 8階 

午前中は仕事があり、午後からFAXやメールをしていました。夕方からは美容院に行って、また髪を短くしました。PM11時ごろから明日の意見陳述の原稿を作成していました。


2006年9月15日 金曜日
近鉄で伊勢にあります宮川医療少年院に講演に行ってきました。少年達が35人ぐらい聴いていただきました。泣いて原稿を読むのでなかなか少年たちの顔を見ることはできませんが、まだ幼い顔の男の子が居ました。どんな悪いことをしたのかわかりませんが、被害者の気持ち、母親の子供に対する愛情など少しでもわかっていただいて再出発をしてもらいたいと思います。秋が感じられる爽やかなお天気でした。行く時は原稿を読んで泣いていました。帰宅後スイミングに行きました。


2006年9月9日 土曜日
京都新聞が昨日の裁判のことを掲載してくれました。


2006年9月8日 金曜日
初めてなので早い目に大阪駅から歩いて大阪高等裁判所に行きました。10時から第1回口頭弁論が開かれました。同じ時間に2件の裁判があり、「弁護士さんが揃ったほうから始めます」とのことで最初にありました。裁判長が弁護士さんに「準備書面とおり」「答弁書とおり」と確認されて5分もありませんでした。青木悠の命の重みも悠の事件の内容もわかっていただけているのかとても不安でした。新聞記者の方も来ていただいていたので、その場は泣きませんでしたが、帰り大阪駅から電車に乗ってあれだけリハビリ頑張ってた悠があまりに不憫で泣いていました。大阪駅は悠とリハビリに通っていた所なので、あまり歩けない悠をゆっくり1歩づつ歩かせていたことを思い出し、殺されてしまった悠は何も言えず加害者の言い分ばかり通って、被害者は我慢ばかりしないといけないのだとさらに悲しくなってきました。理不尽に殺された悠の無念の想いが裁判官に通じることを心から願います。次回は10月6日10時から裁判があります。


2006年8月29日 火曜日
今日は悠の22歳の誕生日です。生きている悠に逢いたい。毎日逢いたい、逢いたいと思っていたら悠は心配するだろうと思って、できるだけ普通に暮らしています。そういう無理をしている自分が厭になることもあります。
9月8日に裁判がありますが、なかなか資料を読む元気もなく仕事は頑張ってしていますが、仕事の無い時はボーとしています。悠の誕生日までに商売のHPを立ち上げようと思っていましたが、できませんでした。
悠は頑張りやで、私が悲しまないように身体が不自由になってもいつもニコニコしていたことを思うと、アカンたれのお母さんでごめんねと謝っています。いつも悠の分まで頑張ろうと思いますが身体が付いていきません。


2006年8月28日 月曜日
枝の処理をしていたらまた近所の方が「裏の枝が伸びているので9月のお祭りまでに切っても良いか」と言われた。裏は神社で悠の部屋が木で覆われているようになっていた。2階の悠の部屋から屋根に上って電動のこぎりで枝を全部切ってしまった。たくさん実ができていて時々鳥が来て食べていたのに残念ですが・・・。切るのは簡単ですが、それをゴミ袋に入れるのに小さく切らないといけなくてあとの処理が大変で手や足に虫刺されや傷がひどかった。


2006年8月21日 月曜日
朝から枝処理をしていて毛虫に刺されて1日痛かった。
メダカも苦しんで死んだと思うともっと注意していたらとと後悔しました。悠が元気な頃から飼っていたメダカなのでとても残念です。


2006年8月20日 日曜日
外出から帰宅したら、隣の方から枝が伸びていると言われて枝をたくさん切ってそのままにしていました。前日、親メダカが風に飛ばされたのか洗剤が入ったので全部死んでしまってかわいそうなことをしたと後悔していて、あとの小さなメダカの水を替えていました。夕方は父のお見舞いに行きました。


2006年7月22日 土曜日
札幌の方より連絡がありました。
6月11日の日記でお願いしました、北海道中標津(なかしべつ)の木村悟君事件の真相解明を求める署名の中間経過報告です。
釧路検察審査会は7月20日、不起訴「不当」を議決しました。

皆様の御協力で6月以来、1か月という短期間に不起訴「不当」の議決を求める署名が集められ、7月10日の2回目の提出で1回目と合わせ8091筆の貴重な声が届けられました。これも審査委員の良識に響き、今回の不起訴「不当」という重要な判断につながったものと思われます。本当にご協力ありがとうございました。

時効が本年10月です。これまでの捜査姿勢を改め正式起訴させるために今後ともご支援をお願いします。
報道については、地元TV局の動画ニュースが下記URLで27日まで見られます。
http://www.stv.ne.jp/news/item/20060721083100/index.html

報道記事は以下の通りです。
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「北海道新聞」2006/07/21 09:26

高2標茶でバイク死
地検の不起訴「不当」
釧路検察審査会が議決
  
 【釧路】釧路管内標茶町で一九九九年十月、根室管内中標津町の高校二年木村悟さん=当時(16)=が死亡したオートバイ事故について両親が事件性があるとして告訴した問題で、釧路検察審査会は二十日、単独死亡事故として不起訴にした釧路地検の処分を不当と議決した。同地検は再捜査し、あらためて処分を決める。
 同審査会は議決理由として、木村さんのヘルメットや軍手、靴が脱げていたことに、事故の衝撃ですべて脱落することは考えられないと疑問を指摘。「遺体が不自然な形になっており、何者かの行為で死に至らしめられたことも否定できない」と再捜査を求めた。
 釧路市内で記者会見した母親の富士子さん(49)は「七年間苦しんできた。犯人は今も生きているので、必ず起訴してほしい」と話した。
 木村さんの両親は二○○三年十一月、暴行を受けて死亡した可能性が高いとして被疑者不詳のまま傷害致死容疑で告訴した。道警釧路方面本部が「事件性を裏付ける証拠がない」として昨年二月に捜査を打ち切り、釧路地検も同十二月、不起訴処分としたため、今年三月に審査を申し立てていた。
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なお、木村事件については下記サイトを参照してください。
http://www.mika-y.com/bbs/file3/


2006年7月14日 金曜日
フライデー7/21号「命」を奪った少年たち-その贖罪を問う 短期連載最終回 わが子の命はこんなに軽かった・・・・に悠が脳死にさせられた写真が載りました。命を奪った少年に自分の命で償ってもらいたいです。せめて法律で厳しく罰してもらいたいです。お金は身をこなにして働けば得られますが、命は帰ってきません。毎日、悠に逢いたい・声が聞きたいと願い続けています。朝、目覚めたら悠ちゃんと想いまた寝るまで想っています。忙しさで気を紛らせていますが、その深い悲しみや怒りは日が経てば癒されるものでなく、悲しみや寂しさや自分を責める気持ちは深くなるばかりです。


2006年7月7日 金曜日
先週からフライデーは「命」を奪った少年たち-その贖罪を問うが連載されています。7/14号は栃木集団リンチ事件他が掲載されています。


2006年7月6日 木曜日
大阪高等裁判所に準備書面を送りました。第1回の口頭弁論は9月8日(金)10時から行われます。


2006年6月24日 土曜日
大阪被害者支援アドボカシーセンター設立10周年記念講演会があり、大阪YMCAまで山上先生の講演を聴きに行きました。最近は落ち込んでいて、外出も用事以外ほとんど出かけず家に居ることが多かったですが、久しぶりに外出して有意義な話が聞けまた遺族の方にも会えて良かったです。


2006年6月13日 火曜日
仕事の後片付けをしていたら、母から電話があり「病院に来て」と言うので昼から夜まで病院に行っていました。点滴をしている父を見ていると、悠も点滴のあとで腕などそこらじゅう腫れ上がって痛々しかったですが、いつも悠は泣き言を言いませんでした。病院は辛い場所です。気分的に落ち込んで、また帰ってから釜など洗い物をして、夜遅くコンビニに自転車で出かけました。マンションの裏道から猛スピードで3人乗りの自転車がぶつかってきました。地面にたたきつけられ、もう死ぬかと思いました。顔と両膝を思いっきりぶつけました。帰宅してから消毒と湿布をしました。


2006年6月11日 日曜日
父が入院したので長く日記を更新することができませんでした。ご心配をおかけして申し訳ありません。4月から元気が無かったのですが、私は仕事の合間に署名運動やチラシを配っていたので、父の面倒を見ることはできませんでした。亡くなった悠のことより父の面倒をもっと見なさいと身内から言われていましたが、悠の判決までは私の身を削ってでも法的責任を科してもらいたいと寝る時間を惜しんで頑張っていました。裁判は負け、父は具合は悪いで私自身相当落ち込んでいました。仕事は休まず頑張っていましたが、他にもいろいろ問題があり、あまり悩むと頭が痛くなってきました。ストレスが病気の原因になるので、悩まないようにしていますが、うたた寝はしても熟睡ができなくなりました。

北海道中標津(なかしべつ)の木村悟君事件の真相解明を求める署名への支援と協力のお願いをさせていただきます。事件の経過等は柳原三佳さんのホームページのhttp://www.mika-y.com/bbs/file3/
を参照してください。柳原さんは「死因究明」(講談社 2005年10月刊)でもこの事件の問題を詳しく取り上げています。
現在釧路検察審査会で不起訴の審査が行われているところです。審査会は6月15日には母親富士子さんへの尋問を行うなど審議を開始していますが、7月の議決も予想されます。

フライデーのあまりにむごい木村悟君が目を見開いて亡くなった写真を見て、その痛ましさに胸をつかれました。1名でも2名でも良いので署名をFAXで木村富士子さん宛てに送ってください。
木村富士子 TEL/FAX  015372−6984 最終は6月中ですがそれまでに1名でも署名をよろしくお願いいたします。


2006年5月24日 水曜日
『生命のメッセージ展in 国会  Part2』がサンデー毎日(6.4号)に載っています。W杯の中田英寿選手の写真の次に声なき叫びに悠のオブジェが掲載されています。カメラマンを通しメッセンジャーたちが社会へ生命の重みを伝えています。判決後、落ち込んでいて何もする気がおこりませんでしたが、悠も頑張っているのだから「お母さんも頑張って」と励まされている気持ちがしました。 


2006年5月22日 月曜日
すぐ控訴しましたが、裁判費用(印紙代)が地裁より高裁のほうが高いのも知りませんでした。遺族はどんなに惨い目に遭わされても怒っても仕返しも意地悪することもできないので、裁判で最後まで戦います。せめて法律で厳しく罰してもらいたいと思います。


2006年5月16日 火曜日
国会の生命のメッセージ展に参加するため、朝の4時半ごろに起きて、東京に行く用意などをしていました。コンビニで朝刊を買って、始発の新幹線に乗り、チラシなどをホッチギスで止めていました。
今日は憲政記念館であり、逢沢議員が挨拶されました。その後、新聞記事など読んでいただくよう資料を手渡しました。午後にまた逢沢議員が会場に来られて、「貴重な資料をありがとうございます」とおっしゃっていただいて、これから審議すると言っていただきました。少年法も今年は見直される年などで、もっともっと厳しくされてほしいです。私は加害者を擁護する少年法が廃止されることを願っています。滋賀県の山下議員も会場に訪れていただきました。国会で開催された第1回目も大津で開催しましたメッセージ展にも来ていただきました。夕方には岩永議員も来ていただきました。午後からはパネルディスカッションがあり、長野智子さんが司会をされました。長身でとても綺麗な方でした。最終の新幹線で帰宅して、夜中に明日の仕事の準備をしていました。


2006年5月15日 月曜日
署名が届いていたので、判決前に届けるため、午前中に裁判所に提出しました。合計で6350名になりました。短期間でしたがご協力いただいて心から感謝です。ありがとうございました。
大津駅前で裁判記録など読んでいましたが、あまりの惨さに耐え切れませんでした。午後1時15分から判決でしたが、弁護士さんが遅れてこられたのであわてて法廷に入廷しました。2分間のテレビ撮影があり、その間は遺影をひざの上に置くように言われていました。撮影後包みをほどいていたら、「原告の賠償請求を棄却します」と稲葉重子裁判長は言い渡されました。1分間もありませんでした。青木悠の命の重みに対するお悔やみの言葉も、被告3人に法的責任が無くても、見殺しにした責任はあり、本人尋問で嘘をついたら罰しますといいながら、嘘ばかり言ってる被告を罰しませんでした。また裁判中に裁判長は「法的責任は問えない」と言ってましたので、被告側は和解もしない、謝罪もしないと言いました。何のための裁判かと思います。判決後記者会見があり、多くのテレビや新聞社が取材していただきました。本当に冷たい女の裁判長と思います。覚悟はしていましたが、奇跡が起こらないかと提訴したときから悠の仏壇に2年以上も法的責任が科せられるように祈っていました。悠に報告ができません。


2006年5月14日 日曜日
お昼から大津駅裏の朝日が丘にチラシを配りに行きました。4月初に印刷したチラシ4000枚を配り終えました。夕方は髪の毛を悠が3月31日に呼び出された時のように短くカットしました。せめて明日の判決で悠の無念の思いを伝えたいです。夜は疲れたので明朝早く起きるつもりで21時ごろから寝ていましたが、電話があり起きてしまった寝付かれませんでした。


2006年5月12日 金曜日
8日に署名用紙を提出後、速達やFAXでいただいた分を大津家庭裁判所に持っていきました。合計6300名になりました。皆様の暖かいお気持ちに心から感謝です。悠は見殺しにされましたが、亡くなってからたくさんの方に暖かいお気持ちをいただきました。悠は寂しがり屋でシャイな子で甘えるのも下手でしたが、たくさんのお気持ちをいただきました。


2006年5月9日 火曜日
来週から国会で生命のメッセージ展があるので、新幹線の切符を買いに行きました。16日の始発で出かけ、最終で帰ってきます。仕事があるので議員会館に参加できないので残念です。
■「生命のメッセージ展in国会 Part 2」 http://www.inochi-message.com/sched.html

2006年5月16日(火) 憲政記念館一階会議室(この日のみ一般公開)
     5月17日(水) 衆議院第二議員会館 第一会議室
     5月18日(木) 衆議院第二議員会館 第一会議室・第三会議室
*17日、18日は国会議員、官庁、開催関係者に限定。3日間共に10時〜17時。

テーマ:「戻らない いのち、変えられる 未来」

16日のタイムスケジュール

10:00 開会セレモニー

14:00 パネルディスカッション
テーマ  「安心して生きられる社会をつくるためには
      〜見えない第三者から子どもを守る〜」
司会者  鳥越俊太郎氏(ジャーナリスト)
パネラー 本郷紀宏氏(大阪教育大学附属池田小学校児童殺傷事件 遺族)
      渡部陽子氏(NPO法人ひさし総合教育研究所 理事長、
              ネット社会と子どもたち協議会 運営委員長)
      横矢真理氏(NPO法人子どもの危険回避研究所 所長)
      他 国会議員2名を予定
17:00 展示終了


2006年5月8日 月曜日
稲葉重子裁判長に、3人の法的責任を求めて、2月20日までに提出した4466名、4月からいただいた1743名を合わせて6209名の署名用紙を提出しました。悠の無念の思い、6209名の思いが裁判長に届くよう心から願います。祭日は休んでいましたが、今日から仕事です。


2006年5月7日 日曜日
雨が降っていたので署名活動もチラシを配るのをやめて1日家に居ました。夜から署名用紙の整理を朝までしていました。


2006年5月6日 土曜日
大津駅前で署名活動をする予定でしたが、大阪で少年問題を考える会があり、参加しました。保護司さんなどに被害者の気持ちを正直に伝えました。


2006年5月5日 金曜日
昨日パルコの前でたくさんの署名をしていただいたので、昼からまたパルコの前で署名活動をするつもりでたくさんの荷物を自転車に積んで出かけました。お昼に大津駅に寄って、東京から来た人と少し話す予定が長くなってパルコに行ったのは4時前でした。2時間ぐらい署名活動をして帰宅しました。昨日、署名をしたくれた高校生のお母さんがわざわざ署名に来てくれました。署名活動を通じてたくさん暖かいものをいただきました。


2006年5月4日 木曜日
お昼からパルコの前に署名活動に行きました。晴れていましたが風がきつかったです。高校生の方など若い方がたくさん署名をしていただきました。5年前の事件なのでご存知でない方も多かったです。またこんな惨い悲しいことはないと泣いてくれる人も居て、私も一緒に泣いていました。また悠と同級生だったという方も署名をしてくださり、私が悠の中学生の卒業式をリハビリを優先して欠席させたことを思い泣いていました。今もこの日記を書きながら泣いています。悠は頑張っていましたが中学生活もいじめなどあり厳しいものがありました。


2006年5月3日 水曜日
お昼から大津市内にチラシを自転車で配りに行きました。私が生まれ育った旧打出中のあった場所や平野小の近くも配りに行きました。幼い頃の記憶を思い出しながら、こんな悲しい惨い出来事でチラシを配ったり、同級生に会ったりするのは辛いです。加害者が普通に暮らし、法律で厳しく罰してもらえないので、いつまでも立ち直れません。


2006年5月2日 火曜日
寒かった夜に女子高校生の方が、遠くから自宅まで署名と励ましのお手紙を持ってきてくれました。チラシを受け取った方が、学校で署名をたくさん集めてくれました。最近疲れていて落ち込んでいましたが、優しい暖かい気持ちにふれてとても嬉しかったです。私を元気づけようと中学生の方の一生懸命に書いてくれたお手紙も優しかった悠のお母さんへのプレゼントのようでした。皆様の気持ちが裁判に届きますように。


2006年5月1日 月曜日
ニューヨークから日本全国から署名が暖かいメッセージと共に送られてきます。この皆様の励ましと怒りが裁判に届くことを心から願います。


2006年4月30日 日曜日
PM2時過ぎから7時まで大津駅前で署名活動をしていました。この前、たすきをかけたほうが良いとアドバイスを受けたので、朝から作ってかけましたが、大津駅前は立派に開発されて横断歩道も変わったので、広々してチラシなども渡しにくいですが、優しい方がたくさん居られて、署名をしていただいたり、励ましをもらいます。


2006年4月29日 土曜日
仕事が休みだったので、昼から大津市内や山手のほうにチラシを配りに行きました。山手は自転車を押してもしんどくて、途中で歩いて行きましたが、それでも苦しかったです。私が小学生だった頃は山々だったのに、立派なお屋敷がたくさん建っていました。大津市民病院が上から眺められて交通事故で元気になっていくときの喜びと、脳死状態にさせられて、いつも廊下で泣いていたことを思い、またチラシを配りながら泣いていました。週末の家族団らんを見て、悠の居ない現実を思い泣いていました。署名運動もチラシを配るのもとても辛い作業ですが、悠のことを思うとゆっくりできないし、見殺しにした少年達を厳しく裁いてもらえないと、将来に向けてやり直そうとしてもそれもできません。親子でガーデニングされてて、小さな男の子2人が、苗を見せてくれたり、私に話しかけてくれたのがとても嬉しかったです。また疲れて帰宅したらチラシを読んだ方から励ましのメールが届いていて涙が出ました。


2006年4月23日 日曜日
署名運動をする予定でしたが、急用ができて1日外出していました。
朝のテレビで本村洋さんが「桜の花が咲いて綺麗と思う。まだ人間の心をもっているのだ。」また満開の桜を見て「奥さんや娘さんが見守っている」というようなことをおっしゃっていました。悠は4月6日に亡くなったので、満開の桜を見るのも辛かったですが、綺麗と思う気持ちもありました。加害者を恨む、呪うだけでは生きていけないとは思います。


2006年4月20日 木曜日
朝6時からお昼まで仕事をして、食後、少し休憩をして、鍋や釜を洗って、それから自転車に写真やチラシなどたくさん積んで署名活動に大津駅まで出かけました。3時前から6時30分まで署名活動やチラシを配っていました。風がきつくて寒かったですが、天気予報は雨でしたが、雨は降らなくて助かりました。大津駅は裁判所の近くでもあるので、裁判官が通っていかれたように思いますが、突然、理不尽な暴力で命を奪われた悠の思いが伝わるように心から願います。見殺しにした3人を法律で厳しく罰してほしいです。被害者が泣き寝入りでは立ち直って生きていけないのです。他府県の方や道行く人にたくさん励ましていただきました。こんな惨いことはないと泣いて署名をしてくれる人も居られました。足や腰が痛いので、ホカ弁を買って、スイミングに行きました。疲れてうたた寝をしてしまったので、夜中に起きて、明日の仕事の準備をしていました。


2006年4月16日 日曜日
昼から大津駅前に署名活動に行きました。曇り空で途中で夕立もして寒い日でした。車椅子の方が熱心に悠の写真やチラシを読んでくださっている姿を見て涙が溢れました。代筆で署名をさせていただきました。悠も車椅子から歩けるようになり、自転車まで乗れるようになりました。車椅子だった悠を想い、人前だったのに大泣きしました。昨日配ったチラシを見た方が署名に来て下さったり、いろいろな方から励ましをいただきました。花粉症か風邪か疲れましたが、たくさんの優しさをいただきました。


2006年4月15日 土曜日
仕事が休みだったので、昼から雨が止みそうでもないので雨カッパを着て、自転車で大津の山手にチラシを配りに行きました。大津市民病院の前を通ったときはさすがに涙が出て、泣きながら自転車をこいでいました。あんなに元気になったのに、命が奪われるなんてと、どうしても納得できません。さらに見殺しにした人を罰しないということも許せません。この怒りや悲しみをどこにぶつけたらいいのでしょうか。裁判官に聞いてみたいです。桜が満開で綺麗でした。下着まで冷たくなって帰りましたが、チラシを読んだ方から、早速署名のFAXがきて心から感謝です。ありがとうございます。


2006年4月11日 火曜日
今日も大津駅前で署名運動する予定でしたが、雨がきつくてあきらめました。悠があまり無理するなと言っているようでした。1日署名活動しただけでとても疲れて背中は痛くて、昼寝をして、夜はスイミングに行き、水の中で体操したり、歩いたりして楽になりました。9日のチラシを読んだ方から暖かい励ましのお手紙がきました。


2006年4月9日 日曜日
大津駅前で署名活動を始めました。自転車にチラシや署名用紙・写真などをたくさん積み込んで出かけました。悠の事件時に着ていた赤いジャンパーを着ていきました。汗をかいて行きましたが、風がきつくて寒かったです。
午後1時から7時まではずっと立っているのはしんどかったですが、励ましてくださる方や署名してくださる方もたくさん居て、無駄ではなかったです。事件を知らなかった方が、チラシを読んで、悠ちゃんにお供えでもとお金を置いていかれた大阪の方も居られました。子供ずれの方でも完全に無視する方も居ました。帰宅して疲れてうたた寝していましたが、まだこれから仕事です。
4月11日・16・20・23.30日 5月6日に大津駅前で午後1時から7時までする予定です。もし大津駅に立ち寄られることがありましたら、ご協力お願いします。


2006年4月7日 金曜日
署名活動もとても疲れるしんどい作業なので、自分に課すためにも警察に道路許可申請書を提出し、大津警察署まで許可証をもらいに行ってきました。またチラシの印刷も頼みに行ってきました。


2006年4月6日 木曜日
5年目の命日です。何年経っても悲しみは癒えることはなく、悠のことばかり考えていると頭が痛くなり、自分の頭を壁に打ち付けたくなります。1日仕事をしていて、夜はスイミングに行きました。普段寂しい悠の仏間も今日は花で飾られて、花の香りが部屋に充満しています。加害者にぶつけることもできない怒りの処理はどうすればいいのだろうか。



2006年4月1日 土曜日
最近は飲むのを控えていましたが、昨日は飲んで疲れて寝るという状況でした。朝まで夢でうなされていたようですが、あまり覚えていません。
5月の判決までに見ていた3人が法的責任を課せられるよう署名運動を始めます。「死ぬとは思わなかった」と言い張れば何の罪も責任も受けない現状を見直していただきたいです。何度も署名をお願いをして申し訳ありませんが、最後の力を振り絞って5月を迎えたいと思います。よろしくお願いいたします。
悠の事件概要 署名用紙


2006年3月31日 金曜日
1年で一番辛い日です。5年前の3月31日が無ければと思います。午前中は大津警察に免許更新と、署名運動するのに申請用紙をもらいに行きました。また転勤されます新聞社の方に挨拶に行きました。たくさんの方に自宅まで来て取材していただきましたが、その方は取材中に涙されて、悠の書いた書の「人の気持ちを大切にする」に深く心に留めてくださいました。悠の元気な頃は私はとても忙しくしてて、どういう状況で書いたのか記憶にありませんでした。後悔することばかりです。
宮川医療少年院の少年たちから講演の感想文が送られてきました。遺族になった母親の深い悲しみや悠の無念を感じとってもらえたようです。何枚も感想文を書いてくれた少年がいましたが、被害者の生の声を聞いて再犯を犯さないという決意を新たにしてくれたようです。


2006年3月17日 金曜日
伊勢にあります宮川医療少年に講演に行きました。風がきつくて、湖西線が不通になるところでした。
久しぶりの講演でもあり、また3月という時期でもあり、涙・涙の講演になって、原稿が涙でかすんでいました。少年達が退院して、やけになりそうになった時、被害者の母親の涙を思い出して、再犯が少しでも防げればと思います。
行く時は電車の中で原稿を読みながら泣いていました。帰りは
神戸家裁の元裁判官、井垣康弘さんの事件を振り返る『少年裁判官ノオト』(日本評論社)を読んでいました。


2006年3月16日 木曜日
京都に行ったら、短大の卒業式でたくさん羽織袴の方を見ました。卒業の時期になると、悠の中学の卒業式を私がリハビリを優先して欠席させたことをとても後悔しているのでいつも悠に申し訳ないことをしたと涙が溢れます。
欠席させた時、悠はとても寂しそうな顔をしていたことが思い出されて辛いです。


2006年3月14日 火曜日
1週間ほど徹夜をして、今日確定申告を税務署に提出に行きました。去年は寝込んでしまったけれど、今年は無事15日までに提出できてホッとしました。


2006年3月2日 木曜日
京都に用事があり、久しぶりに四条から三条まで繁華街を歩いて、小物のお店や食器のお店をのぞきました。昔あった食べ物のお店は無くなっていたりしました。
時々、被害者を忘れて、普通の日常を送りたいなぁと思ったりもしました。


2006年2月21日 火曜日
京都新聞・産経新聞・毎日新聞・読売新聞が朝刊に掲載していただきました。


2006年2月20日 月曜日
仕事があるので、雨の中カッパを着て、自転車で裁判所を往復しました。私はよくわかっていませんでしたが、結審は法廷でありました
稲葉裁判長から「判決は5月15日(月)午後1時15分からあります。」と言い渡され、事前に私の弁護士さんが最後に私の意見を言わせていただくよう書記官に頼んでくださったのですが、それは「採用しません」の一言で終わりました。(1分間ぐらいでした)
 雨のなか、お忙しいところ大阪から応援傍聴に来ていただいた方が居られて、心丈夫でした


2006年2月19日 日曜日
被告の弁護士さんは若い方です。どうして謝罪もしないで被告に将来があるのでしょうか?どうして被告にせめて「青木悠に謝罪をしなさい」と説得しないのでしょうか?
被告に責任が無いと言いはっても身体の不自由な子が逆さまに頭からバックドロップをかけられるのを見ているし、おもちゃのように殴られているのを1時間以上も見てて、何の責任も罪の意識も感じないのでしょうか?
被告は現在19歳と20歳でこれから50年、60年以上生きて、結婚もするだろうし、子供も授かるでしょう。しかし、身体の不自由な子を見殺しにして、謝罪もしないで生きていけるのだろうか?
被告に幸せな将来が待っているのでしょうか?


2006年2月17日 金曜日
休日だったので、JRを乗り継いで名古屋に行きました。おだやかなお天気でした。帰りは長浜経由で余呉湖を車内から見て湖西線経由で帰りました。まさか長浜で痛ましい事件が遭ったとは思えないほど田園地帯が広がっていました。(マキノのほうは吹雪いていました。)


2006年2月12日 日曜日
1月8日からの日記を今日書きました。年末から落ち込んでいて気力がでません。腕の痛み・腰痛・風邪は治ったのですが、裁判のことを考えると何もやる気がでません。家業は毎日仕事があるので休む訳にいきません。また食べ物の商売なので、気が抜けません。忙しさで毎日を過ごしているようですが、疲れは溜まっていきます。


2006年2月9日 木曜日
今日は私の57歳の誕生日です。優しい長男が韓国ドラマのDVDをたくさんプレゼントしてくれました。免許更新に行きましたが、私はペーパードライバーなので、寒い中自転車で手続きに行きました。5年前の免許書は悠が元気な頃で高校進学に向けて必死で勉強していたのにと思うと悲しくなってきました。意見欄に紹介できていませんが、暖かい励ましのメールいただきました。


2006年2月6日 月曜日
ずっと歯が痛かったのですが、放っていたので抜くことになりました。歯の痛みより、悠が交通事故で歯が欠けて、治療に付いて行った事を思い涙が溢れました。一生懸命リハビリをして治療を続け、その目の前が殺人なんてと思うと気が狂いそうです。悠はどんなに悔しがっていることでしょう。せめて裁判官は厳しく罰して欲しいと思います。今のままだと被害者は気が狂いそうです。


2006年2月5日 日曜日
品川でアピュイの被害者交流会及びH17年度総会があり出席 しました。雪のため新幹線も遅れていました。交流会があり、北海道や沖縄から参加された方とゆっくり話したかったのですが、そういう時間はなくとても残念でした。
PM11時ごろに帰宅して、それから明日の仕事の準備をしていました。


2006年1月30日 月曜日
確定申告の説明会が大津市役所の別館であり聞きに行きました。別館の会議室は悠がよく写生大会で表彰を受けた場所なので、懐かしく「昔と全然変わっていない」と大津憲章など眺めていました。あの時は悠を誇らしげに眺めていました。


2006年1月20日 金曜日
明日は親戚の結婚式があるので、人にうつしてはいけないので病院に行って風邪薬をもらってきました。


2006年1月16日 月曜日
今日から仕事始めですが、珍しく風邪を引いて咳がよくでます。少し気がゆるんだせいでしょうか。朝からゴマメなど炒って、昼からは昆布を巻いて炊き夜中になりました。



2006年1月14日 土曜日
鈴鹿国際大学で行われた生命のメッセージ展に行きました。メッセージ展には珍しく雨でした。あさひも作りを学生さんが熱心に教えてくれました。「上手」と言っていただいて普段ほめられることもない私は素直に嬉しかったです。
昆布巻きなど手仕事をしてるせいかなぁと単純に喜んでいました。
12時から16時まで記念講演会でほとんど会場に居る時間がありませんでしたが、学生さんのスピーチ「生命について考える」がとても心に残りました。
メッセージ展の会員の鷲見さんの講演は涙しました。悠のICUに居る時の気持ちとダブりました。開催してくださった遺族でない仲先生や学生さん達の熱心な温かい気持ちが通じるメッセージ展でした。電車に乗り遅れて深夜の帰宅になり、近いようで遠い道のりでした。



2006年1月8日 日曜日
中学校の同窓会に行きました。悠が歩き出した頃に一緒に連れての琵琶湖ホテルで行われた同窓会以来なので20年ぶりぐらいです。恩師がU中学の事件現場の近くに住んで居られて、私がチラシや署名活動をしているのをご存知でとても心配されているのを聞いて参加しました。皆は心配してくれていて、意外と元気な私を見て安心されたと思います。私自身は普通にしていましたが被害者・遺族として参加したことはとても悲しかったです。


2006年1月6日 金曜日
26日は父のベットに行き、大泣きしました。どんなに泣いても父には通じないことが、また悲しく泣いていました。今日は悠の月命日なので、悠に心配かけないよう、また心を引き締めて頑張ろうと思います。お昼からスイミングに行きました。水の中で身体を動かすことにより、痛めた右腕など治りそうなかんじがします。たこ焼きを買って悠に供えました。


2006年1月3日 火曜日
お正月は駅伝などテレビを見てゆっくりできたので、昼から半日かけて鍋や釜など洗っていました。
2月20日に最終弁論をして結審する予定なので、またこれから署名活動をしていくか迷っています。法律で厳しく罰してもらえないのなら、被害者はどうしたらよいのでしょうか。


2005年12月31日 土曜日
朝まで一睡もせず、注文を入れていたので、夜はテレビを付けたまま長い時間うたた寝をしていました。手はあかぎれで血がにじんでいたので、洗い物はできませんでした。
今年1年はとても忙しく、裁判以外にもいろいろな難問題があり、眠れないほど悩むことが多かったですが、悠ちゃんパワーにも助けられ、病気も怪我もせず新しい年を迎えることが出来ました。
本当に皆様の暖かい励ましのおかげです。ありがとうございました。メールの返事などもできていませんが、心から感謝です。来年もよろしくお願いいたします。


2005年12月28日 水曜日
御用納めの日に、署名を裁判所に持って行きました。合計4418名になりました。マスコミの方・法律関係の方・弁護士さんなど多くの方から署名をいただきました。また、たくさんの暖かい励ましやお手紙、電話などいただきました。心から感謝いたします。悠は寂しがり屋でとても不憫でしたが
、亡くなってから、皆様からの暖かい愛情をたくさんたくさん感じていると思います。


2005年12月27日 火曜日
今朝の京都新聞です。新聞を読んでいても信じられません。責任も取らないで、けじめもつけないで、被告に将来があるのでしょうか。


2005年12月26日 月曜日
午後3時から進行協議がありました。私は毎日徹夜状態の仕事があり、初めて欠席をしました。私は被告一人一人が、現在、4年8ヶ月たって青木悠に対してどう思っているのか知りたいと願っています。
本人尋問で聞くこともできなかったし、被告の弁護士はそういう質問は一切ありませんでした。謝ったら絶対に損という姿勢を貫きました。
26日の協議の時、私はその場に居なかったので、詳しいことはわかりませんが、「法的責任が認められないので謝罪もしない」ということになりました。被告の弁護士は「和解は難しい」と言いました。
被告は19歳・20歳でこれから50年以上生きていくと思うし、結婚もして、子供も授かると思います。その父親になろうとするものが、15歳のとき、身体の不自由な子を見殺しにして、「悪くない」と謝罪もしないで、責任も取らないで嘘を突き通して生きていくのでしょうか。被告の保護者も、被告の弁護士もそういう偽善者の将来をプレゼントするのでしょうか。裁判所も嘘をついたら罰すると言いながらも見逃すのでしょうか。


2005年12月22日 木曜日
何十年以来の大雪のため、商売を休みました。折角、夜中の3時まで頑張って炊いていましたが、仕方がありません。



2005年12月16日 金曜日
名古屋に行く用事があり、用事後、お昼は署名などたくさんいただいていた交通遺族の方にお会いしました。以前はとても痩せてやつれて心配していましたが、仕事も再開され、綺麗にされて頑張っておられる姿を見て嬉しくなりました。どんなに辛くても残された家族は生きていかねばならないし、少しでも元気を取り戻してもらいたいと思います。


2005年12月11日 日曜日
「生命のメッセージ展」in早稲田でミニスピーチをさせていただきました。法律を勉強してる学生さん達に、少しでも被害者の痛みが伝わったと思います。早稲田の学生さんや関西の学生さん達のボランテイァでメッセージ展が開催され、若さと笑顔が輝いていました。また私はできなくなりましたが、クリスマスツリーで飾られ、ピアノ演奏もあり、悠は明るくにぎやかで喜んでいたことでしょう。新幹線の最終で帰り、また夜中仕事をしていました。



2005年12月10日 土曜日
午前中は仕事をして、昼から早稲田に行きました。悲しいことですが、悠のおかげでたくさんの大学に訪れることが出来ました。私は高卒なので、大学には憧れがあり、悠が大学進学を目指していたので、楽しみであり、必死で働いていました。以前は学生さん達を見るだけで、羨ましく涙も出ました。でも、今は講演することなどによって、少しでも被害者の実情などを知ってもらいたいと思います。悠の命がいかされることを願います。新幹線から富士山が見えました。悠と富士山にも途中までドライブ旅行をしたので、その頃の元気だった悠を想います。



2005年12月9日 金曜日
まだ仕事をしていて寝られませんが、明日の昼から早稲田のメッセージ展に行きます。11日(日)午後3時からミニスピーチをさせていただきます。12月は特に仕事が忙しくて大変ですが、去年は早稲田に行けなかったので、今年は徹夜しても行きます。

■「生命のメッセージ展in早稲田大学2005」
日時:12月6日(火)から12月11日(日)まで。午前11時から午後7時まで
場所:早稲田大学学生会館・多目的ホール及び演劇練習室(地下2階)、アトリウム(2階) 東京都新宿区戸山1−24−1(戸山キャンパス内)
連絡先:「生命のメッセージ展in早稲田大学2005」実行委員会  代表 井伊 隆彰  http://inochiwaseda.fc2web.com/


2005年11月30日 水曜日
龍谷大学において被害者学の講義で講演をさせていただきました。10月に大津駅前で一人で署名活動をしていた時、教授にお会いしました。京都医療少年院で講演をさせていただいた時、聞いておられました。初めの紹介の時、「被害に遭うことがなければ、署名活動をすることもなく普通の主婦の生活をされていたと思う」と言っていただきました。不良に殺されたので、悠にも落ち度があったようなことを今でも世間で言われることがあるので、傷ついた心に教授の暖かい言葉に救われました。立派な大学で、学生さん達を羨ましく思いました。


2005年11月28日 月曜日
午後3時から裁判の進行協議がありました。
被告の弁護士は少年3家族とバラバラに話し合っているので、意見が食い違う。謝罪したい家族も居るけれど、そうでない家族も居る。3家族それぞれ温度差がある。法的責任は感じてないが、道義的責任は感じてる。
私は「本人尋問したことによって、改めて許せないと思ったので、謝罪に応じる気持ちはない」とはっきり言いました。人間はどこまで悪人になれるのかと思います。悠に対して申し訳ないとか、命の重みを何も感じていない少年達を許すことはできません。また被告の弁護士から進行協議をもってほしいと言われ、26日(月)午後3時にあります。
仕事の途中で抜けて行ったので、急いで帰って夜遅くまで仕事をしていました。



2005年11月21日 月曜日
「裁判官が日本を滅ぼす」門田隆将著が新潮文庫(本体590円)より刊行されました。『障害者をリンチで殺した少年は「感受性豊か」』で悠の事件が取り上げられ、また10月17日の本人尋問の様子も紹介していただきました。
こんな惨い事をした加害者を、どうして法律で擁護するのかと思います。再犯したら誰が責任を取るのでしょうか?



2005年11月17日 木曜日
滋賀県立膳所高校の2年生の人権学習で講演をさせていただきました。
暴力に対してのテーマもあり、原稿を作り直しました。原稿を読みながらも、凄まじい暴力の光景を思い浮かべると涙が溢れて立っているのも辛かったです。生徒さんたちは真剣に聞いてくれ、アンケート用紙にぎっしり丁寧な感想文を書いてくれました。


2005年11月4日 金曜日
今日はお休みなので、たくさん溜まっている洗濯物や家の洗い物などを1日テレビを見ながら洗っていました。



2005年11月2日 水曜日
寝てしまったので、夜中の3時に起きて仕事を片付けて、少し寝て、また朝から起きて、洗い物などをしていました。途中で食事や買い物などをしますが、夜の12時ぐらいまで仕事が続きます。
スイミングを優先すると、さらに睡眠時間が短くなるので、水曜日は休むことにしました。


2005年11月1日 火曜日
午前中は仕事をして、夕方は高校に打ち合わせに行きました。夜はスイミングに行って、帰ってから食事を簡単に済ませていたら、電話などかかって、その後、疲れてうたた寝をしてしまいました。


2005年10月29日 土曜日
あいにく雨でしたが、昼から雨も上がり、3人で湖畔を少し散策しました。殺された子供の繋がりで知り合った3人なので悲しいものがありました。和歌山の息子さんは「びわ湖にバス釣りに来たい」と道具を揃えていましたが、願いはかないませんでした。息子さんの変わりに、びわ湖畔にルワーを流しましたが、胸がとても痛かったです。


2005年10月28日 金曜日
お昼から大阪の中学校で小森さんのジェントルハート (http://gentle-h.net/)の講演会があり、和歌山の方と参加させていただきました。750名あまりの生徒さんが熱心に聞いてくれて、校長先生もとても優しい方でした。
夕方から滋賀県に行き、びわ湖畔の家に泊まってもらい、3人でお鍋を囲みました。


2005年10月27日 木曜日
東京の新聞の取材があり、午前中は仕事をして、昼から質問に答えていました。息子が殺されても加害者ばかりが法律などで守られる実情や何年経っても癒されることのない遺族の気持ちが伝わればと思います。


2005年10月25日 火曜日
署名を提出後、また送っていただいたりして、追加分120名をもって大津地方裁判所に持って行きました。合計4212名です。どうもありがとうございます。署名とともに暖かい励ましのお手紙もたくさんいただいてありがとうございました
見張り役3人は15歳の時から4年半経って、19歳、20歳に成長していました。私がいつまでも訴え続けるのは申し訳ないのかと思うときもありましたが、本人尋問で悪の深さをとても感じました。法廷で悪びれた様子もなく堂々と偽り、私の前を通っても、頭を下げるでなく、どうしてあのような態度が取れるのか恐ろしく思いました。


2005年10月18日 火曜日
朝刊で大きく取り上げていただきました。朝は新聞を駅まで買いに行き、10月は銀行に入金もしていなかったので、入金したり、振り込んだり支払いをしていました。腰が痛いので、家の近くの病院に初めて行きました。腰に電気で暖めてもらっていると、悠も頑張って、少しでも良くなるように電気を当てていたなぁと思い、泣いていました。知らないで行ったのですが、悠の同級生だったご両親の病院でした。
昼からは署名を受け取っていただけるので、(17日は手続きをしていなかったので受け取ってもらえませんでした)また整理しなおして夕方持って行きました。3週間ほどの短い期間でしたが4092名集まりました。北海道から沖縄まで多くの方に送っていただきました。ありがとうございます。悠が亡くなってから知り合った方が多いですが、皆様に優しくしていただいて心から感謝です。


2005年10月17日 月曜日
少しうたた寝して朝までかかって署名用紙を整理して、ファイルしていました。調書も裁判記録も読めませんでした。どうしても質問したいことを一人づつ大きな字で紙に書き出していました。悠が事件の時に着ていた赤いジャンパーと黒いズボン姿で臨みました。(遺影は飾らせてもらえませんでした)
13時30分から一人1時間づつ本人尋問がありました。最初に嘘をつかないと宣誓をします。裁判長は嘘をついたら罰しますと宣告されます。最初Oで丸坊主で服はカッターシャツとGパンの姿でした。「関わりたくなかった」とか「覚えていない」を繰り返します。私はたまらず「嘘をついたら罰せらるやで」と言って、裁判長から注意を受けました。2人目はAでスーツ姿で、スポーツマンなのでもっと大きなイメージがありましたが、きゃしゃな感じでした。母親が母親なら子供もひどいと思いました。そんなに嘘ばっかり言うから汗もかくのだろうと、汗だくでした。硬い地面に頭からバックドロップを何回もかけられたら、危険な状態なのに「死ぬとは思わなかった」とか、「血が出ていない」とか、都合の悪いことがあると「記憶がない」「覚えていない」を繰り返していました。水をかけたり、給食室の裏に隠しているのに、「命に関わるとは思わなかった」とそういうところははっきり言って矛盾だらけでした。歳の離れた妹が小学校で殴られていてもだまって見ているのでしょうか。3人目のKは茶髪でピアスをしてカッターシャツとGパンの姿でした。尋問に備えて調書も読んでいない様子で、それを聞かれても意味がわかっていないようでした。黙りこくったり、「覚えていない」を繰り返していました。OとKは悠がICUに居た時に母親に連れられて「僕達が早く救急車を呼んだり、人に助けを求めたら青木君は助かっていたかもしれない」と泣いて詫びたのは嘘だったのかと思いました。それから4年半経って、目の前で顔をしっかり見ました。悠がICUに居た時、Aは病院の廊下で遠くから謝っていたようですが、顔は初めて見ました。本人尋問の感想は「怒りにふるえて、絶対に許せない」と思いました。ひとかけらも青木悠に対して申し訳ないとか、気の毒なことをしたとか感じられませんでした。多くの矛盾点もあり、裁判官は「覚えていない」と言い張れば許されるものでないということを、真剣に捉えていただきたいと思います。
応援傍聴に東京・和歌山・兵庫・大阪・京都・滋賀と遠くからお忙しいところ来て下さってありがとうございます。挨拶できなくて申し訳なかったのですが、皆様の応援で泣かずに目から炎がでるほど怒っていましたが、我慢して本人尋問を終えることができました。今後はあのような無責任な子供に育てた親の尋問をしてもらいたいと思いました。(NHKのニュースで放映していただきました。)


2005年10月16日 日曜日
朝は打出中学の周辺にチラシを配ってから、昼からは膳所駅前に署名活動に行きました。お天気は晴れていましたが、そんなに人は多くありませんでした。悠の葬儀をした場所から帰りの人が多くて耐えられないと泣きそうでした。いつもこれぐらいで弱音を吐いてはいけないと思いますが、膳所駅周辺は辛い場所です。偶然通りかかった名古屋の方が、こんなむごい事件があったのかと署名をいただき、カンパもしていただきました。明日は裁判なので早めに切り上げて、膳所駅周辺のマンションにチラシを入れて、お花を買って帰りました。疲れてうたた寝していました。


2005年10月15日 土曜日
雨がきつく降っていましたが、カッパを着て、自転車にチラシや、署名活動の用具などをナイロンに包んで、膳所駅前に署名活動に出かけました。お昼前は雨が降っているので西武の周辺のマンションにチラシを入れていました。
昼からは膳所駅前で署名活動をしました。事件から4年半経っていますが、やはり現場近くは辛くて苦しかったです。マイクや集団で署名活動されている横で、一人ではなかなか署名は集まりませんが、人権学習で講演させていただいた高校生の方が、偶然通りかかって「青木さん」と声をかけてもらい署名していただいて嬉しかったです。


2005年10月14日 金曜日
お昼から大津駅前に署名活動に行きました。半日立っていても署名はなかなか集まりませんが、事件を知らなかった人に、こんなむごい事件が大津で起きた事、見殺しにした人が多く居ること、加害者側が守られることなど、少しづつでも伝えられ、また励ましなどいただいて、無視をしていく人も多いですが、無駄ではなかったと思います。夜は折角伸びた髪を切りに行きました。髪を短くして少しでも見張り役3人に対して、事件時の悠のイメージを思い出して責任を感じてもらいたいです。髪を切ってまで裁判に臨む母親の気持ちをわかってもらいたいです。


2005年10月13日 木曜日
朝6時30分頃からお昼まで仕事をして、昼からは大津市内にチラシを配って、夜はスイミングに行きました。


2005年10月12日 水曜日
以前にシンポジュムでご一緒に講演をさせていただいた遺族の北海道の木村富士子さんの事件が死因究明〜葬られた真実で柳原三佳さん著で発刊され、スイミングの帰り、ジャスコに寄って、買って帰った。スイミングに行くと、仕事が2時間遅れるが、休むと肩こりや腰痛が出てくる。夜10時からまた仕事をしたので、AM2時ごろまでかかってしまった。


2005年10月11日 火曜日
午前中は仕事をして、昼からチラシを配りやすいように折ってから、大津駅の山手の朝日が丘に配りに行きました。4年前に見張り役の一人の母親から、道で怒鳴られたことがあるので、怖いのですが昼間に配りに行きました。30年ぐらい前は朝日が丘の所で編み物を習いに行ってたので、懐かしく先生の家を見ていました。坂道がきついのですが、あの頃は手編みなど教えてもらって皆で笑いながら通っていました。とても優しい熱心な先生で楽しみな時間でした。暗くなるまで3時間ほど配って、帰り道、ホカ弁を買って帰りました。たくさんの署名や励ましのお手紙が遠くからも届いていました。皆様の優しいお気持ちに心から感謝です。
夜に友人から「寝込んでいるのでは」と心配してお電話がありました。腰痛はありますが、元気で家業もしています。「元気な声が聞けて良かった」と言ってましたが、加害者に対する怒りが強く、悠にも申し訳ないので寝込んでいられません。


2005年10月10日 月曜日
朝から家業の釜や鍋を洗って、腰を痛めて、湿布しながら仕事をしていました。久しぶりにお風呂を沸かして、薬用入浴剤を入れて、新聞を読みながら、ゆっくり長くつかって、湿布して寝ました。少しマシになりました。


2005年10月9日 日曜日
昨日は長い時間立っていたので、腰が痛くなり、シップを貼って、また昼から大津駅前に署名活動に出かけました。大津祭りなので、鉾の通らない所を遠回りしていきました。晴れていたので人通りも多く、昨日の若い女性も手伝ってくださったり、お祭りに来られた中学生の方も手伝ってくださって、たくさんのチラシを受け取ってもらえたり、たくさんの署名を集めることができました。母親想いの優しい悠ちゃんからのプレゼントのようでした。事件を知らなかった方も、遠方の方もチラシを読んで署名をしていただきました。誤った噂で悠の事件を知った方も、真相を聞いてもらえました。


2005年10月8日 土曜日
仕事があるのに疲れて、テレビ・パソコンを付けたまま寝てしまいました。朝早く起きて仕事を午前中していました。雨が降っていましたが、お昼から小降りになった時、自転車で大津駅前に署名活動に行きました。私があまり暗くボソボソしているので、チラシを受け取った親子連れの方がみかねて手伝ってくださったり、また通りかかった若い女性の方が夕方から手伝ってくださり、たくさんの署名が集まりました。私が署名活動を知っておられるのかわかりませんが、女性の方がチラシを渡そうとしても、裁判官は見ないで受け取らないで通っていきました。大津祭りの宵宮、囃子の音が悲しく響いていました。


2005年10月6日 木曜日
悠の月命日で、亡くなって4年6ヶ月が経ちます。朝6時からお昼まで仕事をして、昼から署名活動に行きました。大津のメッセージ展に協力していただいた方にもお願いに行きましたが「あまり無理しないように」と励まされました。
PM2時から7時まで大津駅前で署名活動をしていました。暖かく励ましてくれる人、「悠にお花を」とお金をいただいたり、あまりにひどい内容なので「かける言葉がない」と泣いてくださる方などありました。サラリーマンの方は急いでおられるのか無視をしていく方が多いです。疲れて帰宅して、服を着たまま寝てしまいました。


2005年10月5日 水曜日
7時ごろまで仕事をして、スイミングに行き、その帰りマンションなどにチラシをいれていました。署名とともに暖かい励ましのお手紙をいただきます。また少ないですが、チラシを見た方から署名をいただきます。


2005年10月4日 火曜日
午前中仕事をして、昼から署名活動に行こうと思っていましたが、雨がきつく降ってきて、行けませんでした。家の近くにチラシを配っていました。


2005年10月3日 月曜日
署名用紙とともに暖かい励ましのお手紙が届きます。涙ながらに読みましたが、心から感謝です。またお電話で励まされたり、署名の協力をしていただいてます。家業も忙しいので、署名活動はあまりはかどっていませんが、弱音をはかずに頑張りたいと思います。


2005年10月2日 日曜日
2時間ほどうたた寝して、また朝まで郵送の準備やチラシを折っていました。昼からは朝日が丘や竜が丘にチラシを配りに行きました。事件時にチラシを配っていて、4年経っています。主犯の家は、取り壊され、立派な家が建っていて、新しい人が住んでいました。(主犯の民事訴訟中は家が売れないのが理由で、賠償金が減らされたり、返済期間が延長されたのに)夕方から雨がきつく降ってきて、大津市民病院のロビーで休んでいました。4年前の3月27日、高校の合格発表を見に行って、その足で大津市民病院に一番に行って、お世話になった先生や看護婦さんに伝えて、喜んでいたことが思い出され、その4日後に脳死状態にされるなんて、あまりにむごくて泣いていました。あんなに喜んでいたのに。泣きながら雨の中を自転車で帰りましたが、チラシを配った人から、署名がFAXで届いていて、寒い冬の夕暮れ時に、私が署名活動をしていたのを見ていた人で、励ましの言葉が添えられていました。



2005年10月1日 土曜日
朝まで郵送などをしていました。2〜3時間寝て、昼から自転車に悠の写真やチラシなど用紙を乗せてパルコ前に署名に出かけました。無視する人も多いですが、励ましてくれる人やかける言葉がないと涙くんでくださる方もおられました。現場の近くですが、事件のことを知らない人や、こんなむごい事件はないと怒ってくれる人も居ました。高校生の方が多く署名をしてくれました。以前勤めていた会社の方が偶然通られて夫婦で快く署名していただいて嬉しかったです。夕方からはチラシを配りに行ったのですが、最初の家で2時間ぐらい話し込んで、そのまま帰りました。お昼も食べずのどもカラカラだったので、簡単な食事をしてすぐ寝ました。


2005年9月30日 金曜日
なかなか気が重くて、はかどっていなくて、朝まで郵送などしていました。2時間ほど寝て、またお昼から大津の町にチラシを配りに行きました。いいお天気でした。明日からパルコや大津駅前で署名活動をしようと思っています。


2005年9月29日 木曜日
明日は仕事が休みなので、夕方から大津の町にチラシを配りに行きました。平野神社の近くでも配りましたが、悠が交通事故に遭った時、大津市民病院に悠を見舞ったあと、いつも平野神社で手を合わし、1日も早く元気になるよう祈っていました。その時の光景などが思い出され、チラシを配りながら泣いていました。あんなに元気になったのに、理不尽に命を奪った加害者がにくいです。見張っていた3人も、家の2階から見ていて、助けることもしなかった当時65歳のおじさんも許せません。


2005年9月21日 水曜日
メールなどで署名のお願いをしましたが、たくさんの励ましなどをもらいました。悠が亡くなってから、知り合った方がほとんどですが、皆様からの暖かい励ましで乗り越えていこうと思います。


2005年9月20日 火曜日
家の近くのコピーセンタでたくさんの印刷を依頼して、夕方自転車で引き取りに行き、家に帰ってきたら、あまりの重さで自転車がパンクしてしまった。夜はスイミングに行って、その帰り道、自転車の修理を持っていった。


2005年9月19日 月曜日
辛い裁判記録や調書を読みました。何度読もうと思っても、気が狂いそうでなかなかはかどりません。こんなむごい暴行を黙って見てて、救急車を呼ぶこともしなかった3人を許すことはできません。今日から見張り役3人の責任追求、真相解明を求めて、署名活動を始めました。署名簿は大津地裁に提出し、訴訟の判断を下す裁判官に理解してもらいたいと思います。ご賛同いただける方はご署名お願いします。また、10月17日(月)の本人尋問に足を運んでいただければうれしいです。 署名用紙 事件の概要
メールなどでご連絡いただければ送りますのでよろしくお願いします。



2005年8月29日 月曜日
今日は悠の21歳の誕生日です。成長した悠に逢いたい。見張り役の3人が「やめろ」と止めていてくれれば元気な悠がいただろう。見張り役も母親も陳述書のどこにも悠の大切な命の重みや責任は感じられません。
毎日悠を想わない日はありませんが、仕事は夜中の12時まであり、疲れて寝て夢でうなされています。加害者達はゆっくり眠れるのでしょうか。
ケーキとビールとポテトチップスを供えました。



2005年8月23日 火曜日
京都新聞・産経新聞・毎日新聞が公開法廷へと掲載されました。


2005年8月22日 月曜日
午前中は仕事をして、昼から自転車で大津家庭裁判所に向いました。出かける前に見張り役3人の母親の陳述書を読みました。事前に読むと怒りと悲しみで眠れなくなります。裁判で争っているためなのか、どこにも申し訳ないという気持ちはありませんでした。まだ一人の母親は私のビラやHPで迷惑してるので、抗議したいと書いていました。事件後、私に怒鳴ってきた母親です。
最終の弁論準備があり、本人尋問が認められました。10月17日(月)13時30分〜17時の予定です。去年の1月に提訴して長い時間がかかりました。
身体の不自由な子が無抵抗で殴られているのを1時間以上見てても、「死ぬとは思わなかった、悪くない」と言うのなら、法廷で真実を述べてほしいです。



2005年8月19日 金曜日
長い間、日記やHPを更新することができませんでした。遺族をだます人が居るとは夢にも思いませんでしたが、いい勉強をしました。相当長い間落ち込んでいましたが、身体は元気です。

22日に見張り役3人の弁論準備があり、終結予定です。その日に証人尋問がされるかどうか決まります。
見張り役3人の家族が青木悠のように無抵抗で殴られていたり、逆さまに投げ飛ばされていても、僕達はHに呼び出されただけで、見ていて「死ぬとは思わなかった」と言うのでしょうか?
本当に悠の命を軽く考えているように思います。

8月5日に土山で講演させていただきました。JR草津線で貴生川駅まで行きましたが、4年前に見張り役の一人が通うM高校の周辺にチラシを配り、情報を集めに何度か行って、クタクタに歩いたところでした。
その時、人づてに聞いた話ですが、M高校の先生が「事件は済んでしまったことなのに、チラシなどを配って、青木のお母さんは意地悪な人だ」と言われたようです。
だんだん風化されていく中で、講演に呼んでいただいて心から感謝です。一人でも多くの方に「被害に遭う」ということを聞いてもらいたいです。
アンケートもいただき、励ましの言葉が多くあり、これからも頑張っていこうと思います。ありがとうございました。


2005年4月3日 日曜日
毎日、仕事で忙しくしてて、休日は1日家で閉じこもっています。講演やメッセージ展など行事があると出かけています。目が覚めたときから悠のことを思いますが、平静を装っています。HPが読みずらいというご指摘も受けますが、事件のことや悠のことを思うと見直すことができません。毎日、悠を助けることが出来なかった悔いで自分を責め続けますが、現在は悠の最後の言葉になりました「尊敬するおじいちゃんの佃煮屋を継ぎたい」と言ってましたので
長男と家業を頑張っています。
手造りの食べ物の商売なので、集中しないと精神的なものがでるので、細心の注意をはらっています。悠はお母さんの幸せを望んでいたので、悠のいない幸せはありませんが、前向きに頑張っていこうと思っています。


2005年4月1日 金曜日
4月29日創刊の「みんなの滋賀新聞」が、「命を大事に」悠の4周忌を掲載されました。


2005年3月31日 木曜日
1年で一番厭な日が来ました。1月中旬から仕事を始めて、毎日忙しく朝から夜遅くまで働いて、疲れて寝るという生活をしています。なかなかHPの日記も更新できず、またいろいろ文章など見直したい所や、ご意見欄も更新できていません。今日も朝から仕事をしていました。昼からは31日までに振り込むため銀行や用事などでバタバタしていました。悠の殴られていたことなどを思うと、気が狂いそうで、平静ではいられません。


2005年3月28日 月曜日
雨が降っていましたが、ギリギリまで仕事をしていたので、自転車で大津家庭裁判所に行きました。
書面での打ち合わせは完了したということで、これから3人と保護者を証人尋問に呼ぶ手続きをします。(4月中) 次回は弁論準備 5月9日(月)PM4時30分〜

2005年3月25日 金曜日
生命のメッセージ展@n三重が25日〜27日がアスト津で開催されます。
4月創刊の「みんなの滋賀新聞」が取材していただき、HPに紹介されました。

みんなの滋賀新聞のHP  http://www.shiga-np.jp/
特集   http://www.shiga-np.jp/kikaku/0328/index.htm


2005年3月15日 火曜日
やっと、夕方確定申告をまとめて大津税務署に提出しました。いつもギリギリにならないとできなくて反省です。


2005年2月15日 火曜日
月刊誌「じんけん」2月号の特集は犯罪被害者と人権です。「被害者の人権を考える」 常磐大学 諸澤教授の論文が寄稿されています。04年10月に「じんけんセミナー栗東」で講演させていただいた写真や「いのちを大切に」の思いを掲載していただきました。申し込み先 滋賀県人権センター TEL 077-522-8243 FAX 077-522-8289 350円(送料別)


2005年2月7日 月曜日
11時から大津家庭裁判所で弁論準備がありました。書面についての話でした。次回は3月28日(月)PM3時〜です。


2005年1月28日 金曜日
生命のメッセージ展@n山口が28日〜30日までアスピラートで開催されます。山口県警から講演を依頼されて、講演をさせていただきました。テレビや新聞などで報道されました。


2005年1月13日 木曜日
大阪大学人間科学部において「教育心理学」の講義で学生さん達に被害者の実情を話させていただきました。茨木からバスに乗って行きましたが、万博の跡地に吹田キャンパスが建っているのは知りませんでした。万博は会社の行事で行ったことを思い出していました。講演は緊張しましたが、学生さん達は真剣に聞いてくださいました。講義後、大阪の電器屋さんに行って、プリンターのカートリッジなどを買いました。帰りの時間が悠とリハビリに通っていたお昼の時間だったので、いつも悠を環状線から東海道線の引継ぎの時間がなく走らせていたのを思い出しました。忙しくしてた私にとって、リハビリの通院の時間だけは悠といつも一緒でした。


2005年1月10日 月曜日
悠が元気だったら、成人式でした。成人を迎えさせることができなかった母親の責任で毎日苦しみます。死にたくなかったのに、成人式の招待状も何も来ませんでした。今日、悠と同じように成人式を迎えるはずだった、理不尽に殺された康政君のお母さんが悠にお祝いの花束を贈ってくださいました。「誰にも祝ってもらえない」と愚痴をこぼしていたからと思います。今日は1日家にこもって、悠のHPの更新をしていました。表紙を変更して更新したら、変になり、何度もやり直していましたが、カウント数は表示されなくなりました。落ち込んでいてもしんどいので、悠の命を生かすため、少しづつ前向きに頑張っていきます。


2005年1月8日 土曜日
今日は久しぶりにスイミングに行きました。毎日お餅を食べ、だらだらしているので、太ったと思いましたが、あまり体重が増えていなかったのでホッとしました。今年の目標はあと3キロ痩せることです。(去年の12月
5日からの日記を今日書きました。)HPもたくさん不具合ありますが、徐々に直していきます。
去年の秋から冬は忙しくして体調を崩しましたが、今年はできるだけ規則正しい生活をして健康管理していきたいと思います。


2005年1月7日 金曜日
やっと、夏服を整理して冬服と入れ替えしました。タンスや引き出しを整理していると悠の育児日記が出てきました。色の白い赤ちゃんでしっかりした顔をしていました。退院した日の様子を書いていましたが、それ以上は読めませんでした。今日、発売のフライデーは「命を奪った少年たち-その贖罪を問うが特集されています。


2005年1月6日 木曜日
月命日も悲しいだけで、仏壇の掃除と部屋を掃除していました。賠償金は振り込まれています。


2005年1月3日 月曜日
去年から頼まれていた原稿があり、1月5日が締め切りで一生懸命にパソコンに向かっていました。「文章が下手だ、勉強したほうがいい」というメールを偶然同じときにもらって、わかっていてもはっきり言われるとショックでした。法律も詳しくなく、勉強することばかりですが、今年も1年頑張って日々努力していきます。


2005年1月2日 日曜日
午前中はゆうパックの準備をして、午後から奈良に行きました。お正月に外出するのは珍しいですが、久しぶりに交通遺族の方たちと会えて嬉しかったです。


2005年1月1日 土曜日
お正月ですが、たくさん溜まった洗濯物や食器を洗っていました。お返事をだせないでいますが、年賀状をいただき感謝です。今年もよろしくお願いします。


2004年12月31日 金曜日
毎日徹夜で仕事をしていましたが、無事に仕事が終わりました。今日は店番をしながら、恐ろしいほどの洗い物をしていました。身体はガタガタですが、仕事が終わると悠のことを思い涙が溢れます。疲れて寝るという生活をしていましたが、悲しみは薄れることはありません。年末に不自由な身体で立木神社にお参りして、「お母さん登れた」と喜んで電話をしてきたことは忘れられません。悠はいつも一番に電話してきました。いつも一生懸命で素直に立ち向かっていたのに、加害者を許すことは出来ません。一人疲れた身体で年越しそばを作って食べていました。


2004年12月24日 金曜日
5年前にリハビリのために大阪の病院に入院した日です。悠の将来に向けた日でした。昨日、勇気を奮って辛い現場に行ったせいか嘘のように、身体の調子が元に戻っていました。母親想いの悠が、年末の仕事に備えて、悠のパワーを贈ってくれたようでした。忙しい仕事の合間を抜けて、大津家庭裁判所に自転車で行きました。裁判の内容は原告の主張を文章の形で提出しました。加害者側はこれから検討する形です。次回は2月7日11時からです。証人尋問はそれからになると思います。


2004年12月23日 木曜日
風邪は治ったようなのですが、頭が痛くて胸がムカムカして、調子が悪くて、いつも仕事が終わると早く寝るようにしていました。膳所に行く用事があり、自転車で出かけました。クリスマスのイルミネーション、若い人達のアベックや買い物客の人達で賑わっていました。悲しい気持ちで眺めていましたが、帰り道、勇気を奮って、平野小学校に行きました。学校の回りの住宅はクリスマスのイルミネーションで輝いていました。現場に手を合わせて帰ってきました。悠の泣き叫ぶような声が聞こえそうでした。「悠ちゃん、助けられなくてごめんね」と手をあわせ、見殺しにした人達に改めて怒りを覚えて帰ってきました。帰り道、スーパーに寄ったら、悠が大変お世話になった家庭教師の先生に出会いました。悠ちゃんからのクリスマスプレゼントのようでした。


2004年12月12日 日曜日
体調は悪かったのですが、家業のチラシを午後から配るため、午前中はテレビを見ながら、入れやすいように折っていました。


2004年12月11日 土曜日
7日から早稲田大学で「生命のメッセージ展」が開催されていて、どうしても参加をしたかったのですが、仕事もあり、風邪も引いたので行くのをあきらめました。


2004年12月9日 木曜日
私には珍しく風邪を引いたみたいで、のどが痛くてうがいする。悠が亡くなってから、風邪を引かないのを自慢にしていたが、よく服を着たまま、朝までうたた寝するのがいけないと思う。


2004年12月5日 日曜日
私は会員でないのですが、西宮の大学で開催されました少年問題ネットワークの「もみじ会議」に初めて参加しました。
「被害者と少年司法」のテーマでアピュイ代表の飯島さんも参加されましたが、
あまりにも少年問題を考えている専門家に近い人たちの加害者側の発言に傷ついて帰ってきました。被害者の実情をもっともっと世間に知っていただかないといけないと改めて思いました。法律家の専門家の人たちは、人間としての怒りや悲しみを感じないのか?いったい「この人たちは何っ」と顔を見ました。懇親会で話す気も起こりませんでした。あまりのショックで傷ついて帰ってきましたが、11月に東洋大学で講演をさせていただいたきっかけで、悠の事件をR大学の社会学のゼミで取り上げていただき、暖かい学生さんたちのメッセージをいただきました。嬉しくて涙が溢れました。許可をいただきましたので紹介させていただきます。メッセージ


2004年12月3日 金曜日
母の2週間目の診察で日赤に行きました。小さな子供さんや、痛々しいベットの姿で通路を移動されている姿を見ると、辛いです。病院は辛い場所です。平然としていますが、泣き叫びたい気持ちです。スイミングが唯一の気分転換です。


2004年11月24日 水曜日
母にごまめの炊き方を教えてもらい、夜遅くまで炊いていました。


2004年11月19日 金曜日
母が昨日椅子から落ちて、肩を脱臼して、救急で診てもらったので、今朝からまた日赤に診てもらいに行きました。今年の講演活動が終わってほっとする間もありません。悠が居たら、一番に心配したと思うので、私の出来る範囲で手伝いと思います。


2004年11月18日 木曜日
午前中は仕事をして、昼から雨の中を電車で膳所高校に向かいました。朝から雨がシトシト降っていて悠が泣いているようでした。2年生の生徒さんに人権セミナーで「生命の大切さ」について1時間お話を聞いてもらいました。アンケートもいただいて帰りましたが、私の話を聞いて、皆様が命を大切に夢に向かって強く生きていこうと思っていただければ感謝です。
ニュースなどで悠の事件を知っている方は多いと思いますが、事実は伝わっていないようなので、これからも地域で聞いていただいける機会があることを願います。


2004年11月16日 火曜日
午前中は仕事をして、昼寝をして、夕方、なべや釜の洗い物してスイミングに行きました。疲れていてもスイミングに行くと、すっきりします。ビールは飲むのは止めて、水炊きと日本酒をいただきました。


2004年11月15日 月曜日
昨日は最終の湖西線も遅れてて12時過ぎての帰宅でした。朝、仕事の洗い物や準備をして、自転車で裁判所に11時前に行きました。裁判は全然すすんでなくて、打ち合わせして、次回は12月24日(金)午後2時からまた打ち合わせがあります。証人尋問は来年になると思います。午後から疲れた身体に気合を入れて仕事をしていました。長男が炊き込みご飯を作ってくれ嬉しかったです。仕事の合間にうたた寝していました。


2004年11月14日 日曜日
東洋大学は立派な建物で、学生さん達も親切で優しく素適でした。たくさんのボランティアの方など支えられ、盛大にシンポジュムは行われました。懇親会でビールとワインを飲んで、時間がなくて、大手町、東京駅と地下街を思いっきり走ったので、悪酔いして新幹線の中は悲惨でした。学生さんが東京駅の新幹線の乗り口まで私のリュックをかついで走ってくれました。(それで最終の新幹線に間に合いました)ありがたく嬉しかったです。長男と同じ22歳で大学院に行く学費のためバイトしてて、その後、本屋さんにバイトに行くとおっしゃっていました。


2004年11月13日 土曜日
昨日も仕事をして、スイミングに行き、その後、また仕事をして、そのまま服を着たまま、朝までうたた寝していました。何の準備もしていなかったので、早朝から準備しています。
午前中は仕事をして、午後から東京に行きます。アピュイのシンポジュウムが明日あります。お時間の都合のつく方は是非訪れてください。今までパネリストとして参加させていただきましたが、今回は初めて講演させていただきます。
H16年11月14日(日) NPO法人犯罪被害者支援の会 appui 主催 第五回 Messages of Hope 〜誰も傷つけない、傷つけ合わない社会に!〜東洋大学白山校舎1号館1403教室(4階)」にて、12:30開場 13:00開演 入場無料(資料代500円)詳しくはこちら


2004年11月7日 日曜日
家の近くの近江神宮と宇佐八幡宮へお参りに行きました。悠とお参りや小川で遊んだところもあり、眺めていました。朝は怖い夢を見ましたが、悠が赤ちゃんになって夢に出てきました。毎日、逢いたい、逢いたいと想っています。


2004年11月6日 土曜日
草津の公民館で民生委員の方に講演を聴いていただきました。草津は元勤めていた会社があり、33年間通っていました。退社して2年あまり経ちますが、高層のマンションがたくさん建ち、また以前のお店もあり懐かしかったです。講演の帰り道、以前勤めていた時、買っていたろうそく屋さんで線香を、花屋さんで菊の花を買いました。2年ぶりでしたが、元気に活動していることを伝えました。


2004年11月4日 木曜日
18日に膳所高校の人権学習で講演させていただくので打ち合わせに高校へ自転車で行きました。いいお天気でした。1時間ぐらい打ち合わせしてから帰途、見張り役の家の前を通りました。その前に石場に電車の踏み切りの前で、車に当たりそうになりびっくりしました。自転車と車とは5センチも開いてないぐらいでヒヤッとしました。


2004年11月2日 火曜日
22日の講演を聴いた方が、事件時のあまりの平野小学校の女の校長先生の
対応が悪いのを聞いて、大津市の教育委員会に電話されたようでした。また、その電話を受け取った大津市の教育委員会の方は返事(対応)ができなくて、栗東の市役所に責任を押し付けたと聞いて、大津市民の私は悲しくなりました。


2004年10月31日 日曜日
講演会も無事済んで、仕事に追われていましたが、今日はお休みで長い間蛍光灯が切れていたのを買いに行って取り替えました。久しぶりに買い物をして、男の子を見ると悠と買い物をしていた幸せな日々を思います。家に帰っても悠に会いたい気持ちは募るばかりで眠れません。この前、友人が十勝ワインを送ってくれました。飲みながら日記の更新をしています。


2004年10月22日 金曜日
講演会は無事終わりました。
いろいろ準備していただいた栗東市役所の方々ありがとうございます。また遠くから講演に聞きに来ていただいた方ありがとうございます。立派な会場で300人弱の方が聞きに来て頂きました。
H16年10月22日(金)19:30〜21:00
栗東芸術文化会館さきら(JR琵琶湖線栗東駅前)
講演「いのちを大切に」
問合せ先 栗東市役所人権政策課 077-551-0108


18時30分〜開場で、壇上でミニミニメッセージ展を開催させていただきます。お近くの方は是非訪れてください。


2004年10月20日 水曜日
HPの表紙を変更したいのですが、ファイル転送がうまくいかなくて変わりません。5月ごろパソコンが壊れてしまい、まだ回復(不明)してないところがあります。意見欄も更新できてなくて申し訳ありません。


2004年10月19日 火曜日
午前中は仕事をして、午後から雨の中、カッパを着て、自転車で日赤や郵便局に行きました。雨の日の自転車はきついです。下着まで濡れて、着替えしてまたスイミングに行きました。


2004年10月14日 木曜日
徹夜したので朝起きるのが辛かったが、起きた時間で仕事が遅れていくので、7時から仕事にかかった。午前中は仕事をして、午後はお客様が来られるので、あわてて掃除をしていました。(和歌山から帰ったリュックもそのままでした。)


2004年10月13日 水曜日
19時まで仕事をして、スイミングに行き、夕食後、22日の講演の原稿を遅い時間から書き出しました。いつもむごい現実を横において生活していますが、原稿を書き出すと、事件時の3月31日からのむごい状況を思い、涙でパソコンの画面が曇ってしまい、なかなかはかどりません。



2004年10月11日 月曜日
昨日遅く和歌山から帰ってきました。台風はそれて9日の午後から雨も止み、10日は多くの方が会場に訪れていただきました。遺族の方達も、大津会場以来1年振りに会う方が多くいて話に弾みました。
和歌の浦・アートキューブは光が差し込み、ガラスが反射してキラキラ輝いていました。スピーチもさせていただきました。


2004年10月8日 金曜日
明日から10月9日・10日と生命のメッセージ展」in和歌山開催です。http://www.wai-y.com/wakayama和歌の浦・アートキューブ
準備から参加するので、午後から和歌山に行きます。9日の午後はミニスピーチもさせていただきます。(10日の夜に帰ってきます。)
和歌山開催は、平成11年12月29日に長男の康政君(当時15歳)を亡くされた和歌山市の丸谷光生、るみさん夫婦が中心になって準備されてきました。
康政君の死を「自殺」と結論づけた警察の捜査に疑問を抱く丸谷さん夫婦は、遺族や被害者の心に添った社会の実現を願い、同展の活動に携わるとともに和歌山開催を目指してこられました。和歌山および近県の方、ぜひご来場ください。



2004年10月6日 水曜日
悠の月命日です。朝から仕事をして、夜はスイミングに行くという毎日です。泣くのは辛いので、泣かないで健康に気をつけたいと思います。スイミング後、銀行に書き込みに行き、たこ焼きを買って供えました。毎日「悠ちゃんごめんね」「悠ちゃん逢いたいよ」と手をあわせています。


2004年10月3日 日曜日
東京の共立講堂において、「犯罪被害者支援の日」第2回中央大会が開かれ、地下鉄サリン事件被害者の会代表世話人である高橋シズエさんによる講演や、共同参画している13団体のうち5団体から「犯罪被害者の声」として、5人が発表し、アピュイから私が発言を10分間させていただきました。初めてのことで待っている間緊張しましたが、折角の機会ですので真剣に話させていただきました。
大津を始発で出かけたので、肌寒かったですが、東京は1日雨で蒸し暑かったです。閉会後、雨の中、カッパを着て、街頭行進しました。全国から来られている遺族の方達に久しぶりに会えて、お話などできて良かったです。最終で帰宅しました。


2004年10月1日 金曜日
今日は仕事は休みなので午前中は3日「犯罪被害者支援の日」第2回中央大会でアピュイとして発言させていただく原稿を作っていました。午後は新聞の記事などのコピーに行きました。コピー屋さんは悠とよく行った散歩コースの川など通っていくので辛い部分もありますが、泣いてばかりいられません。腹痛も治まったので、スイミングも行きました。45分アクアしても大丈夫でした。


2004年9月29日 水曜日
台風の影響か朝からよく雨が降っていました。ずっと、お腹が痛かったので、近くの病院に雨の中思い切って行きました。(病院は苦手です)病院は、去年の今頃、自転車で路石に激突して、胸にひびが入った時の外科以来です。


2004年9月26日 日曜日
大阪で勉強会があり、アピュイの会員の方が被害者の現状など話されました。朝、冷えたのかお腹が痛くて困りました。帰ってすぐ寝ました。


2004年9月25日 土曜日
午前中は仕事をして、午後から大阪で被害者支援セミナーがあり、参加しました。藤井誠二さんの基調講演と犯罪被害者遺族の現状のパネルディスカッションがありました。


2004年9月12日 日曜日
勉強会などでお知り合いになった方達と、びわ湖畔にバーベキューに行きました。野外で久しぶりの炭火焼のお肉などはとてもおいしかったです。悠が小学生の頃は会社の行事や仲間の人達と一緒にアウトドアなど楽しみました。会社の行事は必ず連れて行き、皆に大事にしてもらいました。


2004年9月9日 木曜日
午後から日赤に父の薬をもらいに行きました。待合室で一人待っていたらとても悲しくなって泣いていました。「悠はあんなにリハビリ頑張っていたのに」と思うと、本当に病院は悲しいところです。


2004年9月6日 月曜日
今年の4月に見張り役の3人に対して意見陳述をしました。見張り役は「手を出した」と言う匿名の電話もありました。テレビで見たドラマは匿名の手紙で再調査していました。少年犯罪でもあるのでしょうか。真実を知るためにはどうしたらいいのでしょうか。


2004年8月29日 日曜日
今日は悠の20歳の誕生日でした。20歳を迎えることのできなかった申し訳なさで、ただ悲しいだけでした。ショートケーキとお寿司を供えました。悠の仏壇に手をあわせ、悠ちゃんに「お母さんの命をプレゼントするから生きて帰ってきて」という気持ちでした。来年は成人式でした。今は悲しみや怒りを横において、仕事や活動を忙しくすることによって、「冷静に生きていかなければ」と自分に言い聞かせています。悠の生きられなかった分、何倍も頑張って生きねばと思っています。
昨日から、押入れや写真を整理していました。たくさんの思い出が詰っていて、針で胸をちくちく刺す感じでした。張り裂けそうな言葉で言い表せない気持ちです。


2004年8月13日 金曜日
やっと、HPの日記やお知らせの更新をしました。あと、意見欄が残っていますが、少しホッです。折角、暖かい励ましをいただきながら掲載が遅れて申し訳ありません。
お盆なので一人ゆっくりしています。3日間も休んで、ボーとしていました。少しは掃除をしないとと、朝は台所を片付け、夕方は蚊に食われながら、草むしりをしていました。
土曜日はほとんど寝ずにパソコンをしていたので、夜中、雨が降っているのを気にしながら、起きられず、久しぶりに窓を開けていた悠の部屋の窓際は濡れていました。机を拭きながら悠の書いた詩を見つけました。将来に夢を託していました。どんなに生きたかったかと思うと、悠の将来や命を奪った加害者達に怒りが増し、泣くこともできませんでした。


2004年8月13日 金曜日
ただ今、AM3時が過ぎてて、オリンピックの開幕をテレビで放映しています。テレビを付けながら5月以来の日記を更新しています。また元のモデムに戻したのですが、ファイルの転送ができなくて困っています。また図書館で本を借りて、やり直していますが、よくわかっていないです。お盆に悠が戻ってきてると思うので、悠もオリンピック見てるかなぁという気持ちです。


2004年8月9日 月曜日
11時から裁判がありました。9日の裁判の前に、被告側があまりにも無責任な「自分たちは死ぬとは思わなかった」とか、 「暴行を見ていない」などの書面が送られてきました。9日は争いのある部分を原告側の弁護士がパソコンで9月中に作成し、そのフロッピーを被告側の弁護士が「認める」とか、「違う」とかを10月中に入力することになりました。争いがあれば、次回に尋問申請になると思います。
次回は11月15日(月)午前11時からです。いつも怒りや悲しみを横において日常生活を送っていますが、見張り役のあまりにも無責任な態度に怒りが沸騰しています。
悠は今月の29日で20歳の誕生日を迎えるはずでした。来年は成人式でしたどんなに嘆いても、悠は戻ってきません。せめて見張り役の3人は、悠の命を重く受け止め、責任を感じてもらいたいです。
今頃、青春を満喫していただろうに、これからやり直そうとしていた時に、理不尽に命を奪われた、悠の無念を深く深く考えてもらいたいです。


2004年8月8日 日曜日
浜大津の花火大会でした。
一人寂しくベランダで見ていました。悠の元気なときは会社の方など招待していました。今まであまり見れなかったので、悠と共にの気持ちで最初から最後まで見ていました。


2004年8月1日 土曜日
大阪の難波で「被害者加害者対話への期待、今後の可能性」についてミニシンポジュウムがあり、参加させていただきました。
家裁調査官・法務教官・保護司の方のお話がありました。最後に被害者として奈良少年刑務所に講演させていただいた話をしました。皆の前では元気にしてる私ですが、帰りに飲んだワインが効いたのか、悲しくなって、悠が大阪の病院に入院してた時のことや、リハビリ通院してた頃を想い、電車の中で泣いていました。泣くほうが辛いので、いつも我慢しているのですが・・・


2004年7月30日 金曜日
父が退院しました。熱も下がり元気になりました。
お見舞いに行くといつも悠のことを聞くので辛い部分もありましたが、元気になってもらいたいので、めげずに夕食の時だけでもお見舞いに行くようにしていました。


2004年7月23日 金曜日
広島で講演させていただきました。講演後に控え室でご住職様のお話が短い時間でしたが胸に残りました。


2004年7月15日 木曜日
大阪市西成区“社会を明るくする運動”にて飯島京子さんが講演をされたので、午前中は仕事をしてて、午後に聞きに行きました。


2004年7月10日 土曜日
 NPO法人犯罪被害者支援の会 appui 主催 第四回 Messages of Hope 〜誰も傷つけない、傷つけ合わない社会に!〜 「名古屋市女性会館」ホールにて、12:30開場 13:00開演
何もしないで寝たので、夜中に何度も起き、朝早く起きられなかった。岐阜羽島で雨のため50分近く新幹線の中で待っていた。


2004年7月7日 水曜日
父に熱があり、緊急で見てもらいたかったのですが、救急の受付の呼んだ先生の背中から父を診た「外来で」との一言で入院するまでに4時間以上かかりました。12時に行って、病室に入ったのは4時を過ぎていました。外来の受付の方は親切で検査を待つ間、ベットで寝かせていただいたので助かりました。夕方、自宅に帰り仕事をそのままにして出かけたので、片付けて、また着替えなど持っていきました。


2004年6月27日 日曜日
謝罪についてなどのテレビの取材がありました。
フジテレビ夜10:30〜11:55の「EZ!TV」で、アピュイの活動や飯島友樹の事件が放映されました。アメリカの少年院の様子も特集されました。


2004年6月26日 土曜日
久しぶりに大阪に行きました。第4回少年ネットワークの総会が大阪でありました、アピュイ代表の飯島京子さんが少年院で講演された様子などを話されました。内容の濃いものでしたが、時間が限られていて惜しい感じがしました。東京や長野からも参加されていました。シンポジユムが終わってから、交通遺族の方と待ち合わせして、食事に行きました。


2004年6月8日 火曜日
中日新聞の朝刊に掲載されました。



2004年6月7日 月曜日
11時から裁判がありました。刑事記録に反論する書面を作成するため2ヶ月ぐらい期間がほしいと被告の弁護士が言ったため、次回は8月になりました。その後、5階で代理人のみの話し合いがあり、和解を宣告されましたが、被告も争うにナました。


2004年5月28日 金曜日
アピュイ代表の飯島京子さんと奈良少年刑務所に講演に行きました。
1年に補導される人が2万人ぐらいいて、その中の0.01%の200人ぐらいが刑務所に行くと聞いていてどんな恐ろしいところかと思っていました。奈良少年刑務所は明治にできたレンガ造りの建物で、私は網走刑務所を思いました。

悠が交通事故に遭う1週間前(99年8月)、悠の祖父と3人で北海道ドライブ旅行をして、網走刑務所にも見学に行きました。その時は悠は車の中で寝てて、私と父と2人で見学に行きました。後から悠も見たかったと言ってました。

講演の前に刑務所の中を見学させてくれました。私は悠と北海道ドライブ旅行をした幸せな時を想いました。今は悠は殺され、父は寝たきりになり、私は被害者になって講演に刑務所に来てる現状を思い涙が溢れました。

刑務所内で少年達は、厳しくも社会復帰のためいろいろな作業を勉強していました。生きている加害者達が羨ましかったです。独房も見せてもらいましたが、テレビや映画の中で見たおトイレがあり、お布団がきちんと畳んでありました。現在、刑務所は入る人が多くて、独房も2人の場合いがあると聞いて、「それは厳しいな」と思いました。講演で事件の概要や悠がいかに壮絶なリハビリを乗り越えて歩けるようになったかなど話します。最後の言葉として、悠はたくさんの夢を持っていましたが絶たれました。あなた方は命があるのだから「命を大切に」生きてほしいと言います。私の加害者は一生許すことはできないし、死んで償うか、気が狂って死んでほしいと願ってます。でも刑務所にいる少年達には「強く生きてほしい」と真剣に言いました。理不尽に命を奪われて息子の無念、遺族の深い悲しみ、辛い気持ちなど、被害者の生の声は伝わったと思います。命の大切さも。少年達からのアンケートや感想文を読み、深く伝わったと思います。私は再犯して欲しくない。息子の命をいかしたい。被害者の想いを伝えたいなどの気持ちを持って、真剣に訴えています。

しかし、6月1日に佐世保の痛ましい事件があり、その加害者に強く生きてほしいなど絶対に言えないと思いました。


2004年5月22日 土曜日
京都で講演会をさせていただきました。講演後、座談会があり、たくさんの励ましをいただきました。学生さんから「加害者が仏様にご縁をいただいて償う気持ちになればいいですね」というような感想を聞きました。久しぶりに京都駅近くの本屋さんに行きましたが、悠のリハビリしていた頃は「リハビリの有名な病院」などの本をよく探していたと思うと、違う本を探す気にもなれず、お腹も空いていましたが、帰宅しました。


2004年5月21日 金曜日
長い間、HPの日記など更新できませんでした。5月中旬に熱心な勧誘によりモデムを変更したら、HPの更新ができなくなり、問い合わせたら、「電話の回線にしたら可能」と言われ、そのようにしたら、パソコンが固まってしまい、電源を落としてしまったら立ち上がらなくなりました。そのパソコンは悠が亡くなってからHPを立ち上げるため購入したパソコンでした。容量が少なかったのでその後、買いかえたパソコンはウイルスに感染してから調子が悪くて、この機会にリカバリをしたら、ファイルをしたつもりでしたが、メールなどは全部消えてしまいました。たくさんの励ましのメールをいただいてて、元気づけられていたものが無くなってしまいました。(アドレスも全部消えてしまったので、また懲りずにメールをいただけると感謝です。)
ホームページもフャイルがうまくいかないので、これからぼちぼちしていきます。


2004年5月14日 金曜日
悠が亡くなってから、3年1ヶ月あまり経って初めて草津の市場に行きました。3年前の3月31日の土曜日、市場で買い物してる間、殴られていたと思うと、なかなか行けませんでした。毎日、悠のいない寂しさで胸が締め付けられますが、忙しさで気を紛らせています。


2004年5月8日 土曜日
今日から5月のスイミングの教室の開始です。長い休みだったので、腰痛になりそうでした。毎日、重いものをもったり、長い時間座ったり、かがむ仕事が多いので、ギックリ腰になりそうです。スイミングに行くと楽になりそうです。45分間、水の中で体操するのは気分転換になってます。


2004年5月6日 木曜日
午前中は仕事をして午後から外出していました。賠償金は振り込まれています。


2004年5月5日 水曜日
今日からまた仕事を始めました。途中で食事をしたりしますが、終わるのは夜の10時ごろです。


2004年5月4日 火曜日
連休は仕事をお休みにしました。今日は1日雨だったが、やっと、メダカの水を換えました。


2004年4月23日 金曜日
朝日新聞京都新聞産経新聞中日新聞が意見陳述の記事を掲載してくれました。心から感謝です。
被告側の3人は「死ぬとは思わなかった」とか「反対に迷惑」のようなことを言ってます。


2004年4月22日 木曜日
食べ物の商売をしているので、炊くのに朝早くから取り掛からないといけなくて、早朝に原稿を1回だけ読みました。夜に読むと寝れなくなります。午前中に仕事をして昼から裁判所に自転車で向かいました。悠の遺影を荷台にのせたのですが、紐がほどけて、悠が景色を伺ってるようでした。幼児から小学生の頃は、悠を自転車に乗せて、大津市民会館に児童美術や習字を、また、浜大津にスイミングも毎週通っていました。あの時の、将来に向けての幸せは全く無くなりました。午後から見張り役3人に対する意見陳述を20分間させていただきました。
神戸から学生さんが休講して、応援傍聴に来てくれました。とても心強かったです。
私の陳述を聞いて涙する裁判官(若い女性の)、悠の事件を知らないで引き受けたような若い被告側弁護士の
苦痛というより何かをこらえている表情、同じく裁判長の表情…私は目の前の被告側の弁護士に向かって訴えていましたが、女性の裁判官の鼻をすする音が聞こえました。
私の母親の想い、悠の無念の思いがしっかり伝わった証拠ではないかなと思います。


2004年4月21日 水曜日
朝、原稿を読みながら泣いていました。あまりにいいお天気なので、悠のお布団を干しました。亡くなって3年ぶりです。悠の汗のようなにおいと埃にまみれていました。明日のためにも、気合をいれないとと思いながら、遅くまで仕事をしていました。


2004年4月19日 月曜日
やっと、午前中に意見陳述の原稿を作成しました。その後、仕事をしていました。


2004年4月17日 土曜日
朝早く起きて、悠のテレビ放映のダビングをしていました。今日の原稿の見直しもしていました。酷い内容なのでギリギリにばらないとできません。西大津駅から出かけましたが、立派なエレベータが設置されました。悠が大阪の病院にリハビリで通院してた頃(4年前)は無くて、階段を一歩づつ苦労して上り下りしてました。
宝塚の近くの西公民館で「少年法を考える」で講演させていただきました。お話しさせていただいて良かったです。被害者の実情も知っていただきたいです。さわやかな暑いぐらいのいいお天気でした。


2004年4月11日 日曜日
悠の部屋を掃除してました。たくさんのコミック本があるので番号順に整理してましたが、悲しくて途中で止めて、自分の部屋で泣いていました。


2004年4月6日 火曜日
どんなに疲れていても朝まで眠ることができず、AM5時過ぎにウトウトしました。3年前のAM4時25分に悠は亡くなりました。悠に「お母さんを置いて行かないで」とどんなに泣き叫んだことでしょう。31日に脳死状態にさせられて、大津市民病院で手厚い看護を受け見送っていただきました。そのことは救いになってて心から感謝しています。悠が亡くなってからお知り合いになった遺族の方に、立派なお花を遠くから届けていただきました。悠の仏間はお花で溢れています。母親想いの優しい悠が見守ってくれていると思います。
今日、発売の女性自身 4月20日号のグラビアに「生きていきたい」 最期の手紙で悠の写真が掲載されました。命日に載り、どんなに生きたかったかと思います。


2004年4月3日 土曜日
寝たきりになった悠のおじいちゃんに家に来てもらって、家族だけで3周忌をしました。

4月からスイミングのアクアの曜日が増えたので、夜はスイミングに行きました。家に居ても辛いので、「悠のためにも健康でいよう」と思っています。


2004年4月2日 金曜日
明日、身内だけで法事をするので、仏間など久しぶりに片付けていました。リビングも模様がえをしました。
悠の部屋を片付けようとしましたが、悠の書いた文字など見て涙ぐんでいると進まないので止めました。
アピュイのHP 
http://www.npo-appui.com/ 人とひと欄に 第5回 少年法改正の前日に、息子の命を奪われてを掲載していただきました。


2004年3月31日 水曜日
1年で一番辛い31日がきました。「高校の合格祝いをしてあげる」と喜んでカラオケに出かけた時間、2時間殴られているのも知らないで、買い物をして、夕食を作って待っていた時間、「気絶してる」と電話があり、急いで119番して自転車でH小学校にかけつけた時間、頭蓋骨を外す手術の時間と、家中の時計を伏せてしまいたい気持ちです。余裕があるといろいろ考えるので、仕事をしていました。夜、現場近くの郵便局にいきましたが、辛くて小学校には行けませんでした。


2004年3月29日 月曜日
明日、雨という天気予報で仕事をお休みにしたので、久しぶりに掃除をしていました。悠の仏間を片付けていましたが、息苦しかったです。写真もたくさん飾っていますが、見ていても悲しいだけです。せめてお花だけ明るく飾っていますが・・・
いろいろな方からメールで励ましていただいてます。返事は出せていませんがありがとうございます。
見張り役の3人の裁判が、次回4月22日(木)13時05分からあり、20分間法廷で意見陳述させてもらいます。場所は大津駅前の大津地方裁判所です。ご都合のつく方は、是非、応援傍聴に訪れてください。


2004年3月27日 土曜日
3年前は悠が昼間の高校を受験して合格して歓喜してた状態なので、そのことを思うと堪らなくなります。外は春日和で暖かくいいお天気です。朝、割り木を運んでいたので、疲れて寝そうでしたが、滋賀県に講演に来られた遺族の方が電話くださり、大津駅まで自転車で行って、しばらく話をしていました。


2004年3月22日 月曜日
さすがに疲れて、朝起きたとき、喉が痛くて「ヤバイ」と思いましたが、疲れた身体で朝はスイミングに行き、午後からは仕事をしていました。3月は辛い日々なので、毎日が苦しいですが、仕事することで、疲れて寝るようにしています。


2004年3月21日 日曜日
西宮市の関西学院大に行きました。ボーリス建築の立派な洋風で高い建物も無く穏やかで、庭もとても素敵で、この大学で学んでいる学生さん達が羨ましかったです。悠が亡くなってから、講演などでいろいろな大学を訪れるようになり、悲しく辛いことですが、あんなに大学進学を夢見て、1歩を進み出したとき、命を奪われた悠の無念を思うと堪りませんが、泣き叫ぶより、法律などの専門家が深く深く被害者の現状を把握していただき、法律を見直していただきたいと願います。そのためにも少しでも発言の機会を与えられれば、伝えたいと思います。被害者・加害者対話の支援センター設立集会がありました。私は加害者を一生許すことは出来ないし、対話もありえないと思っています。しかし、発足される以上、少しでも被害者の気持ちをわかってもらいたいと思っています。遺族として出来ることをしていきたいと思っています。


2004年3月20日 土曜日
午後から大阪に出かけました。何年経っても、悠と共に大阪までリハビリに通っていたので、いつもその時の事を思います。横に悠ちゃんが座っていればどんなに幸せかと思います。悠の死を無駄にしないためにも、一人でも多くの方に被害者の現状を伝えたいと思います。


2004年3月19日 金曜日
今日はお休みなのでお昼ごろまでゆっくりしていました。午後から郵便局やコピーなどに行きました。
家の掃除が捗らないので、それがストレスになっています。
20.21日は大阪に出かける予定です。


2004年3月16日 火曜日
午前中は仕事をして、お昼に税務署に電話して遅れて提出しても大丈夫か確認しました。
昼から税務署に行きました。青色申告は初めてなので、いろいろ質問しましたが、親切に教えていただきました。申告してホッとしました。疲れていましたがスイミングに行きました。あまり食べれなかったのに体重は減っていませんでした。


2004年3月15日 月曜日
午前中は申告書を作成していましたが、提出は無理なので午後は仕事をしていました。また夜から領収書など徹夜でまとめていました。長い時間があったのに、いつもギリギリにならないとできなくていつも反省です。


2004年3月14日 日曜日
青色申告を作成しなければならないのに、起き上がれず1日寝ていました。夜はあまりの空腹感に起きて、おうどんを作っていました。
立っているのもしんどかったですが、昨日、出来なかった、仕事場の洗い物があり、夜に釜や鍋など洗っていました。


2004年3月13日 土曜日
疲れていましたが、8日からずっと仕事をしていました。「しんどい」と言うと、家族から「外出が多いから」と言われるだけなので
言えません。午前中は仕事をして昼から大津の交通遺族の方の一周忌なので自転車で1時間かけてお参りに行きました。思いきってお参りさせてもらって、お母様が息子さんのために一生懸命されているのが伝わってきました。ステキなステキな手作りの絵本をいただきました。お宅が悠の高校受験に付き添った近くだったので、電車やバスに乗るのが辛かったのです。春めいていいお天気でした。春めいてくるのも悲しくて頭が痛いです。さすがに帰宅して寝込んでしまいました。


2004年3月7日 日曜日
晴れていましたが、風が強く寒い日でした。会場は9階でしたが、オープニングは1階の外で和太鼓の演奏がありました。寒い強風の中、コートも着ず看板を持っておられた方が居て本当にご苦労様です。その後、空手技などありました。大津開催以来出会う方がいて、久しぶりにいろいろ話しました。高校生の方のコーラスは素晴らしかったです。後片付けをして交通遺族の方と食事をして、遅く帰ったのでさすがに疲れました。


2004年3月6日 土曜日
渋谷の駅員さんに道を聞いて、12分で行ける所を、40分以上回り道して歩いて行き,おかげで原宿は見られましたが・・・・。ジェントルハートの設立一周年記念シンポジウムがあり、森田ゆり氏のこころとからだへの暴力についての講演がありました。私はパネルディスカッションで大人は何ができるかでパネリストとして参加させていただきました。悠の写真も飾ってもらいましたが、遺影で参加しなければならない深い悲しみを思い、涙が溢れました。夕食会で久しぶりにワインを飲み、酔ってしまい、新幹線で東京から名古屋まで寝ていました。明日、名古屋のメッセージ展に参加するため、名古屋に泊まりました。


2004年3月5日 金曜日
明日は東京でパネリストで参加し、7日は名古屋のメッセージ展に参加します。


2004年3月1日 月曜日
東京の遺族の方が関西に来られて、悠の仏壇にお参りに寄っていただきました。たくさんのお豆も買っていただきました。仕事があったので、ゆっくり話せず残念でしたが、とても嬉しかったです。


2004年2月29日 日曜日
昨日も寝てばかりいました。緊張感が少し取れて、疲れが溜まっていたのか眠くて。テレビを見ながら1週間分の洗い物をして、2月にいただいた意見をUPしました。皆様の励ましに感謝です。
去年の11月に埼玉でアピュイの第2回シンポジュムがあり、一緒にパネリストとして参加された北海道の木村さんが署名運動を始められました。詳細は柳原三佳さんのHPを見てください。http://www.mika-y.com/
ご協力よろしくお願いします。


2004年2月28日 土曜日
来週の3月6日は東京 渋谷(於 東京ウィメンズプラザ)でジェントルハートの-設立一周年記念シンポジウム-こころとからだへの暴力があります。パネルディスカッション 大人は何ができるのかでパネリストで参加させていただきます。お近くの方は是非会場まで訪れてください。


2004年2月27日 金曜日
今日は仕事がお休みなのでゆっくりしてました。1日オウムの判決が報道されていました。加害者の弁護士の記者会見の内容、また控訴するのは耐えられませんでした。加害者の国選弁護士費用のために、税金が使われるのでなく、
被害者の支援のために税金を使ってもらいたいです。


2004年2月26日 木曜日
午前中は仕事をして、洗い物をしてから大阪に出かけました。悠のリハビリのため入院してた高槻の病院が電車の窓から見えます。ベットでの姿や土・日は自宅に帰っていたので病院から高槻駅までがタクシーもひろえなくて1歩づつ歩いたことが思い出されます。病院の看板が見えるだけで涙が溢れます。
豊中で「息子のまなざし」のビデオを見ました。映画は映画で父親の落ち着きのない行動など理解できませんでした。最初は挙動不信状態であっという間に映画は終わってしまいました。あれが被害者の姿と思わないでほしいです。被害者はあまりの怒り・悔しさ・悲しみなどの中で気が狂わないように生きています。悠はメソメソするの嫌いだったので、私自身人前では明るく振舞っています。しかし、そういう自分が厭になることもあります。


2004年2月24日 火曜日
昨日の公判の新聞記事です。産経新聞・中日新聞・読売新聞

見張り役の3人は弁護士をたてて争う構えです。もし、悪くないと言えるのなら、次回は法廷に出廷し、真実を述べてもらいたいです。高校合格して歓喜してる悠をだましてなぶり殺しを見てた理由を聞きたいです。


2004年2月23日 月曜日
見張り役の3人の第1回の公判がありました。自宅から裁判所に自転車で向かいましたが、急に夕立のように雨が降り、風邪も吹き荒れていました。悠はお母さんに何を言いたいでしょう。見張り役に何を言いたいでしょう。
生きたかった悠の無念の想いを、見張り役の3人も保護者もわかってもらいたいです。
帰り道もきつく雨が降り、「悠が怒っている、悠が泣き叫んでる」と思いました。


2004年2月22日 日曜日
午後からアピュイのシンポジュムが「ひと・まち交流館 京都」でありました。法曹界・弁護士の方、少年院の院長さん、学生さんなど多くの方に訪れていただきました。遠くからもきていただきました。私はパネルディスカッション「被害者は何故悩むのか?〜真実を求めて〜」に出席させてもらいました。皆様に被害者の現状を知ってもらい、加害者を擁護ばかりしないで、被害者の権利が向上されていくことを願います。
山上先生の言葉が紹介されましたが、「国が今まで何をしてきたか?何をしてこなかったか?」が響きました。


2004年2月21日 土曜日
午前中は仕事をして、午後から京都に出かけました。明日のシンポジュムの打合せと準備です。暖かいいいお天気でした。久しぶりに京都で食事もしました。


2004年2月17日 火曜日
毎日テレビ VOICE 4チャンネルで18時23分から「被害者の言葉に少年は・・・」で紹介されました。
講演を聞いた少年の言葉ですが、「息子さんが生きて帰らない限り、母親の怒り、憎しみ、悲しみ、苦しみが消えないというのが伝わってきました。2度と同じようなことをして被害者を出さないと考えました」と答えていました。辛い作業ですが悠が言ってた「命を大切に」を伝えていきたいと思います。


2004年2月16日 月曜日
ズボンの裾を直しながら、映像04を見ていたので、AM2時過ぎに寝ましたが、朝暗いうちに目が覚めました。
8時ごろから仕事を午前中して、あわてて京都に出かけました。飯島さんと京都駅で待ち合わせて一緒に京都医療少年院に向かいました。飯島さんの密着取材がありました。少年院内にテレビカメラが入るので、とても緊張しました。
朝のテレビのみずがめ座の運勢で「発言に不思議な力強さと、その一言で救われる人がいる」とでたので、私自身が力強さをもらいました。
とても緊張しましたが、少しでも母親の想いが伝わるように一生懸命伝えました。真剣に静かに聞いてくれました。少年たちが講堂から退場する姿を見てて、命がある彼らを羨ましくて涙が出ました。取材されてる方に「講堂内は緊張でピリピリしていたが、飯島さんと青木さんが入場してきて温かい空気が流れてた」と言っていただきました。夕方帰ってから、また仕事していました。仕事は大変ですが、仕事があるのはありがたいと思います。


2004年2月15日 日曜日
今日は朝市でしたが、明日を控えて参加しませんでした。(言い訳ですが)明日の原稿を作成していました。集中力を高めるために、悠が亡くなってから初めて、近くの湖岸の水泳場などに散歩に行きました。湖面は穏やかで悠の幼かった頃の笑い声が聞こえてきそうでした。現在は悠のためにも、強く生きようと思ってますが、亡くなった時期だったら、テレビドラマのように、服を着たまま、湖面に進みそうでした。
メソメソするのが嫌いだった悠のためにも泣かずにいようと思いますが、何度、原稿を読んでも涙が溢れます。


2004年2月14日 土曜日
悠が小学生の頃の夢を見ました。殺されたと思っていたのに、生きていた夢でした。
角川新書の女子少年院(魚住絹代著)を徹夜して1日で読みました。「被害者の苦しみと向かい合う」で飯島京子さんの活動など紹介されていました。遺族の気持ちと違うと私は思ったので、(16日に京都で飯島さんに会った時、「本の内容を知っていますか」と確認しましたが、ご存知でなかったです。)


2004年2月13日 金曜日
仕事をお休みにしたので、朝から22日に行われるアピュイの講演会のチラシを1日かけて送りました。夜はスイミングに行きましたが、16日の講演を前にして緊張してて、それを考えてアクアすると間違えて足がバラバラです。


2004年2月9日 月曜日
私の誕生日でした。悠が居たら、「祝ってくれたのに」と、私だけが歳を重ねるのは哀しいです。悠はずっと16歳のままで笑顔で出かけたままです。
くおーたりーSUITA冬季号のタウン誌が送られてきました。昨年の12月に関大で講演させていただいた様子をジャーナリスト矢野宏さんが怒りの事件簿で紹介していただきました。私の講演を「未来のマスコミ人たちにとって、心に残る贈り物になった」と書いてくださいましたが、学生さん達の温かい励ましが私の誕生日プレゼントと思いました。ありがとうございます。


2004年2月6日 金曜日
朝市に行って、銀行に寄りました。夜はスイミングに行きました。月命日にアクアしていると、悲しくなってきますが、健康のためと自分に言い聞かせています。


2004年2月5日 木曜日
わかやま新報 http://www5d.biglobe.ne.jp/~wai-y/wakayama/
に生命の手記Kが掲載されました。


2004年2月4日 水曜日
1月は仕事を休んでゆっくりしていましたが、今日から仕事を始めました。休んでいると朝がゆっくりできていいですが、1日ボーとしてて、よくありません。静か過ぎる家はきついです。


2004年2月3日 火曜日
今までなかなか処分できなかったジャンプ100冊ぐらいと1年分ぐらい溜めていた新聞誌を廃品回収の方に持って帰ってもらった。悠の部屋からマンガ本を取り出すのは苦痛でした。コミック本もたくさんありますが、それは大切に保管してます。悠はマンガを書くのも好きでたくさんのノートに書いています。


2004年1月31日 土曜日
神戸の甲南大学で朝10時から修復的司法の勉強会があり、京都医療少年院でお話しさせていただいた内容の講演を30分間させていただきました。私は法律の専門家の方達に被害者の生の声を聞いていただきたいと強く
思っていました。私は加害者を一生許すことはできないし、会いたくないと思っています。修復的司法という言葉も嫌いです。悠が修復されて生きて帰って来るのだったら・・・
午後は「被害者加害者対話の会」の勉強会があり、被害者の気持ちを話させていただきました。この機会を与えていただいたI判事に感謝します。


2004年1月30日 金曜日
お昼に京都駅でアピュイ代表の飯島さんと待ち合わせ、京都府庁・京都市役所など2月22日のアピュイのシンポジュウムの広報のお願いに行きました。アピュイのHP http://www.npo-appui.com/
京都府庁は元会社の研修所の近くなので、地下鉄に乗って行きましたが、パソコンなど習いに通っていたことを思いました。教育委員会の窓口の方などは悠の事件を知らない感じでした。夜は豊中のI判事のお宅に行き、31日の事前打合せをしました。その後、皆様と卓球をしました。悠と北海道旅行へ行き、日本海の船上で卓球した(99/8)以来でした。


2004年1月26日 月曜日
午前中はスイミングに行って、午後に来客があるので、お手洗いや洗面所などを掃除していました。学生さんに被害者の現状、少年法の問題点などいろいろお話しさせていただきました。
新聞やテレビで、岸和田の15歳の中3生が3ヶ月も食事が与えられず、虐待を受けていた
ことが報道されていましたが、あまりの残酷さに涙が溢れました。1食抜いても、お腹が空いて眠れないのに。


2004年1月25日 日曜日
1月のフライデーの短期集中問題提起ルポは「命」を奪った少年たち-その”贖罪”を問うが掲載されています。酷い写真が載っていてなかなか読めなかったのですが、人間は集団になるとどうしてこんな残酷なことができるのか。命を奪う権利は誰にもないし、どんなことをしても命を償うこともできない。


2004年1月24日 土曜日
昨日、今日の準備を何もせずに寝てしまったので、朝から、午後の京田辺市青少年問題連絡協議会主催の「地域子育てセミナー」に講師としてお話しさせていただく、原稿を作っていました。会長の方は「生命のメッセージ展」の大津開催の時、会場に訪れていただき、お花もいただきました。原稿を2時間ぐらいかかって作成し、お昼になり、やっと印刷をしようとしたら、印刷がエラーになって、何度やり直しても結局できなかった。(前日にしておかなかった反省です)
あきらめて電車の中で、また、昨日の原稿にプラスしていた。幼稚園・小学校・中学校の父兄の方にお話しを聞いていただくので、私自身、子育ては後悔することばかりなので、これから子育てされる方に少しでも参考になれればと思います。私は仕事が忙しかったということもありましたが、始発で出勤して、悠を電話で起こしたりしていて、朝食もきちんと作らなかったし、お弁当も覚まさずにそのまま入れていたし、トンカツなど茶系が多かったので、厭だったと思います。悠は文句も言わなかったけれど、可哀相なことをたくさんしてきたと後悔しています。
辛い話しをみんなの前ですることは、身を削る(太っていますが)思いですが、悠を幸せに出来なかったお詫びのつもりで、お話を聞いてくださった方が少しでも何かを感じていただければと思います。
京田辺市は宇治茶の名産地でおいしい玉露を中部住民センター(せせらぎ)の所長さんが入れていただきました。


2004年1月23日 金曜日
燃えないゴミの日だったので、長い間、押入れの上に放っていたアメリカンフラワーの材料などたくさん捨てた。
お昼に大阪なので早めに出かけた。大阪被害者支援アドボカシーセンター主催の電話相談員養成講座の講師としてお話しをさせていただきました。三木先生の「犯罪被害者の心理と支援」の講話もありました。
電話相談ボランティアの方に、少しでも被害者の気持ちが伝わればと思います。帰り道、デパートに寄って、全国の有名駅弁を買おうと思いましたが、長い行列だったので、地下でイカ焼きを買って、スイミングに間に合うように帰宅しました。
スイミングに行って、長い時間をサウナに入っていたので、疲れて早い目に寝ました。


2004年1月22日 木曜日
朝、水溜まりが凍っていた。パンジーやビオラも凍っていそうだ。思い切って、たくさんのゴミを捨てた。明日は電話養成講座の講師と
して大阪に出かけるので、夜遅くまで原稿を作成していました。


2004年1月15日 木曜日
昨日、自分の部屋の掃除してて、悠の写真を入れていた定期入れが出てきて、ホッとして眺めていた。毎日、寝る時も起きるときも「悠ちゃん、悠ちゃん」と名前を呼んでいますが。久しぶりに悠の幼かった可愛いい写真の悠が夢に現われた。今日も部屋の掃除していたが、悠の育児日記が出てきて、涙ぐんでいた。


2004年1月13日 火曜日
悠が4歳(1963年)の時、大津市民大学を受講してて、その時の修了書が出てきた。並河万里さんの講座があったのが、受講の1番の理由でしたが、その時の感想文で世界の平和を望むと書いていた。


2004年1月9日 金曜日
夕方、久しぶりに、一人で歩いて近江神宮にお参りに行きました。悠が通った保育園も移転され、跡地のみです。家に居ると、1日、リビングに座って、根が生えそうです。風もなく穏やかな日でした。家に帰れば悠が待っていてくれれば、もう何もいらないと思います。泣くことも、叫ぶこともできず、健康に気を付けて、乗り越えたいと思います。夜はスイミングも行きました。45分、水の中で体操します。おかげで風邪もひきません。
岡崎さんの署名ありがとうございました。


2004年1月8日 木曜日
今朝の毎日新聞に「被害者が少年院で講演」で、和歌山の自助グループの「なごみの和」や飯島京子さんの紹介がされています。来月の16日もアピュイ代表の飯島さんと京都医療少年院に講演に行きます。去年、講演した時、少年達は涙を浮かべ真剣に聞いてくれました。また感想文も「心に伝わった」などたくさん寄せてくれました。


2004年1月7日 水曜日
朝刊に見張り役の提訴の記事が掲載されました。壮絶なリハビリを乗り越えた悠に対して、見殺しにした人達を悠の代わりに、責任を追及し、真実を求めます。
朝日新聞京都新聞産経新聞中日新聞
読売新聞


2004年1月6日 火曜日
昨夜、寝れなくて、朝までもんもんとしていました。朝、銀行に行って、収入印紙代を払い出しに行きました。また、加害者から振り込まれているか書き込みに行きました。悠の月命日なので、春色の花を仏壇に供えました。
午後、大津家庭裁判所に見張り役の3人の提訴をしました。記者会見もあり、18時台のニュースやBBC・NHKで放映されました。


2004年1月4日 日曜日
スイミングに行って、水の中で歩いていました。昼から美容院に行きましたが、見張り役の家の前を通っていきました。


2004年1月3日 土曜日
スイミングの初泳ぎに行きました。健康に気をつけて、今年1年を乗り越えていこうと思います。


2004年1月1日 木曜日
お正月に悠から携帯で電話掛かってきたのは、もう3年前になるのだと想うと悲しくて、辛い。でも、悲しい、悲しいと思っているのだけでなく、これから、見張り役の3人を訴えていくので、健康に気を付けて、戦っていこうと思います。
朝、郵便局の本局に自転車で行きましたが、いいお天気で汗をかきました。帰り道、100円ショップに寄って、いろいろ整理用品を買いました。これからいろいろ整理して片付けていきたいです。


2003年12月31日 水曜日
昨日に、今日の注文分を入れたので、店番のみで楽です。母と一緒に居ると、「悠は不憫だ、可哀相だと」と泣くので、私も泣きそうになるのを堪えているので、洗い物をしていました。夜の6時に店を閉めて、家でうたた寝していました。あまり悠のことを想うと辛いので、ぬるいお風呂に入りながら新聞を読んでいました。


2003年12月27日 土曜日
今日の朝刊で「見張り」3少年提訴の記事が掲載されました。年末の家業で忙しいですが、今日は電話に追われていました。NHKのニュースにも放映されました。産経新聞毎日新聞・京都新聞・中日新聞・日本経済新聞
悠の母親として、悠の変わりに、3少年の責任と真実を追求していきたいです。


2003年12月24日 水曜日
閉店間際のお店に、エプロン姿にコート着て、ショートケーキとお花を買って、悠に供えました。4年前のクリスマスイブの日に、大阪の病院にリハビリのために入院した日です。お正月明けでも入院は良かったのに、1日でも早く入院して、少しでも良くなることを願って入院しました。あの時のことを思うと、涙が溢れます。悲しみをこらえて、仕事を一生懸命していました。仕事後、悠のパジャマを着て、サンタさんのプレゼントで悠が夢に出てきて会えることを願って寝ました。


2003年12月21日 日曜日
午前中はゆっくりテレビ見ていたのですが、署名を頼まれて、あわててまだ残っていたチラシを近所の住宅地に配りに行きました。小学校の頃の悠がよく遊んでいた公園や公文を習っていた教室の前を通ったので、悲しかったです。悠はいつも「お母さん無理しないで」と言ってるようですが、何もしないのも苦しいし、怠けるとずっと怠けたままになりそうで、いつも自分に課題を与えています。暗くなって帰宅してから洗い物をして、やっと、パソコンの前に座って署名用紙の貼り付けなどしていました。皆様のご協力をお願いします。


2003年12月20日 土曜日
朝起きたら、一面雪景色でした。夕方買い物に歩いていきましたが、道路の雪は解けていましたが、また降ってきました。


2003年12月19日 金曜日
スイミング行って、いつも体重量るのですが、今までで一番最高の記録でした。夜、パソコンなどして寂しくなると、よく飲んで食べます。運動もかねて、帰りに近くのマンションなどに商売用のチラシを配っていました。明日、雪の予報なので風がきつく、寒くて、夜遅かったので怖かったです。


2003年12月18日 木曜日
ずっと行こうと思って、なかなか行けず今日やっと行ってきました。「生命のメッセージ展」in滋賀でJA中央会の専務さんに親切にしていただき、たくさんの寄付もいただき、とても嬉しかったので、貯金をJAにしました。

取引してた銀行に「メッセージ展のポスターを貼ってほしい」とお願いしたら、「本店の総務に行って許可もらって下さい」と言われ、それから銀行に預けるの止めてました。


2003年12月16日 火曜日
関大に講演に行って、感想文を400字の原稿用紙に2枚に書いてくださり、40部余りの感想文をいただきました。
悠が亡くなってから、初めてずっと行かなかった近くの川(悠と鮎つかみやざりがり取りや散歩したところ)の方面に商売のチラシなど配布して、悲しみに沈んで帰宅して、たくさんの感想文をいただき涙ながらに読みました。学生さんに講演を真剣に聞いていただき、
感想文を丁寧に書いていただき、たくさんの励ましいただきました。
ある学生さんの「悠君の死は悔やんでも悔やみきれませんが、その代償としてわれわれにいろんな物を残してくれた。これからも悠君の意志を伝えてほしい」と言っていただいて、これからも頑張って伝えていこうと思いました。私はマスコミを目指してる学生さんに「マスコミは守り神」と言いました。マスコミを目指してる学生さんにとって「嬉しい」と言っていただきました。最初の新聞報道があまりにも事実と違って、誤解を解くのに苦労しましたが、テレビ報道されたことによって、世の中にこんな理不尽な殺人があり、残忍な加害者を法律が守ったことを伝えてもらいました。また、私が加害者の逆恨みにより殺されたとしたら、マスコミが黙っていないと思います。


2003年12月15日 月曜日
さいたま市大砂土東公民館主催で見沼小学校で講演があり、参加予定のアピュイの方が病気で、急に参加することになりました。朝5時に起きて、始発の新幹線で東大宮まで行きましたが、指定席がとれず、自由席も満席でしたが、名古屋から座れてホッとしました。朝、出かける前、悠の仏壇に無事講演できるお願いと、座れるように勝手なお願いをしましたが、叶えられて良かったです。見沼小学校の父兄の方が、私の話しと飯島さんのお話しを聞いていただきましたが、あまりの酷さに絶句という感じで言葉がでませんでした。講演のお骨折りしていただいたPTAの会長さんとお昼を一緒にして、すぐ帰りました。(PTAの会長さんは11月初めのアピュイの講演を聞いていただいて、私の推薦もしていただきました。)18時〜KSRの情報開示のテレビ放映があり、是非見たかったです。全国で活動されているお母さんのパワーを見習いたいと思います。


2003年12月14日 日曜日
今年は年末家業をするので、予約のチラシを作って、配りに行きました。悠が亡くなって、家業を辞めたと思っておられる方が多いです。悠のためにも頑張って、佃煮屋を守っていきたいです。


2003年12月9日 火曜日
税務署の決算説明会があり、大津市役所の別館大会議室に行きました。大会議室は悠が幼い頃、写生大会で入選し、よく表彰式に来てたところです。考えると悲しくなって苦しくなるので、説明に集中してました。夜はスイミングに行き、健康のためアクアしてました。


2003年12月7日 日曜日
久しぶりに悠の仏間の掃除をしていました。箱に入れたままの写真も見ました。悠の小学校の頃は、休日に会社の人達とバーベキューや、よく行事に参加していたので、笑顔の写真ばかりでした。もう再び戻ってくることのない幸せの時間でした。


2003年12月6日 土曜日
大学生協京滋・奈良地域センターの2004年度総会に「生命のメッセージ展」の実行委員として、来賓で招待していただきました。小雨の中、京都橘女子大学に行きました。分科会にも参加させていただき、1回生の学生さんを見ていると、悠はあんなに大学目指していたのにと思いました。学生さん・職員の方、みんなの熱意や活気など感じる時間でした。人のつながり、思いやり、優しさなどの大切さを感じました。悠の月命日に家で泣いてるのでなく参加できて良かったです。また、大学で「生命のメッセージ展」が開催できればと強く思いました。


2003年12月5日 金曜日
大阪の関大のマスコミ関係を目指しておられる学生さん達60人余りの方に講演させていただきました。
命の重み、被害者の現状、マスコミ報道などについてお話しをさせていただきました。最初、冷静に聞いておられた講師の方が、あまりの理不尽さに感極まって、言葉もありませんでした。次の時代を背負う若者達に少しでも何かが伝わればと思います。1時間30分の授業で、講師の方が「悠君はこの授業時間以上殴られていた」と紹介されました。昨日は泣きすぎて頭は痛く、目が腫れていました。愛想笑いする自分に腹が立っていました。


2003年12月4日 木曜日
午前中は仕事をして、午後から、新幹線で出かけることがあり、自由席の1番前に座りました。久しぶりに調書を読みました。家ではなかなか読めず、電車の中だったら、大丈夫かなと思い読みましたが、あまりに酷く、何度読んでも、怒りと悲しみで大泣きしました。泣きながら読んでいましたが、目は腫れ、疲れて頭は痛くなり、帰宅してから、ぬるいお風呂に長い時間入っていました。明日の講演の原稿を作ってから寝ましたが苦しくて悲しかったです。
どうして、日本は殺人者を保護するのでしょうか?被害者は一生耐えて生きていかなければいけないのでしょうか?


2003年11月29日 土曜日
大阪被害者支援アドボカシーセンター主催の講演会があり大阪まで行きました。飯島京子さんもパネリストとして参加されました。


2003年11月28日 金曜日
朝、郵便局と税務署に行ってきました。税務署は青色申告のことで聞きに行きました。家業の経理のこともしないといけないのですが、捗ってません。


2003年11月26日 水曜日
いつも電話は留守番電話にしていますが、家に居る時は電話にでます。電話帳に登録してませんが、時々、悠の大学受験の予備校の勧誘の電話があります。悠は小学校から進学塾に行ってたので、誰かが名簿を渡したと思います。勧誘の電話があると「殺されました」とガチャンと切ってしまいます。その後、落ち込んでボーとしています。


2003年11月21日 金曜日
今日から23日まで長野でメッセージ展が開催されています。参加したかったのですが、仕事を優先しました。


2003年11月19日 水曜日
アピュイの飯島代表と、北信太の和泉市立富秋中学に「命の大切さと、あらゆる暴力をなくす」講演会に参加しました。先生が驚かれるぐらい生徒さん達は静かに真剣に聞いてもらえました。大阪駅から環状線で乗り換えていくので、悠と一緒にリハビリ通院したことを思い、大阪駅は辛い場所です。帰り道は京橋駅を通ったので、飯島さんに「いつも悠に電車が来たと言って、足の不自由な悠に走らせていた」と話しかけていました。毎回、少しでも元の身体に戻るよう頑張ってリハビリ通院して、待ち受けていたので殺人とは夢にも思わず、言葉で言い表わせません。一人になってから泣いていました。


2003年11月18日 火曜日
午前中は仕事をして、午後は台所の洗い物をし、仕事場の洗い物もして、スイミングに行きました。45分の水の中のアクアは集中し、ストレス発散になります。太り気味なので、サウナと水風呂に入って、500グラム痩せて、また帰宅してビールなど飲むので、なんにもなりません。眠くて早く寝ました。


2003年11月17日 月曜日
朝からたくさんの洗い物をしていました。以前、提出した原稿の校正のFAXがきて、スイミングに行くのはパスしました。夜、仕事が終わってから、長電話をして、また原稿の見直しをして、メールで送りました。


2003年11月16日 日曜日
朝5時に起きて、朝市に取り掛かりました。早朝は雨が降っていましたが、朝市の頃は(8時から12時まで)晴れて、暑いぐらいのお天気でした。1回目に比べて、お客さんが少なかったのが残念でした。「メッセージ展」を取材してくれていた人がテレビ取材されてました。午後はてんびんの里で井上夫婦の講演会『交通事故防止」があり、参加したかったのですが、朝市の後片つけもあり、行けませんでした。


2003年11月13日 木曜日
朝早く起きられず、仕事に取り掛かっていましたが、午前中にできず、母に頼んで、出かけました。
膳所高校の2年生の人権学習に講師として招かれたのです。悠の写真などを持って、自転車で行きました。悠のメッセージ展のオブジェも飾ってもらいました。「命の大切さ」をテーマに話をさせていただきました。生徒さん達は真剣に聞いてくれ、涙を流してくれる人もいました。感想文もたくさんいただきましたが、「この講演で一番大切なものを知った」と感謝の言葉をいただきました。たくさんの励ましもいただきました。悠と同じ年頃の生徒さんの前でのお話しだったので、原稿が涙でかすんで見えなくなりました。感想文を読んで、悠は寂しがりやでシャイな子でしたが、生徒さん達の心の中に少しは生き続けたと思いました。
朝もお昼も食べずに出かけたので、夕方帰ってから食事をしました。それから、また2時間位洗い物をしました。食事してから、頼まれていた原稿を書いていました。明日からはまた、朝市の準備です。日が経つのが早いです。毎日、追われているので、疲れて寝るという感じです。


2003年11月12日 水曜日
朝、100余りの封筒を本局に持っていきました。少しホッとしました。こんなに時間がかかると思いませんでした。家の掃除、自分の食事、睡眠は後回しでした。手紙がきても、メールがきても返事もできず、メッセージ展を最優先にしてやっとできました。3日間、徹夜で出来たという感じです。一人でしているので大変でした。午後は仕事をして、9時ごろ簡単な食事をして、明日の人権学習のための原稿を作っていました。また寝たのは3時頃でした。


2003年11月11日 火曜日
午前中は仕事をして、午後から写真を入れたり、資料のセットに時間がかかっていました。資料を広げたまま、スイミングに行き、また、半額のお寿司を買って食べ、朝方までメッセージ展の送るのに時間がかかっていました。また、服着たまま寝てしまいました。


2003年11月10日 月曜日
朝から、スイミングも休んで、宛名を書いたり、コピーに行ったりしてました。午後から仕事をして、自分の部屋に帰ってきたのは、9時ごろです。お好み焼きを作って食べました。また、仕事をして、それから、送り先をあいうえお順に並べ、書類のセットをしていました。またAM2時ごろ、服着たまま寝てしまいました。


2003年11月9日 日曜日
去年、退職した会社の同窓会が、学研都市にできた新しい研究所でありました。立派な建物で、ロビーが水面のようになって、その中間に階段があり、贅沢なものでした。6月に着任された会長、社長も出席されました。
定年された懐かしい方々に会えました。帰り道、デパートに寄り、商品券で水着を買おうと思ったのですが、気にいるのもなくて、来年の手帳を買いました。
自宅に帰って、メッセージ展の参加家族の宛名のラベルを筆ぐるめで印刷しようと思ったのですが、エラーで手書きにしました。50家族書いて、AM3時過ぎに寝ました。


2003年11月8日 土曜日
講演の予定だったので、仕事は休んだのですが、延期になりました。午前中はメッセージ展の記事などを参加家族に送るため、コピーに自転車で安いところまで行きました。午後は挨拶文や会計報告の資料を徹夜で作っていました。


2003年11月7日 金曜日
午前中は洗い物をして、スイミングに行く前に現像出して、スイミング後もらいに行きました。


2003年11月6日 木曜日
夕方、銀行に通帳の書き込みに行きました。その帰り、たこ焼きを買って、悠に供えました。メッセージ展の写真をデジカメで撮ったのですが、パソコンに取り込めなくて、メーカーに電話しながら、パソコンしてましたが、結局できなくて、写真屋さんに持っていったら、30分でCDに書き込みしてもらって、何時間かかっても出来なかった時間の無駄を思いました。日記って毎日書くものですが、10月14日〜11月6日まで書きました。意見欄も10月〜を紹介しました。暖かい励ましなどありがとうございます。見張り役の3人も訴えたいので、これから準備にかかります。


2003年11月5日 水曜日
アピュイで埼玉に行った時、遺族の方で、私のHPの日記を「毎日見てます」言われ、最近、全然更新してなかったので、心配してくれていました。メッセージ展の後援のお礼はできたのですが、参加家族の方に送る資料などがまだできてなくて、HPはそのままになってました。


2003年11月4日 火曜日
自転車で転んで以来、スイミングを休んでいましたが、40日振りぐらいに行きました。さすが体重は3キロぐらい増えていました。今日は、おいしい日本酒は飲みましたが、ビールは我慢しました。


2003年11月3日 月曜日
午後からアピュイの第2回のシンポジウムがあり、
「被害者は撫ぜ悩むのか?〜真実を求めて〜」のパネリストとして参加させていただきました。朝、原稿を読んで泣いていました。山上先生の講演、被害者・遺族の講演会もありました。最近、たくさんの用事が溜まっていたり、疲れなどで落ち込んでいましたが、被害者が声を上げていく事がどんなに大事か再認識をして、また気持ちを新たに頑張ろうと思いました。10時過ぎに帰って来て、メールをチエックしてましたら、ニュースステーションでアピュイの報道がされました。


2003年11月2日 日曜日
朝、6時過ぎに起きて、出かける準備をして、8時に出かけました。埼玉でアピュイの通常総会があり出席しました。交流会もあり、初めての参加でしたが、いろいろな方に会えて、たくさん話しができて良かったです。
山上先生の「被害者の地道な活動に敬意を払う」とおしゃっていただいて嬉しかったです。

京都医療少年院に講演させていただいた時の少年達のアンケートを読ませていただいて、少年達の胸に母親の気持ちが届いたようで、エネルギーのいる講演でしたが、感想文を読んで胸を熱くしました。


2003年11月1日 土曜日
朝早く起きて仕事をして、お昼は講演していただいた方に、家の佃煮をゆうパックで送り、郵便局の帰り、クリーニング屋さんに寄ったけれど、お休みで、ジャスコで服を買ってしまった。明日の新幹線などの切符取るのも時間がかかった。メッセージ展に来てくれて人が応援してる応援演説会があり、夕食後、自転車で出かけました。疲れてうたた寝して、ズボンのすそ直しをして、寝たのはAM4時ごろになってしまった。


2003年10月30日 木曜日
午前中は仕事をして、午後は準備をして3時ごろから後援いただいた報道関係の方にお礼と報告に伺いました。
自転車で山の上のびわ湖放送はさすがにしんどくて、自転車を押しながら歩いていきました。普段は運動不足なので、いいのですが、自転車で石に激突してから怖い部分もあります。8月29日の悠の誕生日に落ち込んでいてはいけないと、朝から報道のお願いに伺った時は、「自転車で大変」と送ってくれた交通遺族の方と一緒でしたが、車の中で、とても傷つくことを言われ、落ち込み立ち上がるのに時間がかかりました。疲れは1日寝れば治りますが、言葉の暴力はなかなか治りません。


2003年10月27日 月曜日
洗い物をしていかなかったので、母に怒られていました。母が怒るのは元気な証拠ですが、怒られるほうは辛いです。母は「悠ちゃんは生きて帰ってこないので、被害者活動はいい加減にして掃除や仕事を優先しなさい」と言われてます。昼からは仕事してました。


2003年10月26日 日曜日
名古屋の自助グループ「緒やしす」の青木さんが主催で追悼会「いのちかなでる2003」があり参加しました。
フラワーガーデン・ブルーボネットで開催されたので、少し早めに行って、庭園を散歩しましたが、家族連れを見るのは悲しかったです。講演会「少年院を訪問して」飯島京子さんと座談会がありました。私は見張り役の3人を訴えたいと思っているので、その相談もしたかったのですが、時間がなくできませんでした。メッセージ展の長野開催のメンバーの方とも会えて、話しができて良かったです。新幹線ののぞみも自由席があり、便利になりました。


2003年10月25日 土曜日
KSRの大阪の集会に行くつもりでしたが、身体が疲れていて起き上がれませんでした。メッセージ展でもたくさん協力や応援していただいてたので、参加したかったですが、家でゆっくりしていました。
半年振りぐらいに、庭を掃除してました。


2003年10月24日 金曜日
午後は大津市役所や県庁に後援のお礼と報告に実行委員の方と行きました。後援の申請に伺う時は、「青木が行くと、相手が引くから」と言われ遠慮しました。成功?したので、お礼には伺いました。


2003年10月23日 木曜日
午前中は仕事をして、午後からは演奏や朗読していただいた方に、お豆などを自転車で持っていき、竜が丘も行ったので、国道の信号を待っている時は、涙が溢れました。夕方、市内の高校に行き、11月に人権学習で「命の大切さ」をテーマに講演させていただけるので、その打合せをしました。高校生は眩しいです。


2003年10月22日 水曜日
お昼はメッセージ展でお世話になった方などにお豆などをゆうパックで送り、午後から仕事をしたので、また12時頃まで仕事をしていました。仕事とメッセージ展の両立はきついですが、しんどいと言えません。


2003年10月21日 火曜日
家業の佃煮をメッセージ展のミニコンサートしてくださった方にお礼に渡すと言われて、昨夜は徹夜して作り、午後からは実行委員の方が取りに来られたので、準備や包装をしてました。その後、郵便局に行き、寄付していただいたお金を引き出して、印刷費の振込みをしました。帰って疲れて寝てました。


2003年10月20日 月曜日
午前中は洗い物、午後は仕事、リビングの掃除、会計報告の整理、午後6時から最後のメッセージ展の打ち合わせ(解散会)があり、終わってから仕事をしていたので、寝たのはAM3時ごろでした。


2003年10月19日 日曜日
朝5時に起きて、浜大津で初めての朝市をしました。完売でしたが、疲れて昼からは寝ていました。


2003年10月17日 金曜日
19日に大津で初めての朝市をするので、準備をしていました。


2003年10月16日 木曜日
午前中は仕事をして、午後からは県庁やたくさん寄付いただいたJAの専務さんの所へお礼に伺いました。


2003年10月15日 水曜日
今日から仕事です。もっとゆっくり休みたいですが、メッセージ展で仕事も休んでいたので、贅沢はいえません。


2003年10月14日 火曜日
たくさん会場からゴミを持って帰って来ていたので、ゴミ出しで9時前に起きました。身体がガクガクいってました。洗物もたくさん溜まっていて、洗濯はしたけれど雨が1日降っていて、昼からは部屋でごろごろ寝てました。雨は悠が「お母さんゆっくり休んで」と降らしたように思いました。悠はメッセージ展を現場近くで開催したことをどう思ったか考えました。


2003年10月13日 月曜日
朝は激しく雨が降っていましたが、昼前には好天してホッとしました。会場のピアザ淡海のロビーから琵琶湖大橋が見え、虹がかかっていました。テレビや新聞で報道してくださり、大勢の方に訪れていただきました。また、テレビの取材もあり、お昼のニュースで流していただきました。
学校の先生による夢バンド・メリーフェローズのコンサートがあり、また、オカリナ・ギター演奏もありました。
演奏していただいた方に、「メッセージ展に関わって良かった、この歌を亡くなった子供さん達に聞かせたかった」と言って絶句された方もありました。参加家族は北は北海道、南は熊本から60家族100人ぐらい訪れていただき、会場には1000人ぐらいの方に訪れていただきました。皆様の多大のご協力で無事終了することができ、心から感謝です。ありがとうございました。


2003年10月12日 日曜日
ボランティア・手話サークルの方、参加家族の方たくさん集まっていただき2日目も始まりました。
遺族の方のスピーチがあり、和歌山の方、金沢の方は午前中にあり、午後は少年によって息子さんを奪われた東京の方のスピーチがありました。ミニコンサートはPEDu、石山高校生の方2人の合唱がありました。また朗読はU中学校の父兄の方がしてくださいました。
滋賀県知事も訪れてくださり、激励金をいただきました。時間をかけてオブジェを見て回られ、挨拶もいただきました。「滋賀県で開催できて良かったこと、命の重さが伝わり、また残された遺族の想いや、行政に携わっているものがしっかり受け止めねば」とお言葉をいただきました。
夜は参加家族で懇親会をしました。その後、宿泊されてるホテルに寄って、みんなとゆっくりお話して帰宅しました。


2003年10月11日 土曜日
朝から応援の方もたくさん来て下さり、私の挨拶で1日目が始まりました。悠の想い、遺族の想いなど述べさせていただきました。「青木さんも講演してください」と言う要望もあり、5分でもいいから講演させていただいて、噂や誤解も解きたかったのですが、実行委員長が講演することに反対する人もいて遠慮しました。
悠の事件を報道してくださった元びわ湖放送の林久美子さんが3日間、司会してくださり、朗読は熊本の水間さん、音楽は悠の小学校の時、エレクトーンを習っていた西江先生が演奏してくださいました。悠の詩を読んでくださった時、尾崎豊のI LOVE YOUが流れました。

大阪からPDEuのバンドが来てくださって、素晴らしい歌声を聞かせていただきました。
いろいろお骨折りいただいた県会議員、2月、国会開催の時も訪れていただいた国会議員、たくさん寄付をいただいたJA滋賀中央会の専務さん、5月に講演させていただいた京都医療少年院の院長さんも来て下さり、とても嬉しかったです。テレビや新聞の取材もたくさんあり、夕方のニュースでも流していただきました。
大阪の「知的障害者作業所マーチ」のメンバーが来場し、書籍の販売コーナーを手伝ってくれました。ハートの制作も手伝っていただいてます。皆様の優しさをたくさんいただきました。
チラシが余っていたと、実行委員の方が今朝2000部持ってこられ、無駄にしたくなかったので、夕方、膳所周辺に遺族の方にチラシを配ってもらいましたが、また、夜10時ごろから自転車でマンションなどチラシを入れに行きました。帰宅したらAM12時が過ぎていました。さすがに疲れました。明日の準備などして寝ました。


2003年10月10日 金曜日
午前中に、ミニコンサートのチラシの追加分を印刷し、大事なレイアウト図を1時間ぐらいで作成していました。
午後は準備でたくさんの方が応援に来て下さり、早く設置できました。11月に人権学習で講演させていただく膳所高校の先生や生徒さんも手伝ってくださいました。県の組合の方も、母親の想いが伝わり、お手伝いしていただきました。オブジェ達も明日の出番をゆっくり待っています。ゆったりした空間になりました。準備後、熊本や広島、東京の参加家族の方と夕食を共にしました。

夜中、受付の用紙などを作成してましたが、5分でできるようなことが1時間ぐらいかかり、パソコンに腹を立てていました。


2003年10月9日 木曜日
午前中は仕事をして、午後は資料のコピーをし、明日、応援のお願いしている県庁などにスタッフノートを持って行きました。明日までにレイアウト図など作りたかったのですが、疲れて寝てしまいました。


2003年10月8日 水曜日
仕事を休みたいのですが、それもできず、午後から仕事をして、夜10時までかかりました。パソコンしながら、食べながら、飲みながら、スタッフノートにボランティアの方の名前を入れたり、資料を作成していました。


2003年10月7日 火曜日
昨日はあまり準備などできなかったので、朝までかかって資料を作っていました。AM5時頃寝て9時ごろに起きて仕事をすると言う感じです。大津会場は聴覚障害者の方も訪れていただくので、大津市役所に手話のお願いをしました。「今日までに原稿を届けてください」と言われ、自転車で市役所に行き、障害福祉課に原稿を持って行きました。悠が交通事故に遭って、障害者手帳を作っていただいたところです。手続きが大変で長くかかって、結局、1年間の間でした。殺されて、また取り消しの手続きに行きました。辛い場所ですが、泣かずに行きました。スピーチは遺族の方なので、原稿を書くということは辛い部分と向き合わねばならず、なかなか書けないと思います。


2003年10月6日 月曜日
夕方、仕事中を抜け出して、銀行に通帳記帳に行き、通帳を悠の仏壇に供えました。
10日の事前準備の時の夕食をどうされるかメールや電話などで確認していました。電話で1時間以上話してて、疲れて寝ました。


2003年10月5日 日曜日
朝6時ごろに寝たので、ゆっくり眠りたかったですが、電話などもあり、起きてしまいました。ずっと、気になっていたチラシを大体送れてほっとしました。(署名いただいた方にも送りたっかたのですが)
夕方、オブジェを引き取りに行きました。夜はメッセージ展のお手伝いなどのお願いの電話やメールをしていました。
毎日新聞の支局長が「支局長からの手紙」で生命のメッセージ展を紹介いただきました。
(取材のとき、私の話しを聞いて、涙を流してくれました)

落ち込んでいた時期の取材だったので、私の話しで涙を流していただいて、嬉しかったです。また、元気を出して訴えていこうと思いました。


2003年10月4日 土曜日
ピアザ淡海で淡海ネットワークのワークショップで悠のオブジェを展示していただけるので、自転車で持って行きました。よほど、タクシーを呼ぼうか悩みましたが、悠のリハビリ中も、「リハビリのため」と言いながら、悠を歩かせていたので、自分は楽できないと思ってしまいます。
オブジェの横で、チラシなど送る宛名書きをしていました。また、朝までかかって、チラシを入れて送りました。
(ギリギリにならないとできなくて、1ヶ月前にしてればと思いました)


2003年10月3日 金曜日
チラシなど午前中は送り、雑誌の記事など近くのコピーセンターに印刷に行きました。夜は最後の実行委員会をしました。


2003年10月2日 木曜日
午前中は仕事をして、午後はチラシなど郵送で送っていました。夜は近くの方にチラシを持っていったり、久しぶりに悠の家庭教師の先生に会いました。
また、朝までかかって、チラシなどをお世話になった方や、悠の友人などにチラシを送りました。


2003年10月1日 水曜日
午前中は釜洗いなど洗い物をして、昼から仕事を21時ぐらいまでしていました。
それから原稿を作成してメールで送りました。朝日新聞がカラーでメッセージ展の新聞記事を掲載していただきました。金沢の交通遺族の方から、スピーチの原稿が届き、読んで泣いていました。
夜中からAM3時頃まで、名刺のいただいたところなどにチラシを送りました。


2003年9月30日 火曜日
午後から、コンサートをしてくださる先生に実行委員の方とご挨拶に伺いました。電話もしないで伺ったので、出張中でした。堅田から草津へ琵琶湖を半周しました。いいお天気でした。帰りに会社で大変お世話になったパートの方で、私のあと、退職されて自宅におられるので、チラシをたくさん渡しました。
今日中に原稿を送る約束をしていましたが、疲れてパソコンの机でうたた寝してしまいました。


2003年9月29日 月曜日
胸の下を打ってから、仕事を休んでいましたが、今日から仕事をしました。


2003年9月28日 日曜日
結局、朝までかかってチラシを作っていました。朗読の原稿などを読んでいただく方にやっと、郵送しました。
原稿を渡してから、夕方、スイミングの休会届を出しに行き、そのまま、ジャスコに行ったので、家族連れの方が多くて、レジなど並ぶのが辛かったです。子供の泣き声など聞くと、私も泣きたくなります。


2003年9月27日 土曜日
昨日の記者会見を京都新聞毎日新聞が掲載してくれました。
午前中は台所の溜まっていた洗い物をして、午後はメッセージ展のミニコンサート・朗読のチラシを作っていました。ウイルスにかかってから、パソコンの調子が悪く、すぐ応答なしになったり、変換したら、固まってしまい記憶もしません。5分ぐらいでできることが、1時間ぐらいかかり、はかどりません。
21時ごろ、あわてて、また半額のお寿司と週刊金曜日を買いに行きました。お寿司食べながら、パソコンしながら、電話などしてました。


2003年9月26日 金曜日
あまりに痛かったので、念のため、病院に行き、レントゲン写真撮ってもらいました。湿布薬をもらって帰りました。病院は悠が脳死にさせられたH小学校の裏にあり、悠が元気な頃、悠の祖父の通院に私が付き添っていたので、待合室で待ってる間も涙がでました。平凡な幸せはもう二度と戻ってきません。
午後は県庁の記者クラブで記者会見をしました。多くの方に会場に訪れていただいて、命を重みを感じてもらいたいです。記者会見後も取材があり、その後、京都に出かけてメッセージ展の方と食事をしました。
今日発売の週刊金曜日2003.9.26(477号)に『金曜日』で逢いましょうでメッセージ展の紹介などしていただけます。


2003年9月25日 木曜日
朝から13時ごろまで仕事をして、その後、書類など準備して、県庁の広報課と滋賀県警、ピアザ淡海に
行きました。帰り道、暗くて雨が降っていたので、「気をつけて帰ってください」と言われて。すぐ、歩道の石に、自転車で激突しました。ドジな私です。


2003年9月24日 水曜日
午前中は新聞社の取材がありました。午後から仕事をして8時ごろまでしていました。その後、メールの返信や、スタッフノートを作っていました。


2003年9月23日 火曜日
朝から15時頃まで名刺を見ながら宛名を書き、チラシを送りました。それから2時間ほど、釜や缶をを洗っていました。夜は、スイミングに行き、その後、1時間ほど打ち合わせに行きました。
帰り道、ジャスコで半額のお寿司を買って、食べながらメールのチェックしてました。


2003年9月22日 月曜日
3時間ほど寝て、ゴミを出し、職安に行きました。9月初で失業保険も終わりです。それから郵便局に書留を受け取りに行きました。四国の方が「メッセージ展」のために寄付していただきました。学生さんなのに申し訳ありません。疲れていましたが、スイミングに行き、午後はメールの返信や電話をしてあわてて掃除をして、夜6時からメッセージ展の打合せをしました。奈良のKさんも私を心配して応援に来ていただきました。9時過ぎまで打合せをしてました。今日はJAの方からたくさんの寄付をいただき、また打ち合わせのときも、いろいろな方から寄付をいただきました。ありがとうございます。


2003年9月21日 日曜日
休みなので、久しぶりにゆっくり寝ていました。家から一歩も出ず、夕方も寝ていました。それから朝までかかって、悠の死亡記事から裁判などの新聞記事など整理をしていました。たくさん報道していただきましたが、記事を見るとむごくて苦しいです。2年余り休みなく訴え続けてきたような気がしました。朝方、郵便ポストに入れにいって、星空を見上げていました。悠が星になったと思いたくないけれど、いつも見守ってくれているような気がします。


2003年9月20日 土曜日
午前中は仕事をして、午後からスタッフノートを3時までに作成し、雨が降っていたので、悠のオブジェを持って行くので、友達に「ピアザ淡海」に送ってもらい、3時30分から下見を兼ねて打合せをしました。メッセージ展の司会をしていただきます、テレビキャスターの林久美子さんも来ていただきました。
西田さんのご署名と一緒にいただいた活動費をメッセージ展へ寄付していただきました。どうもありがとうございます。たくさんの親切をいただきます。
20.21日は東京の八重洲口で第3回犯罪被害者キャンペーンが行われます。去年、参加して、テレビ取材もしていただき、また、メッセージ展の大津開催への想いを述べたところです。


2003年9月19日 金曜日
結局、朝まで起きててHPの更新などしてました。3時間ほど寝て、9時前に起き、昨日出来なかった仕事場の洗い物を2時間ほどして、昼食後、大津の商店街にチラシを貼ってもらうため事務所にお願いに行きました。
私が悠の母親とわかると、涙をたくさん溜めて「同じ年頃の子供がいるから」と、「よくここまで立ち上がって活動されているね」と受付の方が泣いてくれました。優しい人に触れると私も涙がでて、帰り道、自転車で泣いていました。午後は仕事をして、19時から浜大津の朝市の説明会を聞きに行きました。出店の話しがあり、自己紹介のとき、「生命のメッセージ展」の紹介もさせていただき、帰りはチラシも渡してきました。私が元気そうにしているので安心されました。朝市はたくさんの方が実行委員で関わっておられて、私は何もできてないなぁと思いました。

21時過ぎに帰って、夕食をして、留守番電話を確認して電話などしてました。スタッフノートも明日までに作ることになってますが、下書きを片付けてしまって探しています。


2003年9月18日 木曜日
午前中は仕事をしてて、午後は掃除をしてました。夕方、高校の先生が講演の依頼にきてくださるので、悠のテレビ放映をダビングしながら、掃除をしていました。高校生の方に是非メッセージ展に訪れていただきたいので、そのお願いもしました。夕食後、疲れてお化粧したまま、服のまま、うたた寝してて、今、夜中のAM3時ですが、
12日からの日記を書いてます。これで、目が冴えるときついので寝ます。悠はAM4時25分に亡くなったので、その時間を起きているときついです。


2003年9月17日 水曜日
昨夜出来なかったので、朝一番は、議事録をまとめ、実行委員の方に、メールやFAXをしていました。その後、午前中は洗い物や仕事をしていました。悠は「祖父の仕事を継いで、おじいちゃんを楽させたい」と言っていたので、その意志を継ぎたいと想って、今、家業を見習っています。仕事をしながら、メッセージ展の準備をするのは大変ですが、悠の祖父母は、悠が亡くなってあまりのショックで弱っているので、時間が残されていません。
少しでもいろいろなことを引き継ぎたいので、教えてもらっています。午後から21時ごろまで仕事をしていました。その間に電話などで抜けますが、その分、遅れていきます。その後、ありあわせをつまみにして、ビール飲みながら、パソコンをしてました。今、ウイルスにかかっていて、駆除しましたが、起動が遅いです。
その後も何回か仕事場に見に行くので、23時ごろまではホッとできません。それから、メッセージ展の準備をしています。まだ、まだ、たくさんの方にチラシなど送りたいのですが送れてません。


2003年9月16日 火曜日
午前中は仕事をして、昼からコピーなどしてから、今年の2月、国会でメッセージ展が開催された時、訪れていただいた議員の方の事務所に、チラシなど持って行きました。ある事務所に伺った時、偶然でしたが「今、ロータリクラブの会合で、ニュースキャスターの林久美子さんの講演で、悠の事件の話しを聞いてきた」とおっしゃって、、悠の事件を取り上げていただいて、少しでも事実が伝われば嬉しいです。最近、とても傷つくことがあり、人前に出て話しをするのが辛いですが、それでは「メッセージ展」の広報にならないので、めげずに出かけて、優しい言葉を聞くとほっとします。その後、検察庁にチラシをもって行き、「回覧します」とおっしゃっていただきました。
その帰り、県の組合に寄って、お手伝いのお願いに行きました。遅くなってスイミングは行けませんでしたが、材料を買って、久しぶりに料理の本を見て、酢豚を作りました。
昼間、出かけると、夜になって、メッセージ展の準備などたくさんすることがあるのですが、眠くなって進んでいません。(朝も早く起きれません)


2003年9月15日 月曜日
家のおまつりですが、太鼓の音が悲しいので、仕事をしてました。家の近くの方に、「チラシを貼っても良い」と言われていたので、画板にチラシを貼って、お祭りなどで通る人が見てくれたらいいなと朝
早く備え付けに行きました。自宅の塀などにも貼りました。悠が交通事故に遭って以来、作っていなかった餃子を手造りしました。
悠が元気な頃、従姉妹達が来て、100個ぐらい作ったのが懐かしい思い出です。


2003年9月14日 日曜日
午前中は洗濯や洗物をしてましたが、夕方、家の近くのびわ湖大津館にチラシを貼ってもらうお願いに行きました。悠の小さい頃、よく散歩に行ったところです。桜の咲く頃などとても綺麗なところですが、悠が亡くなってから初めて行きました。その後、パルコ・ピアザ淡海に予約の確認などに行きました。


2003年9月13日 土曜日
東京で「交通事故調書の早期開示を求める被害者連絡会」に参加するため始発で東京に出かけました。
久しぶりに炎天下で署名活動などお手伝いをしました。
中学生ぐらいの男の子に署名を求め、「私は少年犯罪で息子の命を奪われた」と話し、少年が「なぜ、そういうことがあってまだ署名運動してるの」と聞いたので、「もし自分が殺されて、毎日、毎日お母さんに泣いててほしい、前向きに活動して欲しい?」と言ったら、一緒にいた友達に「みんな署名してあげて」と頼んでくれました。優しい男の子の笑顔が素敵でした。


2003年9月12日 金曜日
彦根で滋賀県交通安全推進大会があり、「生命のメッセージ展」のアピールをするため行きました。玄関にたって、「是非訪れてください」と3人で声をかけていました。夕方、H小学校で学生さん(http://journalist.jp/)の取材があり、現場で答えていました。その後、夜、自宅でメッセージ展の打ち合わせがあり、また取材もあり、長い1日でした。


2003年9月11日 木曜日
夕方から、郵便局やいつも親切にしていただいてるかしわ屋さんに「チラシを貼って」とお願いに行き、すぐ貼ってくださり嬉しかったです。6月末の謝罪依頼2ヶ月半振りに美容院に行きました。チラシを貼ってとお願いした時に、毎日、「寄付のお願いなどに行ってる」という話しをしたら、カンパしてくださりとても嬉しかったです。(県庁に1時間話しをしてお願いしても駄目だったのに。)
帰り道、ジャスコに寄って、唯一の贅沢のビールを買いました。毎月11日のイオンデーでメッセージ展のチラシも貼ってあり、レシートも入っててとても嬉しかったです。レシートの1%を寄付していただけます。悠が亡くなってから、たくさんの親切をいただいて感謝です。いろいろなことがありますが、めげずに乗り越えていこうと思います。


2003年9月9日 火曜日
午後、悠が小学校の低学年の時、エレクトーンを習っていた先生に会いに行きました。お電話もせず突然お伺いしましたが会えて、いろいろお話しできて良かったです。悠の可愛かった頃のこと覚えてくださっていて、酷い殺された方して、励ましのお手紙もいただいてました。
和歌山の丸谷康政君 
http://www4.ocn.ne.jp/~marutani/の19歳のお誕生日です。悠と同級で19歳になってたはずです。丸谷さんに「お互い19歳の息子に会いたいね」と電話をしました。
熊本会場で1回お会いしただけの方から、励ましをいただいたのでお礼の電話していました。メッセージ展で知り合った方からたくさん励ましいただきます。ありがとうございます。


2003年9月8日 月曜日
朝早く起きて、洗い物など2時間してから、スイミングに行きました。チラシなど郵送しました。


2003年9月7日 日曜日
1日中、リビングに居て、悠の取材していただいた方の名刺を筆ぐるめに登録し、宛名ラベルを作り、チラシを入れてました。1日かかっても、あまり捗りませんでした。(手書きの方が早い感じがします。)


2003年9月6日 土曜日
悠の月命日です。午後、学生さんが大学の卒業制作と「生命のメッツーセージ展」の広報をしていただくということで、取材に見えました。長い時間、酷い話しばかりしていたので、とても疲れ、とても悲しかったです。学生さんは息子を殺されても、その後のあまりに厳しい現実に驚かれました。夕方、銀行に記帳に行きました。あまりに疲れたので、いつもは発泡酒で我慢してますが、お花といいビールを買って、焼きそばを作り、悠に供え、一緒に食べました。


2003年9月5日 金曜日
朝、県庁から電話があり、「ピアザ淡海の会場費の減免処置は無理」とお電話いただきました。無理でも、いろいろお話しを聞いていただいて良かったです。
足の踏み場がないほど、散らかっていますが、スイミングに行きました。8月は休んでいたので、やはり、身体の節々が痛くなります。スイミングは健康やストレス発散になります。励ましていただいてたスイミングの先生が体調を崩されてて、1年経って復帰されとても嬉しかったです。


2003年9月4日 木曜日
午後は雑誌の取材がありました。取材後、郵便局に速達を出しに行き、また、郵便局にチラシを貼って下さいとお願いしました。また、知り合いのお店に寄って、チラシを貼っていただくようお願いしました。
夜、帰宅してから、洗い物をしていたため、9時ごろが初めての食事でした。いろいろな所に郵送でチラシを送りたいのですが、うたた寝していました。


2003年9月3日 水曜日
紹介してくださる方があり、県庁へ県会議員さんに会いに行きました。その後、会社の専務さんにお会いして寄付のお願いをしました。悠の事件はご存知なかったです。


2003年9月2日 火曜日
朝、滋賀県知事の秘書の方から電話をいただきました。午後、自転車で汗だくになって県庁に行きました。
国松知事に会い、励ましていただき、握手もしました。是非、会場に訪れてくださいとお願いをしました。
県の労働組合の方も紹介していただき、強力なお手伝いを申し出てくださいました。帰りは淡海ネットワークに行ってチラシを渡したり、協力のお願いをしました。朝もお昼も食べず出かけ、その分、夜はしっかり食べ、飲みました。


2003年9月1日 月曜日
大津の造り酒屋さんにチラシを持って行きました。テレビで謝罪の特集を見て、私が髪を切った母親の想いは伝わったと話されていました。頑張って言い伝えてくださいと励ましていただきました。


2003年8月31日 日曜日
夕方、チラシなどをもって、テレビ局に行きました。和解成立の報道が局内で表彰されたそうです。疲れのピークでしたが、取材協力して、報道していただいて良かったです。


2003年8月30日 土曜日
昨日、厭なことがあり、相当落ち込んでいました。夕方、悠が亡くなってから、お知り合いになった会社の方にチラシなど届けました。たくさんの励ましと、寄付をいただきました。また、夜、厳罰を求めた署名をたくさん集めていただいた方が、チラシを取りに来ていただき、励ましと寄付をいただきました。たくさんの励ましをいただきありがとうございます。めげずに頑張っていこう思います。


2003年8月29日 金曜日
2、3時間寝て、朝から大津の交通遺族の方と、後援いただいたびわ湖放送や新聞社にポスター・チラシをもって、広報のお願いなどに行きました。ニュースにしていただいて、一人でも多くの方に会場に訪れていただきたいです。チラシなど配りたいので、大津警察署に道路使用許可申請の用紙をもらいに行きました。帰宅して、居眠りながらパソコンのウイルス駆除?してました。
今日は悠の19歳の誕生日です。考えると涙がでて耐えられません。入院してた時は、毎日というほど持って行ってた、たこ焼きを買って供えました。8月はスイミング休んでましたが、夜、プールのウォーキングに行きました。毎日、疲れて寝るという生活をしています。


2003年8月28日 木曜日
午後、大津の交通遺族の方と、エフエム滋賀・パルコ・西武へポスター・チラシなどをもって、広報などのお願いに行きました。夜はいろいろな方と電話してました。AM1時から、明日、新聞社などへ行くのに挨拶文を作ったり、やチラシを数えていて朝になりました。(パソコンがウイルスに感染して時間がかかります)


2003年8月27日 水曜日
午前中は実行委員の方と、大津市役所・滋賀県庁・生協にチラシ・ポスターを持って行きました。是非たくさんの方に会場に訪れていただきたいです。生協は大津市民病院の横なので、いつも悠が入院してて、毎日、自転車で坂道を通っていたことを思いましたが、辛すぎて泣けませんでした。
午後は、滋賀県の県会議員の方に会っていただきました。滋賀県の後援名義をいただいていますが、1円の補助もなく、会場は県民センターの施設ですが、利用するのに3日間で30万円ぐらいお金がかかります。
いろいろな方に被害者の現状など聞いていただき、減免処置のお願いをしました。知事さんは会議中で会えませんでした。


2003年8月26日 火曜日
朝、職安に行きました。失業保険の支給もあと僅かになりました。元、同じ会社の方にもチラシ渡していました。
午後は、メッセージ展などのテレビ放映をダビングして、大津の交通遺族の方に持って行きました。民事訴訟されてて、元気を無くされていたので、励ましに行きました。(私も落ち込んでいますが)
ニュースキャスターの林久美子さんが
じんけん2003.8月号に風つうしんで和解成立のことを書いていただきました。今泣くとくずれていきそうになるので泣かないようにしてますが、文章を読んで暖かい気持ちも伝わり、泣いていました。(最近よく飲んで寝ています。)


2003年8月25日 月曜日
夜、メッセージ展の打合せをしました。たくさんの行政などの後援をいただいたので、チラシ・ポスターを配布しないといけなくて、たちまちポスターは足らなくなりました。学生さんのボランティアを募っていますが、夏休みであり、進んでいません。


2003年8月20日 水曜日
ジャスコにポスターを貼っていただけるよう持って行き、帰りはスイミング教室にも寄って、チラシ貼っていただくようお願いしました。平和堂は滋賀県全店で貼っていただけます。銀行に寄って頼みましたが、「本店の総務部に言って下さい」と言われました。


2003年8月19日 火曜日
午後、京都に出かけ、メッセージ展のお手伝いしていただける方に、いろいろ説明やお願いをしていました。
悠の事件のことも聞いていただいて、裁判のこと、弁護士のことなど説明していました。
私は「これからも悠に尊敬されるようなお母さんでいたい。前向きに生きていきます」と話しをして、元気そうにしているので安心されました。何度かメッセージ展の悠のオブジェに会っていただいた方です。


2003年8月18日 月曜日
疲れているので、早く寝ようと思ったのですが、眠れません。4年前の99年8月交通事故に遭った日です。交通事故に遭うことがなければ、身体が不自由になることもなく、殺されることもなかったと思うと、悔しいです。交通事故の加害者の顔は知りません。私に謝罪はありませんでした。やっと、元気になった身体の不自由な悠を殺す加害者も信じられません。


2003年8月14日 木曜日
大雨の中、封書をナイロン袋に詰めて、自転車に載せて、郵便局まで持っていきました。ペーパードライバーなので、雨の日や、重い荷物があると大変です。郵便局にポスターなど貼ってもらうため、また雨の中、歩いて持っていきました。夕方は東京に勤めている友人が、6月のテレビ放映を見て、家に訪ねてくれました。悠の小学校4年生のとき、東京で会って以来、9年ぶりでした。家を建てて、希望に燃えていた時でした。


2003年8月13日 水曜日
メッセージ展のチラシ・ポスターが出来上がりました。徹夜して、参加家族の方のチラシやパンフレット入れてました。


2003年8月12日 火曜日
ボランティアのお願いに行きましたが、約束場所は平野小学校の近くでした。帰り、現場によって手を合わせ、お線香を供えて帰りました。悠が2時間殴られているのを見ていたおじさんの家は、玄関開いてました。誰も近所の人達は知らないのでしょう。見張り役のOの家も玄関開けて普通に暮らしていました。


2003年8月11日 月曜日
大津市役所に電話して、大津の観光パンフレットの冊子をもらいに行きました。
夜はびわ湖花火大会でした。去年は交通遺族の方と一緒に楽しい時間を過ごしました。今年は、メッセージ展の準備などあり、一人でビール片手に涙目で見ていました。夜空に舞い上がった花火を見て「悠ちゃん頑張るからね」と誓っていました。


2003年8月10日 日曜日
午前中は掃除をして、午後から自宅で実行委員会の打合せをしました。
いろいろなことが具体的になってきて、印刷にかかります。


2003年8月9日 土曜日
午前中は雨の中、カッパを着て、寄付などのお願いに行きました。とても親切な方でたくさん励まされてきました。帰りは観光案内所でパンフレットをもらってきた。
午後は大阪に行く予定があったが、体調がすぐれず、寝ていた。(大阪は悠がリハビリ頑張って入院や通院していた所なので相当きつい)また、夜に起きだして、明日の資料などのワープロをしていた。
悠が好きだったテレビの番組でCDTV特集で99年代のヒット曲が流れていた。交通事故に遭った年だけど、親子で励ましあい、いつも好きな曲をCDで聞くのを悠は楽しみにしていたので、家では泣かないようにしてる私ですが大泣きしていました。


2003年8月8日 金曜日
びわこの花火大会が台風の影響で11日に延期されました。
午前中はピアザ淡海の会場に行き、オブジェがどうしたら固定するか確認に行きました。(絨毯なので、テープで直接貼れないので)その後、浜大津に寄って、ミシガンの案内などたくさんもらって帰りました。
午後は、資料などパソコンしたり、住所録のシール作りをしていました。


2003年8月7日 木曜日
大阪の弁護士会に弁護士費用のことで相談に行きました。

(大津市役所の無料法律相談に行ったら、大阪弁護士会に相談しなさいと言われました。)


2003年8月6日 水曜日
悠の月命日です。自転車で近くの銀行に書き込みに行きました。悠の命がお金になって振り込まれていました。これから、毎月、12ヶ月X約30年間=360回通うのかなぁと思いました。
疲れて悲しかったです。


2003年8月5日 火曜日
大津市役所と滋賀県庁に広報のお願いに行きました。
7月27日に産経新聞に悠にあてた手紙が掲載され、記事を見た読者の方がお手紙と、悠のお供えにとお金を活動費にして下さいといただきました。
「お母さん!見て!見て!歩けるよ」 眠っていても起きていても この声が聞こえます。

裁判が終わってもいろいろなことがあり、泣けない私も手紙を読んで何度も泣きました。
お昼は、去年勤めていた取引先の方がお参りに来られて、たくさんの優しさや励ましをいただきます。


2003年8月4日 月曜日
熊本があまりに立派でボランティアの方もたくさんおられて、あせって帰ってきました。
早速、朝からメールや電話などしていました。


2003年8月3日 日曜日
お昼に会場の1階にある観光物産館に行きました。名札を付けて行ったので、お店の方が、メッセージ展の事を知り、あとで訪れていただきました。
少しの時間でしたが、泣いてくださりとても優しい気持ちが伝わりました。
後片付けは手伝えませんでしたが、夕方のバスで帰りました。熊本空港で見た長崎ちゃんぽんのお土産が胸をつきました。悠が中学3年生の時の修学旅行のお土産でした。PM10時前に自宅に着きました。


2003年8月2日 土曜日
小学生の合唱がありました。ひたむきに一生懸命歌う姿に感動しました。水間摩遊美さんの詩の朗読も昨日・今日とありました。素敵な声で素敵な方です。プロの方のピアノ演奏もありました。
水俣の慰霊祭のあと、潮谷熊本県知事が訪れてくださり、「かけがいのない命」を考えますと挨拶がありました。幸山熊本市長も訪れていただき、赤い糸を結んでいただきました。


2003年8月1日 金曜日
会場は観葉植物により公園のイメージで落ち着いた感じです。建物は新しく立派なところです。詩の朗読・フルート・ピアノの演奏があり、講演もたくさんの聴衆でした。昼食以外は1日、本やハートのグッズの販売コーナ会場にいました。熊本県民テレビの生放送で悠の紹介していただきました。


2003年7月31日 木曜日
始発で出かけたので、そのまま寝ないで朝まで起きていました。伊丹空港を8時15分に乗って熊本までは1時間ぐらいです。飛行機から見た阿蘇山は感激しました。10時過ぎに熊本の会場に着き、高校生達がプレメッセージ展を開いてくれてました。高校生の方と折り鶴を一緒に折っていました。ボランテイァの方の参加しての感想が一言づつ胸を打ちました。午後は会場の準備を手伝いました。たくさんのボランテイァの応援や熊本開催の大村さん、遺族の方とオブジェを並べました。夜は遺族の方と一緒に食事をし、初めて馬刺しを食べました。時々睡魔が訪れました。


2003年7月30日 水曜日
明日から熊本の「生命のメッセージ展」に行きます。1日〜3日まで熊本県民交流館パレア10階で開催されます。お近くの方は是非訪れてください。10月に大津開催を控えて、勉強させていただくつもりで、準備から参加させていただきます。悠はいなくても、家を空けるのは辛い部分もあります。寝ないで今ごろ準備してます。


2003年7月29日 火曜日
今朝は職安に行きました。現在は失業保険で暮らしています。退職金は年金にしたので、今すぐ使えるお金はありません。悠が元気な頃は100円のお金も始末してて、殺されてから、FAX機・パソコン・プリンタなど買って、そういう現実が悲しくて、お金の無い生活をしています。


2003年7月28日 月曜日
お昼に・・・財団に電話して、寄付の制度などあるか確認しましたが、社会的な行事には援助などしていないということでした。ポスターは貼っていただけるとのことでした。
裁判が終わっても、弁護士費用など、毎日お金のことで悩んでいます。


2003年7月27日 日曜日
産経新聞にforyou少年に命を奪われた息子への記事が掲載されました。


2003年7月26日 土曜日
自宅の近くの大型スーパーに寄付のお願いに行きました。ポスターなどは貼っていただけますが、寄付は駄目でした。
6月26日に加害者の謝罪を受けて1ヶ月経ちました。悠の無念を想い、加害者の顔が浮かんで眠れぬ毎日です。


2003年7月20日 日曜日
午後、大津の「生命のメッセージ展」の打合せをしました。
たくさんの後援をいただき、これから印刷に入ります。
3日の和解成立以来ぐったり疲れていて、久しぶりに午前中あわてて掃除をしていました。


2003年7月19日 土曜日
大津の交通遺族の方と3人でタイ料理食べに行きました。ピリッと辛いタイ料理はおいしかったです。
いろいろな話しができて良かったです。


2003年7月16日 水曜日
今日の朝日新聞の社会面(35)に、大きく悠の事件が掲載されました。私は加害者を擁護する少年法が1日も早く廃止されることを願っています。朝刊を見たと四国の方から電話がありました。「どうしたらこんな酷い事件が無くなるか」と聞かれましたが、加害者も人の命を奪ったら、自分の命を差し出さないといけないと判っていたら、こんな残酷なことはしないと思います。保護者もお金をかけないでも、愛情一杯注いで育てれば、人の命を奪うような残酷なことをしないと思います。H小学校もU中学校も無かったことのように無視しないで、教育に活かしてもらいたいです。加害者5人共U中学校出身で、4人は卒業して2週間足らずでしたが、U中学校は完全に無視しました。お悔やみの一言もありませんでした。


2003年7月13日 日曜日
読売新聞に12日の講演の記事が掲載されました。


2003年7月12日 土曜日
大阪の阿倍野でアピュイの代表の飯島京子さんの講演があり、聴きに行きました。夕方は弁護士と打合せをしました。食事は大阪の味とお好み焼きを飯島さんと「生命のメッセージ展」大阪代表の方と食べに行きました。飯島さんは痩せておられるので、食べて太って欲しいです。みんなでおいしくたくさん食べました。


2003年7月11日 金曜日
大津の新聞社に後援のお願いに行きました。支局長と会ってお話ししました。悠の事件のこともよく知ってくださっているので、初めて伺いましたが、いろいろと話せて良かったです。


2003年7月10日 木曜日
原稿を頼まれて、悠のことを書いてましたが、悠と親子で励ましあった、交通事故の入院生活を想い、久しぶりに声をあげて泣いてました。
沖縄・長崎と中学生のむごい殺人がありました。年令で少年法で加害者を守るのでなく、やった行為に対して、厳しく罰してもらいたいです。加害者を守る少年法が廃止されるのを願います。


2003年7月9日 水曜日
大津の交通遺族の方と一緒にピアザ淡海に行って、会場の費用などの打合せをしました。ピアザ淡海は滋賀県立県民交流センターの施設ですが、県の減免処置もなく、費用で頭を悩ませています。
会場費約34万円は寄付で集めないといけなくて、悠のHPにもカンパのお願いをして、有志の方に寄付をいただきましたが、まだ、まだですので、ご協力よろしくお願いします。
午後は大津の放送局などに後援のお願いに行きました。


2003年7月8日 火曜日
午後、取材がありました。取材後、スイミングに行きました。疲れていても、身体を動かすと、少しはストレス発散になり、健康維持になります。


2003年7月6日 日曜日
身体は疲れていましたが、琵琶湖清掃の日で7時30分〜一斉掃除でしたので、参加しました。
昼からは図書館に行って、悠の月命日に正式に申し込もうとピアザ淡海にも行きました。


2003年7月4日 金曜日
たくさんの新聞が全国版など紹介していただきました。雨の中、取材ありがとうございます。
朝日新聞・京都新聞・産経新聞・中日新聞・毎日新聞・読売新聞
いつも暖かい励ましをいただいている20歳代の娘さんと一緒に食事しました。悠が大津市民病院に交通事故で入院してた時、知り合った方です。悠が介護福祉士になりたいと言ってたので、「おばちゃんが遺志を継ぐでしょう」と専門の本をくれました。また、会社を辞めて、家に居るので、朝、起きられるように、ぷーさんの目覚まし時計をプレゼントされました。私はその方に「親は子供のことを信頼はしてるけれど、家に帰ってくるまでとても心配してる」と言いました。


2003年7月3日 木曜日
午後、和解協議があり、和解に応じました。今さら「判決」とは言えませんでした。最後に裁判官に断って、加害者の弁護士に言わせていただきました。
「奇跡的に助かって壮絶なリハビリを乗り越えた身体の不自由な悠を殺した残忍な加害者を擁護し、軽い罪になるようにし、少年審判の検事さんの立会いも阻止し、そんなに加害者をかばってどうするんだ。再犯しないという保証もなく、弁護士の家族が元気に出かけて殺されても、加害者を擁護するのか。もし、償わなかったら、あらゆる手段に訴えて戦います」と言いました。一人の弁護士はメモしてました。
記者会見の時、加害者の弁護士からマスコミ各社に加害者・保護者の謝罪文が配られていました。
遺族も見てない謝罪文でした。記者の方が見せてくれました。他人事のような文でした。疲れました。

「今後は、見張り役の3人を訴えていくため戦います」と記者会見で言いました。来年の3月までに民事で訴えたいと思っています。


2003年7月2日 水曜日
昼から取材がありました。約1年振りぐらいに平野小学校へ取材の方と行きました。悠を見殺しにした人の家の前も通りました。見張り役のOの祖父は元警察官です。亡くなった時、テレビ局のインタビューに答えていて「青木は病院の処置の手遅れで亡くなったと聞いている。自分の孫は悪くない」と答えています。玄関開けているので、姿を初めて見ました。悠が1〜2時間殴られているのを、家の2階から見ていて、まだピクピクしているのを見て、買い物に行き、翌日から四国八十八箇所参りに行ったS・Kさん(67才)も家を網戸にしてました。皆、何もなかったように暮らしています。


2003年7月1日 火曜日
午前中は職安へ、午後は雨の中、簿記講座に行きました。その後、「メッセージ展」の会場に大津の交通遺族の方と一緒に行きました。
肩こりなどで右手が痛くて、夜はスイミングに行き、唯一の運動をしました。


2003年6月28日 土曜日
午後、「生命のメッセージ展」の打ち合わせをしました。たくさんの後援・協力をいただきました。
新潮社から「裁判官が日本を滅ぼす」の本を送っていただきました。悠の事件『障害者をリンチで殺した少年を「感受性豊か」』も紹介されてます。読んで泣いてましたが、こんな残忍な加害者の和解に応じて、悠はお母さんを恨まないか考えていました。


2003年6月27日 金曜日
たくさんの新聞が全国版など紹介していただきました。ありがとうございます。
朝日新聞・京都新聞・産経新聞・中日新聞・毎日新聞・読売新聞


2003年6月26日 木曜日(22日〜26日の日記は27日の朝書いています。謝罪を受ける時までは非公開のため、誤解されないように何も書きませんでした)
午後、2時30分から和解協議があり、加害者の謝罪を受けました。保護者も一緒と聞いてなかったので、驚きました。お骨・遺影・悠の亡くなる前の肉声のテープを机の上に並べて、加害者の入室するのを待ちました。きちんとした背広姿で、ネクタイをし、髪の毛も黒く整えていました。面接に来たような感じでした。遺影・骨壷に手を合わせ、頭をさげていました。悠の肉声を聞いてもらい、高校合格し歓喜してて、「お祝いしたげる」と言われ、何の疑いもなく喜んで小学校に行き、そこに待っていたのは50〜70発の暴力と、あげくにバックドロップ・パイルドライバーで命を奪われた悠の無念さを訴えました。
加害者に笑いながら殺された悠の無念さを伝えるため、悠がその時喜んで出かけた服装を着て、髪型も似せ、素顔でのぞみました。悠が交通事故で半身不随になり、壮絶なリハビリを乗り越え「やっと元気になった悠を殺した、悠は元気に生きていた」ということを、加害者に少しでもわかったもらいたかった。その時、15才の加害者は泣きながら謝罪しましたが、「家族を奪われた悲しみ」とか、「家族を奪われた怒りなど」と、何度も家族という言葉を出しました。ずっと我慢して聞いていた私は怒りが沸騰し、15才の謝罪の言葉の後、「その大切な家族を奪ったのはおまえだと」怒鳴っていました。裁判官に止められて、その後、17才の加害者の謝罪を受けました。ずっと、眼を伏せて、下を向いていたので、「私の眼を見て謝って」と言いました。そしたら、ずっと、私の眼を見て謝罪の言葉を述べました。「悠の命をもらって自分は生きている」ようなことを言いましたが、15才に柔道技や殴るのを命令し、17才はニヤニヤ笑いながら見ていた残忍さの謝罪の言葉とは思えず、何も心には響かなかったです。加害者は一発の暴力の痛みもなく、悠は1度も背広も着れず、小さな骨壷になり、眼の前に立派な背広姿で、殺人者には見えず、深い哀しみと怒りと虚しさで涙もでませんでした。
「一生かけて償う」と言ったので、これから、加害者がどんな償いかたをするのか見届けたいと言いました。保護者も去年の4月に裁判所で謝罪を受けたけれど、その時は、こんな保護者が居なければ、加害者も存在せず、悠も殺されずに済んだと思ったので、怒りと悲しみで、保護者の顔もまともにみられませんでしたが、今日は保護者の顔もしっかり見ました。15才の加害者の母親は下を向いていましたが、泣いてもいませんでした。謝罪を儀式に終わらせないでください。
その後、記者会見があり、テレビ・新聞などたくさん取材に来ていただきました。残忍な加害者の謝罪を受けるということは、恐怖もあり、マスコミの方に守られている気持ちもあります。記者会見では「加害者の謝罪を受けても伝わらなかった」とは言えなかったので、日記に書きました。
被害者になっても、何でも言ってもいいと言われながら、加害者は少年法で守られ、和解協議も非公開なので言えない部分もあります。
ニュースステーションで朝日新聞編集委員の清水様が、ホームページのことを紹介してくださったので、たくさんの励ましのメールをいただきました。特集を見て、励ましのメールを見て涙が溢れました。
出かける前、調書を読んで泣いていたのですが、裁判所や記者会見では緊張して泣けませんでした。
18時台のニュースで悠の和解協議の放送があり、悠の写真が別人でした。驚いて連絡しましたが、謝罪され、12時台のニュースで訂正とお詫びされましたが、昼間、命を奪われての謝罪、夜は名誉の謝罪でした。3日間あまり食事もせず、謝罪に臨み、久しぶりに食事をしましたが、おいしくなかったです。


2003年6月25日 水曜日
午後、県庁の商工労働会館で滋賀県犯罪支援連絡協議会第6回総会が行われました。

その中で、H15年度の活動計画で「生命のメッセージ展in滋賀」開催に伴う説明と協力のお願いをしました。悠のオブジェも持っていき、一人でも多くの方に、ピアザ淡海の会場に訪れていただいて、理不尽に命を奪われて、黙して語れない息子達の「命の重み」を感じてもらいたい。息子の命をいかしつづけたいと挨拶しました。滋賀県警・検察・県医師会の方のお集まりで、とても緊張しましたが、明日の和解協議の前で、緊張と忙しさで、気を紛らわせています。27日の産経新聞に紹介されました。夜、眠れず、ぬるいお風呂に浸かって、壁に頭を打ち続けていました。見ていた3人も絶対許せません。


2003年6月24日 火曜日
雨の中、悠のサッカーしてた時のカッパを着て、簿記講座に行きました。終了後、美容院に行きました。26日に和解協議があり、悠の見代わりで望みたいので、悠の写真を持って、悠のイメージに仕上げてもらいました。テレビ取材もあり、恥ずかしいのと緊張もしました。


2003年6月22日 日曜日
午後、取材があり、「家族」の絆についてなどのテーマのお話しをしました。
悠が中学2年生のとき、バトミントンの顧問の先生に「青木からバト取ったら、何も残らない」と言われて退部させられて、悠は熱中していたものを取りあげられて、私がとても心配したとおり、挫折していました。交通事故(99年8月)に遭ってから、4年ぶりに、初めて、悠が打ち込んでいた、中学校の体育館に訪れました。


2003年6月20日 金曜日
今朝の産経新聞に、被害者のご両親が署名活動されているのが紹介されました。
「生命のメッセージ展」in滋賀でたくさんの後援の許可をいただき感謝しています。


2003年6月18日 水曜日
雨の中、悠のカッパを着て、自転車で簿記の講座行きました。電車に乗るのも辛いし、講座受けても、一番前の席です。普段は人に会うのを避けてます。
メダカの卵が赤ちゃんに孵り、時々、眺めてます。


2003年6月14日 土曜日
雨は悲しいです。悠が泣いてるようです。私も泣き叫びたいです。
こんなに苦しい気持ちをどこにぶつければいいのでしょうか。


2003年6月13日 金曜日
今朝、大津の交通遺族の方と2人で、3月に息子さんを亡くされたご自宅に署名用紙など持っていきました。5月31日、同志社生協に講演させていただいた時、たくさんの署名をいただきました。
悠が殺された時、全国からたくさんの署名や励ましをいただきました。本当にありがとうございました。その時のご恩を少しでもお返ししたいと思っています。
会社などから冷たい扱いを受けましたが、たくさんの知らない人から暖かい励ましを受け、涙して元気をもらいました。


2003年6月12日 木曜日
今日、民事訴訟の進行協議がありました。


2003年6月8日 日曜日
悠が亡くなった後、2ヵ月後に交通事故で亡くなられた友達がいます。
3回忌なので、今日、電車・バスに乗って、お悔やみに行きました。石山寺に降りて、バスを待ってる間、バス停から離れて泣いていました。悠が普通高校受験した時、付き添って行った日を思い出し、あまりの悠の不憫さを想い、悔しくて、悲しくて泣いてました。
悠の命を奪った加害者は15才、17才ということで、少年法に守られて、少年院を退院し、普通に暮らしているのに。
 


2003年6月6日 金曜日
今日は悠の月命日です。
大津市などから「生命のメッツーセージ展」の後援の許可がきました。皆様のご協力に感謝です。
メッセージ展の方から署名が届きました。悠が亡くなった翌日が命日の方です。いろんな方の優しさに支えられています。


2003年6月4日 水曜日
午後から簿記の講習に行きました。最近、頭を使うことしないので、学ぶことは
いい勉強になります。


2003年6月3日- 火曜日
自転車で職安行きました。元、同じ会社の方と、久しぶりにあって、話しをしました。
「誰が亡くなった、病気になった」と暗い話しばかりしていました。


2003年6月1日 日曜日
私には珍しく体調壊して、1日寝ていました。夜少し食べましたが、ほとんど食べずに寝ていました。
大津で交通事故に遭われ、署名を集められています。HPの表紙に署名用紙添付しましたので、ご協力お願いします。


2003年5月31日 土曜日
同志社生活協同組合 第72回総代会に奈良の児島さん・静岡の石谷さんと3人で講演させていただきました。台風というのに晴れ渡っていました。立派な建物で、緑におおわれていました。熱心に聞いていただき、大東文化大学・高知の「生命のメッセージ展」に訪れていただいてるので、悠ちゃんのオブジェ見るの3回目と言っていただきました。
同志社大学で「生命のメッセージ展」開催の予定があったのですが、延期になり、とても残念です。


2003年5月30日 金曜日
朝、いつも親切にしていただいてる方より寄付いただきました。その後、滋賀県庁に後援のお願いに行きました。


2003年5月29日 木曜日
午後、市役所に行きました。また、夜、寄付のお願いにも行きました。心配していただいたり、優しくしていただいて、いつも悠ちゃんが守ってくれているようです。毎日、泣き叫びたくても笑っています。


2003年5月28日 水曜日
朝、滋賀県警に行きました。高校まで近くに住んでいたので、幼い頃遊んでいたさるすべりの木も少しやせ細ってありました。
午後は簿記の講習会に行きました。忙しくしているほうが、いろいろなことを考えないで時間が過ぎていきます。


2003年5月23日 金曜日
「スーパーニュースほっとカンサイ」(午後6時20分〜55分)処罰か更生か、少年法改正
2年ということで特集されました。
どうして殺人した加害者を年令だけで、法律で守るかわかりません。


2003年5月22日 木曜日
明日の夕方の「スーパーニュースほっとカンサイ」(午後6時20分〜55分)で特集されます。
関西の放映ですが、少年法が改正されたかなど特集されます。


2003年5月18日 日曜日
長崎開催中ですが、委員の方の都合で、「生命のメッセージ展」in滋賀の実行委員会を開催しました。これから、後援のお願いなどいきます。


2003年5月16日 金曜日
今日から、長崎のブリックホールで18日まで「生命のメッセージ展」が開催されています。
是非、お近くの方は訪れてください。
悠が中学3年間で一番楽しかった思い出は、長崎の修学旅行でした。リハビリで辛い入院生活してた時、よく写真を飾っていました。今は仏壇の前に飾っています。
私も行きたかったのですが、失業中なので我慢しました。想いは長崎に飛んでます。


2003年5月15日 木曜日
午後、テレビの取材ありました。去年と同じカメラマンの方が来てくれました。
取材に応じることにより、少しでも、被害者の実情が伝わり、加害者を守る少年法の改正が1日も早く見直されることを願います。


2003年5月14日 水曜日
伸びきったパンジーやチューリップをサフャイヤなど夏の苗に植え替えました。メダカの水もやっと替えました。


2003年5月9日 金曜日
とても緊張しましたが、京都医療少年院で少年達40人ぐらいの前で、30分お話しさせていただきました。毎日テレビの18時19分のVOICEで紹介していただきました。
息子を理不尽な暴力で奪われた母親の気持ちが、少年達の胸に少しでも響けばと思います。いつも悠ちゃんパワーをもらっているという気持ちです。


2003年5月8日 木曜日
明日は京都医療少年院にアピュイの代表の飯島さんと2人で講演に行きます。
ぎりぎりにならないと原稿ができなくて、今ごろ作成しています。
被害者なのに運動不足で太っているので、テレビ取材があると恥ずかしいです。


2003年5月6日 火曜日
職安行きました。5月1日から雇用保険の失業等給付の改正が行われ説明を受けました。
身体の不自由な悠を殺しても、加害者は少年という年令だけで判断され、1〜2年で少年院から退院して、法律で守られるなんて裁判官も弁護士も保護監察官もおかしいと思わないのでしょうか。

悠は小さな骨壺になったのに、どうして加害者は太陽の光を浴び、普通に暮らせるのでしょうか。


2003年5月1日 木曜日
残忍な加害者Hが5月末頃に退院すると聞きました。1日も長く少年院に居てもらいたいので、今日、大阪の近畿地方更生保護委員会の方に、被害者の母親の気持ちを聞いてもらいました。G3長期処遇で20才まで退院させないでほしいなど、1時間以上母親の気持ちを聞いていただきました。また、地方更生保護委員会のシステムなども教えていただきました。
悠がリハビリ入院してた病院も近くにあり、地下鉄で緑橋の駅名見た時や、リハビリ頑張っていた姿を思うと、命を奪った加害者が太陽の光を浴びるのは許せません。
緊張して泣かなかった私も、家に帰ってから、お風呂に入って、声をあげて泣いていました。悠の悔しさを思うと堪りません。


2003年4月27日 日曜日
横浜で「生命のメッセージ展」の実行委員会があり、出席しました。
横浜は、悠が小学校の頃、会社の出張以来です。その時、JR駅で偶然ピーターに「この電車停まりますか」と聞かれたことを、自宅に帰った時、悠に話したら、数学者で大道芸人のピーターと思って、年齢のギャップを感じました。
関内に降りて、横浜球場の横を歩いて会場に行き、山下公園・中華街と道案内がありましたが、海も何も見ませんでした。


2003年4月26日 土曜日
東京で第3回 少年犯罪被害者支援弁護士ネットワークの集会があり、参加しました。
むごい少年犯罪の事例など紹介され、今まで被害者の方が何年も戦っておられる現実があり、地域や弁護士によって違いが感じられました。
私は、悠が殺されて、すぐネットワークの弁護士に電話して、弁護士の方を紹介していただきましたが、少年法改正に反対されてた方とあとで判って、お断りしました。
弁護士でとても苦労した体験談を話させていただきました。


2003年4月25日 金曜日
27日横浜に行くので、市会議員の不在者投票に大津市役所に行きました。帰り道、皇子山競技場を通り抜けました。幼い頃、スイミングや絵画教室の帰り道、親子3人で寄って、公園などでキャッチャボールなどして遊んだことを思っていました。忙しく疲れていたけれど、あの楽しかった親子3人で笑顔の絶えなかった日々はもう戻らないと思うと涙が溢れました。


2003年4月24日 木曜日
今日、進行協議期日がありました。12月の第八回和解協議が延期になったままだったので、今後の打合せなどありました。
今朝の産経新聞で5月9日にアピュイの活動で、京都医療少年院に講演に参加することが紹介されました。とても辛い講演ですが、母親がどんなに愛情を持って子供を育てているか、失った命は戻らない悲惨さ、やっと元気になった時、むごい殺され方した悠の無念さ、「命を大切に」と言ってた悠の想いを伝えたいと思います。
非公開なのに、たくさん取材に来ていただいてありがとうございます。


2003年4月17日 木曜日
家の前の木に、じっと鳥がとまっている。見上げても飛んで行かない。悠が鳥になって、私達家族を見守っているようで悲しい。毎日、寂しくてたまらない。


2003年4月14日 月曜日
元びわ湖放送のニュースキャスターの林久美子さんが雑誌「地域同和」3月号に風つうしん 事件から2年-犯罪被害者としてできること-を記事にしてくれました。
悲しいですが私が死んでもなりたくなかった被害者になって、これからも、犯罪被害者だからこそできることを、していきたいと思っています。悠から尊敬されるよう、前向きに頑張って生きていこうと思っています。


2003年4月13日 日曜日
悠の好きな花はハイビスカスで、Tシャツや水着などハイビスカスの花柄があります。
悠ちゃんは「ハイビスカスが好きだった」と覚えてくれてた人が、ハイビスカスのアロハシャツをハワイのおみやげにいただきました。仏壇の悠ちゃんに広げて見せてました。悠が居たら、きっと、喜んで着ただろうと想いました。


2003年4月8日 火曜日
自転車で雨の中職安行きました。帰り道、三井寺、皇子山公園は桜の花が咲き乱れていました。桜の花も見るの悲しいので、用事が無い限り、外出しなくなったので、久しぶりに桜をみて春を感じました。小学校や中学校の前も通り、悠の昼間の高校の入学式がお葬式になってしまった哀しみ、悔しさを雨に打たれていました。


2003年4月7日 月曜日
2年前はお通夜でした。見張り役の3人も母親もお通夜に来ていました。身体の不自由な悠が1〜2時間殴られるのを壁のように取り囲んで見ていて、警察も救急車も呼ばず見殺しにして、何のお咎めも受けず、普通に暮らしている人達です。
被害者は死んだら名前も住所もでます。加害者達は少年ということで、法律で守られます。


2003年4月6日 日曜日
悠が一番喜ぶいとこ達が遠くから来ていただき、悠が喜んで迎えてるような穏やかな暖かい日でした。身内だけで3回忌しました。
とても優しかった悠が普段会えない家族達を呼んでくれてるようで、私も泣かずに務めました。悠が殺されて寝たきりになった、悠の祖父もお参りしてくれました。


2003年4月5日 土曜日
明日、3回忌のため、久しぶりに仏間を掃除していました。悠の幼かった頃や元気な写真を見ていると、悲しくて、全然捗りませんでした。
花の咲き誇る時に逝ってしまった悠のために、仏間はピンクのチューリップなど花をたくさん飾りました。


2003年4月4日 金曜日
夜、大津開催の打合せをしました。
午後、雨の中、外出して、湖西線に乗って、琵琶湖を眺めながら、悠は2年前、ICUで生きようと必死で頑張っていたんだ、私は死なないでとどんなに願ったかと考えると涙が溢れました。毎日忙しくしてて、考える時間もないようにして、泣かないようにしてます。
今、泣いてしまうと立ち上がれない自分がいます。


2003年3月31日 月曜日
春めいてきても、悲しいですが、31日は呼び出されて、脳死状態にさせられた日なので、時間が経つのも苦しかった。今、呼び出された時間、殴られ続けられていた時間、給食室に寝かされてた時間、それを見ていた見張り役の3人、ずっと、見ていたおじさん。見殺しにした人達が普通に暮らしている。被害者はどうすることもできず苦しい。一番恐ろしかった、苦しかった悠のことを想うと、泣き言は言えない。
いつも悠のことや、私を心配してくれてる学生さんに出会った。3月に大学を卒業されたのに、悠のことなどで命の重さを感じて、看護婦の道をこれから目指すと話されて、とても嬉しく思った。
この頃、落ち込んでいたけれど、遠くから花を届けてくださった方、電話をくれた方、いつもメールで励ましてくれる人達の励ましをいただいて、悠が前向きに生きたように、私も前向きに強く生きようと思います。
「生命のメッセージ展」大津開催10月に向けて、これから寄付や後援など募っていきます。悠のHPで振替口座を設けましたので、ご協力よろしくお願い致します。


2003年3月22日 土曜日
昨日まで、資料つくりなどで、徹夜していたので、今日はホッとして、3回忌の法事の予約をしました。1回忌は何もできなくて、今年はもう少しきちんとと思いますが、悲しくて帰りの自転車で泣いていました。朝起きた時、2年前の今日は悠が高校受験して、私が付いていった日だと想っていました。悠はとても緊張していました。


2003年3月21日 金曜日
午後、大津開催の第3回目の「生命のメッセージ展」の打合せをしました。いつも、ギリギリにならないと資料ができなくて、ご迷惑かけてます。


2003年3月20日 木曜日
高知から帰ってきて、とても不愉快なことがあり落ち込んでいましたが、明日、実行委員会の資料つくりの応援にきていただいた方に、話しを聞いてもらい、気分が楽になりました。


2003年3月16日 日曜日
雨でも、遠くても、お金がかかっても、「生命のメッセージ展」に出かけるのは、被害者遺族の方に会って話せることです。
悠ちゃんが「命を大切に」とメッセンジャーとして、頑張って伝えてる姿を見ることです。
京都に帰って来て、湖西線に乗って、悠とよく似た人が、携帯メールしてて、涙が溢れました。
いつも悠が居たらと想います。


2003年3月15日 土曜日
京都駅から高速バスで高知まで片道5時間です。雨が良く降っています。海も山も雨でかすんでいました。雨は悠が泣いてるようで、私も悲しいです。
会場のかるぽーとは新しく立派な建物でした。
悠のフライデーの記事を見た方が、ボランテイァで協力していただいてました。


2003年3月14日 金曜日
去年退職したため、確定申告を2.3日徹夜して、やっと、今日、税務署に提出しました。
扶養者欄に悠の名前がない悲しさなどで、なかなか作成できませんでした。
明日から、高知の「生命のメッセージ展」に参加します。


2003年3月9日 日曜日
大阪で日本発の24時間配信型のインターネットテレビ局を作られた方を紹介していただいて、お話しに行きました。大阪駅で環状線に乗り換えたので、悠とリハビリで頑張って通院していたことを想い、大声で泣き出しかったです。紹介者の方と一緒だったので、我慢しましたが、とても悲しかったです。


2003年3月8日 土曜日
午後、犯罪被害者支援されてる方の研修に90分の遺族の声を聞いてもらいました。
被害者の生の声を聞いてもらって、少しでもお役に立てればと思います。


2003年3月6日 木曜日
悠の月命日。悲しくて、気を紛らすため、用事をたくさん作っています。ロウソク・線香をもって、平野小学校へ行こうと自転車で出かけましたが、雨も降ってきて、悠が泣いてるようで、小学校も行けず帰ってきました。悠が好きだった、唐揚げ買って供えました。


2003年3月2日 日曜日
第2回目の「生命のメッセージ展」の打合せをしました。強力な方も参加していただき、大阪・和歌山からもきていただいて、心強いです。皆様の優しさに心から感謝です。
3月になり、春めいてくると悲しくなり、忙しさで気持ちを誤魔化している、自分が居ます。


2003年2月21日 金曜日
さいたま新都心合同庁舎で「関東地方更生保護研究会」が開催され、関東管内の保護監察官や保護司の方が130名余集まられました。犯罪被害者の現状と更生保護に望むことを訴えました。少年犯罪で息子を亡くした母親3人の話しを聞いていただきました。ニュースステーションで放映されました。緊張しましたが、少年院退院の仮釈放の決定される保護監察官の方に、被害者の生の声を聞いていただき、少年が再犯しないという保障が持てて退院して欲しいなど訴えました。
被害者が訴えることにより、少しでも、何かを感じて被害者に視点を向けて加害者に接していただきたいです。

朝日新聞に掲載されました。


2003年2月20日 木曜日
明日は埼玉で「関東地方更生保護研究会」が開催され、被害者の現状を話させていただきます。
ニュースステーション・NHK・日本テレビ・TBS・フジテレビの取材があります。当日、夕方のニュースで流していただけるかもしれません。ニュースステーションも21日放映予定です。


2003年2月18日 火曜日
[生命のメッセージ展」IN国会に行ってきました。滋賀県の衆議院議員の岩永峰一(総務大臣政務官)・参議院議員の山下英利議員は会場に訪れていただき、熱心にお話しも聞いていただき、励ましていただきました。
川端達夫衆議院議員は秘書の方、お二人がきて励ましていただきました。小西理衆議院議員・山元勉衆議院議員も訪れていただいたのに、お会い出来ずに大変申し訳ないことをしました。
小泉首相に握手していただきました。テレビでよく見る菅民主党代表・森山法務大臣・安部内閣官房副長官・福島瑞穂参議院議員・高市早苗経済産業副大臣などたくさんの方に訪れていただきました。
国会に行くまでは、緊張と不安で一杯でしたが、帰りの最終の新幹線でホッとして、泣いていました。


2003年2月15日 土曜日
読売新聞の夕刊に掲載されました。
国会会期中でお忙しいと思いますが、多くの国会議員の方に訪れていただきたいです。


2003年2月14日 金曜日
今朝の産経新聞に「メッセージ展」IN国会の2月18日開催の紹介の記事、大きく載せてくれました。
悠ちゃんに優しい新聞記者の方からのバレンタインのプレゼントのように思いました。
午後、滋賀県の国会議員の方の事務所に18日の案内を持っていき、18日、是非議員の方に訪れていただくよう、秘書の方にお願いに行きました。気持ちは落ち込むばかりですが、負けないで前に進んでいこうと思います。

悠の仏壇にハート型のチョコ供えました。寂しい日です。


2003年2月11日 火曜日
滋賀弁護士会主催のセミナーが滋賀弁護士会館でありました。
東京家庭裁判所の調査官が「少年非行の背景にあるもの」
というテーマで2時間講演ありました。
1日、家に閉じこもっていることが多いので、勉強のつもりで聞きに行きました。


2003年2月9日 日曜日
まさか、この詩(HPの夢)を書いた2ヶ月足らずで殺されるとは。
悠が高校受験の不安の前に、私の誕生日にノートに書いていました。 (殺されてから、見つけて、日付けで涙しました) 高校合格して、最高に幸せな気分になってた時、殺されました。 私が、辛くて泣き出しそうになる時、いつも悠の無念を思います。 幸せにすることも、助けることもできなくて、せめてお詫びの積もりで「 加害者を法律で守った」といい続け、 被害者の現状を訴えていきたいと思っています。                 


2003年2月7日 金曜日
スイミングの帰り、やっと、近くに新しく開院した歯医者さんに行きました。悠が交通事故に遭って以来、3年以上経ってです。食べる歯が無くなって、ぼろぼろで、やっと、病院に行きました。
先生に「もう少し早く来たら」と言われましたが、病院に行って、突然泣きだしたらどうしようという不安と、悠が交通事故に遭って、前歯が欠け、大阪の病院で綺麗に治してもっらた時、車椅子を押して付いて行った事があり、痛くても、辛くて、なかなか歯医者に行けませんでした。
アピュイの活動で、2月21日「関東地方更正保護研究会」に被害当時者として、初めて、保護監察官の方に被害者の現状を聞いて戴きます。
2月18日は国会で「生命のメッセージ展」があり、参加します。是非、小泉首相はじめ、滋賀県の国会議員の方にも訪れていただきたいです。


2003年2月6日 木曜日
今日は悠の月命日です。毎日、悠を幸せにすることも出来ず、助けることも出来なくて、自分を責め続けます。今日は、昼間、取材などがあり、悲しくて、辛いことですが、被害者になって、被害者の悲惨な現実などを訴えることにより、少しでも被害者支援に繋がることができればと思います。久しぶりに徹夜して、悠のHPに生命のメッセージ展の写真など追加しました。


2003年1月31日 金曜日
今日、第1回の「生命のメッセージ展」の大津開催の打合せを自宅でしました。慣れない事ばかりですが、皆様に助けられて、乗り越えていこうと思います。悠が亡くなって、初めての経験ばかりです。悠を助けることができず、後悔の日々ですが、泣くこともできず、忙しくすることによって、居ない現実を直視してません。


2003年1月23日 木曜日
最近、運動不足と重い物を持つので、膝が痛くなってきた。雨の中、ジャスコまで歩いて買い物に行きました。お昼、料理番組でみたピリ辛煮込みうどんを作りました。
来週、実行委員会を自宅ですることにしたので、掃除するようになりました。


2003年1月15日 水曜日
雪の中、歩いてプールに行きました。運動不足で体重が増え続けています。サウナの中で世間話をされていると、出てきます。自分が被害者になるまで、世間話しがこんなに嫌なものと気が付きませんでした。
今日は悠ちゃんの部屋を掃除してました。教科書や参考書・ノート類などたくさんあります。病院の診察券・薬なども出てきます。毎日、毎日うるさく「リハビリしいや」と励まし、仕事で遅くなる時は手紙やメモで励ましていました。可哀想なことをしたと思います。本当に不憫で口惜しくて、涙が溢れます。


2003年1月11日 土曜日
朝、ホテルで原稿を読んでて泣いたので、大学の講演の時は、どうしても泣いてしまうところ以外は大丈夫でした。いいお天気にも恵まれましたが、学生さん達は試験中か連休前なのか、訪れる人が少なくてとても残念でした。正林君ご家族・仲間や友人の方達の暖かい熱い想いは溢れていました。
帰りの新幹線で三笠 貴子さん著の「お兄ちゃんは自殺じゃない」を読んでいました。


2003年1月10日 金曜日
AM6時前に自宅を出て、大東文化大学に着いたのは10時30分頃でした。哀しいほど、新幹線から富士山が綺麗に見えました。大東文化大学は立派な建物でした。高坂駅に着いたら、大学まで循環バスがあります。郵便局も食堂も売店も立派でした。
サークルの代表の正林君のお母様の友人の方の素晴らしいマリンバ演奏がありました。音楽の大好きだった息子達も喜んでいると思い、涙が溢れました。


2003年1月9日 木曜日
埼玉の大東文化大学の学生さん達が主催され、今日から3日間ミニ・メッセージ展が開催されます。悠も呼んでいただき、参加します。私も講演させていただくことになり、明日の始発で埼玉に行きます。
講演は11日の3時30分からさせていただきます。若い人達に「命を大切に」と言ってた悠がこんなにむごい殺され方をして、加害者を法律で守ったということを伝えたいと思います。


2003年1月6日 月曜日
今日は悠の月命日です。朝、ゴミを捨てに行っただけで、一歩も出ず、家にこもっていました。
昨夜も寝られず、朝方まで起きていました。今は東北のおいしいお酒を飲みながら書いています。
悠が亡くなった事の哀しいご縁でたくさんの優しさをもらい、悠ちゃんに「お母さん 元気を出して」と励ましてもらっているようです。


2003年1月3日 金曜日
悲しい夢を見て、泣いてたようで起きた時、眼に涙が付いていました。
お昼、新春の初泳ぎに行き、水の中で20分ぐらい歩いていました。今年は健康で過ごしたいと思います。
三が日、食べて、飲んで、テレビ見て、パソコンのメールして、寝てました。悠ちゃんにムック3段腹と言われていたので、少しは運動して、スリムになりたいです。


2003年1月1日 水曜日
新しい年を迎えました。2001年、悠は亡くなる前、高校受験を目指し、立木神社にお参りに行き、不自由な身体で階段の700段ぐらい登って、新しい年を迎え、1番に私に電話してきました。お正月はさらに寂しく、悲しいです。
今年は民事訴訟、10月11.12.13日にピアザ淡海で「生命のメッセージ展」大津開催があります。健康に気をつけて、悠の母親として、強く生きていきたいと思います。悠の命を生かしていきます。
今年もよろしくお願いいたします。


2002年12月31日 火曜日
今年もあと数時間になりました。悠が亡くなって、2度目のお正月を迎えます。悲しみは深まるばかりですが、被害者になって、たくさんの出逢いがありました。優しかった悠の贈り物と思います。
5月は札幌・6月金沢・9月東京・10月千葉・11月名古屋・秋田・12月小田原と出かけました。人ごみも辛かったですが、いつも悠のパワーをもらい、たくさんの出逢いがありました。皆様の優しい励ましや思いやりを戴き、元気をもらっています。これからも悠を生かし続けたいと思います。
いつも暖かい励まし・応援ありがとうございます。


2002年12月29日 日曜日
今日は丸谷康政君の命日です。警察によって、自殺にさせられました。http://www4.ocn.ne.jp/~marutani/
息子を理不尽な暴力で殺された悲しみ・怒り・苦しみは言葉で表せません。まして、犯人も判らず、民事裁判も起こせず、信じてたものに裏切られた辛さや悲しさをどこにぶつけたらいいのでしょうか。
私は苦しい時や、疲れた時、丸谷さんの悲しみを想います。弱音を吐いていてはいけないと思います。
丸谷さんからいつも励ましや心配していただいてます。


2002年12月27日 金曜日
悠が99年8月に交通事故に遭ってから、年賀状は書いてません。「新年おめでとう」とは言えなくなりました。事故後、交通事故の加害者の父親から年賀状が来ました。保険会社に任したと言って、それっきり、何の音沙汰もありません。まだ、保険会社から支払ってもらってません。


2002年12月25日 水曜日
悠ちゃんが居たら喜んだ「宅配ピザ」を頼み、悠に供えました。悠が元気な頃は100円のお金も始末していたので、なかなか頼めませんでした。交通事故の加害者・保険会社に誠意があればと思います。


2002年12月24日 火曜日
クリスマスイブにスイミングも侘しく、悠ちゃんにケーキを買いに行きたかったけれど、外出する元気もなく、服着たまま、朝まで寝てしまいました。


2002年12月23日 月曜日
勤めていた同僚のお父さんが亡くなられ、お通夜に京都へ行きました。悠のお通夜の時、同僚が受付をしていただきました。明るい祭壇・お坊さんのお経、あの日のことが甦りました。電車からの窓の外はクリスマスのイルミネーション、車内のお客さんは大きな買い物袋、私の眼からは悲しい眺めです。


2002年12月22日 日曜日
ご意見のメール見るまで、HP立ち上げて1年ということに気付きませんでした。去年、どうしても年末までに立ち上げたくて、会社に10日間の休暇もらって、図書館で借りてきたHP作成入門の本と首っきりで何とか立ち上げました。(まだ、未完成の部分もあり、少しづつ手直ししたいと思っています。)その時は、まさか、会社を辞めることになるとは思っていませんでした。
「障害者のくせに生意気」と殺された悠の無念を何らかの形で訴えたいと思いました。とても優しいお母さん想いの悠でした。私を悲しませないように、いつもにこにこしていました。
残忍な加害者を法律で守り、現場の平野小学校の女校長先生は花も飾るなと言い、加害者5人共、打出中学校の卒業生なのに、打出中学の校長先生は「加害者は卒業した子」と完全に無視しました。お悔やみもお詫びも線香の1本もありません。信じられません。15才のHは卒業文集に「10年後は殺人犯で指名手配されてると思う」と書かれていました。
悠の命は2度と戻ってきません。せめて、「命を大切に」と言ってた悠の命を生かして、教育の現場で生かされて「弱いものは守る、いじめのない」安全な学校を目指してほしいと思います。まさか、土曜日の昼間、小学校で殺されると夢にも思わず、助けることもできなくて、「悠ちゃん ゴメンね」と毎日、仏壇で謝っています。もし、私が万一何かあった場合、こんなむごい事実を遺しておきたいとも思いました。
励ましのお言葉や、「日記を読んでる」と言っていただけるので、少しでも書き続けていきたいと思います。日記も12月22日から書き出したのですが、送信ミスで消してしまいました。もし、どなたかお持ちでしたら、送ってください。(1部は送っていただきました。また入力します)


2002年12月21日 土曜日
小田原少年院の教官の方対象に講演させていただいた内容が、産経新聞に紹介されました。
「命を大切に」と言ってた悠の命を無駄にしないで、生かしていきたいと思います。悠を幸せにすることも、助けることも出来なかった母親のお詫びでもあります。


2002年12月20日 金曜日
今日の和解協議は前回から進展がなく、延期になりました。あまりに誠意がないと判決にしようかと思います。和解協議に応じてる自分が悲しいです。
2、3日家事など手が付かなくて、今日は洗濯干して、食器など3日間分ぐらい洗っていました。


2002年12月19日 木曜日
朝10時過ぎに自宅を出て、京都駅からテレビの密着取材があり緊張しました。新幹線を静岡で乗り継いで小田原駅に着きました。3時間足らず、窓の外の景色も見ず、原稿を読んでいました。
駅前で飯島さんと待ち合わせ、小田原少年院に行きました。駅から歩いて10分ぐらいの住宅地にありました。次長さんが迎えてくれ、少しお話ししました。
私はとても緊張していたので、お手洗いに行きました。運動場で少年達が青いジャージを着てサッカーしていました。(付添いの方がおられ、鍵を開けてもらって行きました)
悠の写真を並べ最初30分間私が話しをさせてもらいました。その後、飯島さんの説得力のある話しをされました。講演の後、次長さんが「重い話し」と眼鏡をはずし、涙を拭っておられました。
講演の時、私が「最後に教官の方に望むこと」と言った時、皆、熱心にメモを取っていただきました。私は「再犯しないと言う保障・責任が持てて、初めて、少年院を退院してもらいたい」と言いました。
17才の加害者は1年3ヶ月で退院しましたが、15才は少年院に入っています。
とても責任の重い講演でしたが、教官に被害者・被害者の遺族の声を聞いていただいて、改めて少年達に接し、少しでも役に立てればと思います。こういう形で少年院を訪れて、悠の命が生かさればと思います。雨の中、長い時間、テレビ局の方に待っていただいてお世話になりました。(少年院は取材拒否でした)
泣きながら徹夜で原稿を作り、とても疲れましたが、貴重な時間を設けていただき感謝です。辞退せず、行って良かったです。いつも悠のパワーをもらっています。
産経新聞が紹介してくれました。


2002年12月18日 水曜日
昼間、雑誌の取材がありました。食事を控え目にしてるので、お腹がグーグー鳴っていました。
夜から明日の原稿をまた、作り直し、AM4時までかかりました。声をだして読む練習したかったですが、それはできませんでした。


2002年12月17日 火曜日
小田原少年院の教官にお話し行くことが決まってから、緊張で眠られず、朝方に寝るか、夜中に起きるか不規則です。朝、職安行きました。
午後、やっと、ビデオ修理もらいに行きました。私は1回も使ってないのに、故障してて、2、3年?ほこりをかぶっていました。
(歯が痛くても、病院行くのが厭で我慢してます。突然泣き出しそうな不安があります。)
20日の和解協議延期の予定です。


2002年12月15日 日曜日
会社を辞めた時、静かに暮らしたいとも思ったのですが、「命を大切に」と言ってた悠の想いを伝えたいと「生命のメッセージ展」に参加しています。
少年法を廃止したいと思っても、一人の力では何もできません。
10月にアピュイに入会しました。アピュイ代表理事の飯島さんと12月19日小田原少年院に行くことが決まりました。小田原少年院の教官に被害者・被害者遺族の想いを伝えに行きます。責任重大ですが、悠や優しい人達の励ましで、被害者の現状を伝えたいと思います。


2002年12月13日 金曜日
お昼控え目にしたのに、スイミング行って、体重量ると増えてます。水の中でアクアした後、久しぶりに平泳ぎやクロールしました。今、腕が痛いです。アクアの最後、深呼吸する時、オルゴールのような音楽になります。いつも泣かないようにしてますが、悠に毎日、オルゴール鳴らしているので、堪らないです。


2002年12月11日 水曜日
この前、奈良のお宅に泊めてもらった時、リビングは純君の写真で一杯でした。長男の方に、私が「息苦しくない」と聞きました。返事は「僕が亡くなったら、同じように飾るだろう」と言われました。CDラックのケースに壁飾りのようにしてあって、私が過ごした時間も純君・兄弟・お母さんのたくさんの愛情感じました。
私も長男に遠慮しないで、たくさん飾ろうとCDラックのケース買って来ました。でも、写真選んでいて堪らなくなり、挫折しました。私の若い頃のスリムな写真も出てきました。もっと、努力することがあり、だらだらしてはいけないと反省しました。


2002年12月10日 火曜日
唯一、運動はスイミングのみなので、休まず行くようにしてます。悲しくて泣きそうになっても。水の中なので目立たなくて済みます。帰ってから、秋田で買った新酒初しぼりを飲みました。


2002年12月7日 土曜日
昨夜は以前勤めていた関係会社の方が慰労会してくれました。久しぶりに草津に行きました。子供達が小学校の時、スキーやキャンプに連れて行ってもらった人達です。悠は始めて、奥伊吹山にスキーに連れてもらい、即、リフトで頂上に行って、悠は最初すべり降りられなくて長い時間すねていましたが、納得すると、暗くなるまで、一人滑っていました。運動神経がよく、元気で明るい子供でした。


2002年12月6日 金曜日
今日は悠の月命日。昨夜はメールを見たり、返信して、疲れて寝たのに、AM3時過ぎに目が覚めてしまった。悠はAM4時25分に亡くなったので、いつも病室の息を引き取っていく姿が焼きついていて堪らない。寝苦しい時は、給食室の前で殴られ横たわっていた姿を思い、気が狂いそうになる。でも、私は生きている。生きたかった悠は殺されてしまった。加害者や加害者の保護者、見張り役の3人・2階から見てたおじさん達は何を感じて毎日生きているのかと思います。以前、職安行った帰り、見張り役のK・Tの家の前、自転車で通り、表札見たら、表札に家族の名前みんな書いてあって、夢にも悪いことをしたなんて思っていないのでしょう。殺人に関わったと思っていないのでしょう。見張り役の3人もいずれ訴えます。
残忍な加害者に和解協議に応じてる自分自身も厭で苦しい。


2002年12月5日 木曜日
今日発売の週刊新潮に続・「裁判官」がおかしい!第1回「障害者」をリンチ惨殺した少年が「感受性豊か」とは。悠の記事が掲載されています。
悠の血のにじむような努力の結果が殺されたのです。必死でリハビリしてた悠の姿を思うと涙が溢れます。悠の命をむごいリンチで奪った加害者を、極刑か終身刑にしてほしかったです。村地勉裁判官は調書も読まず、今までの判例で裁いたと思います。記者会見で村地勉裁判官に説明してもらいたいと思いました。裁判官は加害者を中等少年院送致にして、1年足らずで退院し、もし再犯しても何の責任も負わなくていいのです。被害者になって初めて、法律で裁いてくれないと判りました。


2002年12月3日 火曜日
今週の週刊新潮に悠の記事が出る予定です。原稿を読みながら泣いていました。毎日、泣き叫びたい心境ですが、泣くこともできず、耐え忍ぶ日々です。


2002年12月2日 月曜日
昨夜は21時前に帰宅しましたが、メールのチェックや電話してて遅くなり、三笠さんのテレビ見ながら、お化粧も落とさず、服着たまま寝てしまいました。疲れていましたが、朝、スイミングは行きました。
ベビースクールがあり、泣いてる子もいます。悠も泣いてるのに、無理に自転車に乗せ、スイミングや絵画教室に通っていました。こんなに早く亡くなるのなら、習い事などさせず、もっと伸び伸びと好き放題にさせてあげたかった後悔します。


2002年12月1日 日曜日
秋田はとても良いお天気でした。「メッセージ展」は家族連れの方が多く訪れていました。私のスピーチさせていただきましたが、よく泣くようになりました。お昼は会場の近くのお店でラーメンを食べに行き、悠ちゃんのお土産にラーメン持って帰りました。あまりに重かったのと、昼から慌てて帰り、会場にたくさんの忘れ物しました。
素晴らしいメッセージ展だったので、改めて、大津開催の責任を重く感じました。


2002年11月30日 土曜日
悠との思い出のある角館に行きたかったのですが、やはり行けませんでした。会場に1日居ました。
秋田会場の人々は素朴で暖かい、素顔の美しさを感じる処でした。
懇親会があり、その後、温泉に歩いて行きました。夜空を見て、星を見て悠を想いました。


2002年11月29日 金曜日
伊丹空港AM9時10分発で秋田に向かいました。お天気は快晴で富士山がとても美しく輝いて見えました。秋田はあいにく雨でしたが、秋田駅で会場行くバス聞いたら、とても親切に教えていただきました。
会場に着き、悠ちゃんに帽子・マフラーしました。でも、いつも会う時悲しいです。


2002年11月28日 木曜日
明日から「生命のメッセージ展」秋田です。悠ちゃんも寒いだろうと帽子・マフラー用意しました。
幼い頃、東北一週ドライブ旅行で角館も行ったので、写真探しましたが、苦しくて進みませんでした。


2002年11月27日 水曜日
「生命のメッセージ展」大津開催が来年の秋に決定しました。皆様のご協力・ご支援よろしくお願いいたします。
24日のシンポジウムの朝日新聞の記事掲載します。東海3県で掲載されました。
徳島の三笠 貴子さんのテレビ放映のお知らせです。


2002年11月24日 日曜日
犯罪被害者によるミニシンポジウム第3回「少年犯罪と刑事司法」が名古屋でありました。
栃木から須藤さん、愛知から永谷さん、山口から本村さんが参加されました。コーディネータはノンフィクションライターの藤井誠二さんです。犯罪被害者自助グループ「緒あしす」の青木聡子さんに声をかけていただき、参加できて、いかに被害者は苦しめられるか、発表の場を与えていただいて感謝です。和歌山・奈良・浜松・長野から応援に来ていただいた「生命のメッセージ展」のメンバーの方に、もっとたくさんの方に聞いてほしい密度の濃いものと言っていただきました。遠くからの応援ありがとうございました。
頑張って生きてた悠の想いが少しでも伝わればと思います。加害者を司法が守る現実を知ってもらいたかったです。被害者になっても差別されるのかと思います。
悠の加害者のSは17才で旧法でも逆送できましたが、大津家裁はしませんでした。
須藤さん、永谷さん、本村さんの加害者は逆送されました。


2002年11月23日 土曜日
明日、ミニシンポジウムに参加するため、藤井誠二著の「少年に奪われた人生」を徹夜で読んでいました。


2002年11月21日 木曜日
来年の「生命のメッセージ展」の会場の下見に、大阪の方と行きました。


2002年11月19日 火曜日
職安行っての帰り、交通遺族の方と2人と始めて昼食を共にしました。Kさんは去年の4月H小学校で署名運動してた時、励ましていただいたり、現場にお花供えてくれたり、署名用紙もたくさん送っていただきました。お互いたくさんの元気もらって、帰りました。
取材などに応じるといつも辛い辛い現実・加害者に対する怒りなどで苦しみます。でも、言える私は恵まれていると思います。でも、苦しいです。
千葉行った時も、今日も被害者の方に、「辛い時期に被害者として頑張っている姿を見て、元気をもらいます」と言われました。


2002年11月16日 土曜日
11月24日は名古屋で犯罪被害者によるミニシンポジウムがあります。少年によって愛する家族を無残に殺された被害者遺族がパネラーです。私もパネリストとして出席させていただきますので、お忙しいと思いますが、是非聴きにきてください。


2002年11月14日 木曜日
雑誌の取材がありました。家に居るようになって、私自身が生きていくため、あまり酷い現実から、少し逃避した生活をしています。主犯のHは少年院にいると思いますが、共犯とされた17才のSは8月に退院し、見張り役の3人は何の処罰もなく普通に暮らしています。加害者が擁護される法律の中で、被害者は生きていかなければなりません。その苦しみは言葉で言い表わせません。大好きなお母さんを残して、命も将来も夢も何もかも奪われた悠の苦しみを思うと、泣いたり、弱音は吐けません。
取材に応じることによって、少しでも、被害者の思いや、法律が見直される何かに繋がればと願います。


2002年11月11日 月曜日
昨日、きれいなお部屋に泊めていただき、私の家があまりにきたないので、朝から掃除していました。悠は去年、普通高校に合格した時、大学目指すためと、広く使いたいため、自分の部屋にあったマンガのコミック本など廊下に出し、本棚など私の部屋に入れていました。今日、また、本棚やマンガ本を悠の部屋に戻しました。悠のバトミントンのラケットや入院生活の小物など捨てられないので、ケースに入れて、悠のベットの下に保管しました。亡くなったのに、悠が取り出し易いように保管してる私が居ました。1日、悠の部屋に居たので、息苦しかったです。悠を助けることが出来なくて、悠に毎日謝っていますが、悠が亡くなったなんてまだ信じられません。


2002年11月9日 土曜日
「生命のメッセージ展」でお知り合いなった方に誘われて、奈良に行き、薬師寺と唐招提寺を散策しました。薬師寺は修学旅行生で賑あっていましたが、薬師三尊像は見ていると、心落ち着きました。
唐招提寺は工事中でしたが、紅葉で輝いている散策は綺麗でした。


2002年11月8日 金曜日
夏があっという間に過ぎ、冬が来たという感じで、庭の花も夏の花のままです。今日、母と花の苗を買いに行きました。母も左足痛めているので、悠の足の不自由さを思い涙、あまりの不憫さに涙でした。紫のパンジーなどプランターに植え替えました。


2002年11月6日 水曜日
悠の月命日です。外出もせず、1日家に居ました。お昼、焼き飯を作って供えました。
家に居る時間が長くなるほど、何もできず、じっとしています。物音がすると、悠ちゃんが居るのかと思います。


2002年11月2日 土曜日
去年、WILLに参加させていただきました。その時、隣の席になり、お知り合いになって、毎日のように、お互い励ましのメールをしていました。せめて、メールは明るくと画像やBGM入れてたくさん励ましていただきました。今回も遠くから、参加されたので、大阪まで会いに行き、1年振りに再会しました。去年はお互い泣いてばかりいましたが、少しは逞しくなりました。


2002年11月1日 金曜日
スイミングに行くたびに体重を量りますが、また3Kgも増え、体脂肪も3%増えました。仕事してる時は、実験場を行ったり、来たりして、1日1万歩ぐらい歩いていました。今は、ほとんど家に居るので、悠ちゃんに「お母さん、食べすぎ・飲みすぎ・怠けすぎ」と怒られそうです。仕事できる人が家にいるのはもったいないと思いますが、仕方ありません。


2002年10月29日 火曜日
近くの郵便局に行きました。途中に悠がリハビリの時、少しでも良くなるため、電気のマッサージに行ってた所があります。土曜日など、悠に「お母さん付いて来て」とよく言われ、私は休日は疲れてゆっくりしたいのにと、しぶしぶ付いて行ったことがあります。辛いリハビリを頑張ってる姿を私に見せたかったと思います。あんなに頑張っていたのにと思うと堪らないので、いつも遠くの郵便局に行ってましたが、今日は時間が無かったので、自転車で行って、帰り道は泣いていました。


2002年10月27日 日曜日
諸澤 英道教授の講演会がありました。外国に比べ20年遅れている、日本の被害者支援の話しや、法廷に持ち込んでも遺影や位牌は騒がないのに、裁判所は乱すからとか言って、持込禁止するなどの話しがありました。
夕方、千葉を出発しました。いつも一人の時間が多いので、空港や大勢の人の所にいると、とても疲れますが、被害者が声を上げないと、改善されないのだと再認識しました。


2002年10月26日 土曜日
懇親会があり、みんなギリギリの所で、理不尽に命を奪われた息子達のために、頑張っているんだと改めて思います。言葉使いは荒っぽいけれど、優しい人だなぁと、話すことにより、お互いに理解して、力をもらいます。


2002年10月25日 金曜日
第7回和解協議の朝刊です。産経新聞読売新聞
和解協議は非公開なので、テレビ・新聞記者の方、取材にたくさん来ていただきましたが、放映されません。
AM5時前に暗い道をビラなどで重くなったリュックを担いで歩き、始発電車に乗り、伊丹空港に向かいました。関西空港から来る友達と羽田で待ち合わせ、バスで千葉に行きました。
天国への風船飛ばしがあり、「悠ちゃん帰ってきて」とメッセージを書きました。悠のために、おいしい食事を作ったり、話しをしたり、プールに一緒に行きたいです。


2002年10月24日 木曜日
第7回和解協議がありました。
明日から、千葉の「生命のメッセージ展」に参加します。25日〜27日までです。
お近くで時間のご都合の付く方は是非訪れてください。


2002年10月20日 日曜日
悠が亡くなってから、始めてダイニングで夕食食べました。悠の居ない席は悲しく、味気のない水炊きをかみしめていました。今までは悠の仏壇から見えるリビングで悠が使っていたテーブルで一人で食べていました。ほとんど一日中家に一人で居るので、自分自身がつぶれないように、少しづつ生活を改善していこうと思います。


2002年10月19日 土曜日
京都で「京滋・奈良共済セミナー感動体験〜広げよう心の輪〜」ミニ・メッセージ展がありました。悠も参加しました。理不尽に命を奪われた「生命の重み」を一人でも多くの方に知ってもらいたいと思います。悠のことも、一人でも多くの方に知ってもらいたいです。学生さん達に何かを感じとっていただけたらと思います。


2002年10月13日 日曜日
来年の秋、大津で「生命のメッセージ展」の開催の会場の下見に行きました。
悠と長男と土・日通った児童美術・書道教室のあった大津市民会館にも行きました。ホールはピアノ発表会していました。悠もエレクトーンの発表会したところです。幼い頃、将来にたくさんの夢をいだき、雨の日も休まず、カッパ着て、自転車で習い事に通っていました。


2002年10月12日 土曜日
あまりにいいお天気も悲しみで、1日、一歩も外に出ず、台所の換気扇など洗っていました。夕方、電話が鳴り、出てみると、悠の大学受験の講習の案内でした。「受験勉強は進んでいますか」と言われ、どんなに悠は大学に行きたかったかと思うと堪らないです。


2002年10月11日 金曜日
父の免許更新に付き添って、大津警察署に行きました。手続きは新しい建物なので、待ってる間、旧い建物を見て、いろいろ苦労した悠のことを想い涙が出そうでした。


2002年10月10日 木曜日
毎日、ほとんど家に居るので体重は増え続けてます。
今日は、昼から職安に行き、その後、ピアザ淡海に行きました。帰り道、自転車で湖岸沿いを走りながら、悠と魚釣りしたこと、サッカーしたこと想い浮かべていました。お線香持っていきましたが、H小学校には行けませんでした。


2002年10月9日 水曜日
父の誕生日です。今まではお酒のプレゼントしてましたが、禁酒してます。お祝いする元気もなく、何もしませんでした。皆様に大変ご心配かけましたが、精神的に参ってますが、身体は元気になりました。


2002年10月7日 月曜日
徳島の温史君の加害者の公判請求を10月4日付けで、徳島地検は、加害者を「嫌疑不十分」で「不起訴」にしました。8日、テレビ朝日「ニュースステーション」で、放映される「予定」です。
悠も去年の5月少年審判の行われる前に、悠の命を奪った加害者の厳罰を求め、1万人以上集めた署名用紙を大津家裁に持っていきましたが、書記官は10万人集めても、束が厚いと思うだけと言いました。無抵抗で逃げ出すこともできない悠を笑いながら殺しても、1年3か月あまりで少年院から出て、死にたくなかった悠は、どうすればいいのでしょうか。


2002年10月6日 日曜日
悠の月命日です。悠が殺されて、1年半経ちました。加害者は少年院から出てるらしいです。(被害者に連絡はありません)悠が戻ってこない現実は厳しいです。寂しさや苦しみは増すばかりです。
去年はWILLに参加し、被害者のメッセージを言わせて戴きました。今日は、生命のメッセージ展のハート作りに参加しました。(ニュースステーションで6月末の取材以来です)
ハート作りながら、たくさん話してたくさん元気もらって帰ってきました。


2002年10月1日 火曜日
去年、8月に民事訴訟を提訴して、これから、裁判を闘うために、体力が必要とスイミング始めて1年経ちました。悠とリハビリ兼ねて、最初一緒に行ってたので、プール見ただけで、涙が溢れたり、男の子を見ただけで、胸に迫るものがありました。今も、サウナ室で世間話しなどされている時は、聞くのは辛く、すぐ出てきますが、ほとんど休まず続けています。おかげで、肩こりや膝の痛みなど解消して、身体は健康です。


2002年9月30日 月曜日
朝、メールの返信や、HPの日記を書いていましたが、この静けさは堪らなくなり、慌てて、職安に電話して、受付時間を聞きました。自転車で飛ばして、職安に行き、失業保険の手続きをしました。


2002年9月29日 日曜日
28・29日は東京の八重洲口の犯罪被害者支援キャンペーンに悠も参加させていただき、私も2日間いました。29日に遺族の言葉を話させていただきました。いつも泣かないようにしている私も最後は泣いて原稿が読めませんでした。初めての参加で緊張しましたが、被害者支援都民センターの方は親切な方ばかりでした。東京駅なので、もっと多くの方が集まられるのかなぁと思いましたが、意外と少なかったのが残念です。
たくさんの被害者の方にお会いして、元気をもらって帰ってきました。次は千葉の生命のメッセージ展(10月25〜27日)で再会するのを、約束して別れました。


2002年9月27日 金曜日
ぎりぎりまで仕事をしていたので、今日、ロッカーの鍵など返しに行きました。退社して会社に訪れるのが、こんなに厭なものか初めて経験しました。「いいところに来た」と、いろいろな方が挨拶してくれたり、質問したり、声をかけてくれますが、私は退社した人なんだと改めて認識し、すぐ帰りました。
28・29日は東京の八重洲口の犯罪被害者支援キャンペーンに参加します。ビラなど遅くまでコピーしていました。悠のむごい現実を思うと、堪らなくなりながらしていました。東京は長男が小学校6年、悠が4年生の時、武道館に剣道大会に参加した以来です。のぞみに乗るのは初めてです。


2002年9月25日 水曜日
まだ明細書来ていないので、いくら振り込まれたかも知らないうちに、銀行の方が家に見え、資産運用の話しをしていかれました。


2002年9月24日 火曜日
9月29日に第4回おうみ市民活動屋台村 ピアザ淡海 201号室 10時〜17時に於いて、スケットの会で、「犯罪被害と支援を考えるワークショップ」が参加されます。悠のビデオなど放映していただけるので、ぜひ訪れてください。
ビデオなどをピアザ淡海に持っていきました。加害者・見張り役の3人・現場のH小学校はその周辺です。私の卒業した小学校で、私の命より大切な息子が土曜日の昼間殺されたのに、その時の女校長先生は「お花を撤去しろ」と校長室まで、呼びつけて言われたことは忘れません。


2002年9月23日 月曜日
20日に片付けられなくて、また、出勤して整理してました。突然、退職することにしたので、いろいろなことが出来てなくて、大慌てです。


2002年9月22日 日曜日
和歌山に寄って、いつも励まして戴いてるMさんに会いました。最近、体調を崩されていて、とても心配だっだのです。被害者はいつまでも、息子を殺されて、守れなかったこと、幸せにできなかったこと責め続けます。その苦しさは言葉で言い表わせません。月日が解決するものでないとわかりました。命の重みを、もっともっと加害者や裁判官はわかってもらいたいです。


2002年9月21日 土曜日
高野山の奥の院にお参りにいきました。悠のお墓はありませんが、ひと区切りの積もりで、お参りしたかったのです。悠を助けることができなくて、後悔の毎日ですが、これからは悠ちゃんのパワーをもらって、悠の果たせなかった夢を少しでも叶えていきたいと思います。


2002年9月20日 金曜日
勤続33年の最後の日です。折角、大切にしてきた仕事を、あまりにも短期間のため、引継ぎが充分できず、悔いが残ります。22時過ぎまで、残って片付けてました。


2002年9月19日 木曜日
取引先の営業の方と飲みに行きました。営業の方の努力と思いますが、私のことを大変感謝していただいて、ありがたいです。退職したら、飲むの控えようと思っていますので、思いっきりビール飲みました。(2月に亡くなられたFさんと去年お好み焼き食べに行ったお店です)。元気を取り戻した私をどこかで喜んで居てくれると思います。


2002年9月18日 水曜日
取引先の社長さんが「お世話になった」と、ご馳走してくれました。お葬式の時も着て頂いてました。加害者がもう少年院から出てきてる罪の軽さに誰もが驚かされます。子供が安心して暮らせる世の中になって欲しいと思います。


2002年9月17日 火曜日
久しぶりにスイミング行って、アクアして、サウナに入っていたら、尾崎豊の「I Lobe You」がBGMで流れていました。涙をこらえることができなくて、水風呂に慌ててはいって泣いてました。


2002年9月15日 日曜日
宇佐八幡のお祭りです。太鼓の音が胸に響きます。悠が幼い頃、赤いふちのハッピを着て、町内をお神輿と一緒に歩いた可愛かった頃が思い出されます。


2002年9月13日 金曜日
退職を控えて、4年ぶりに人間ドック受診しました。悠が交通事故に遭ってからは、私の身体どころでなかったです。飲んで寝るという生活を1年以上してた結果、コレステロール値が高かったですが、特に異常はありませんでした。採血だけでも、悠の痛々しかった手を想い、泣いていました。睡眠不足と泣いてばかりいるせいか、視力はおちていました。


2002年9月12日 木曜日
課の送別会がありました。33人の大勢で食べ放題・飲み放題で、アルコールをチャンポンで飲みました。挨拶は泣かずにできました。石山であったので、京阪電車で帰りました。京阪電車は悠との思い出が多く、高校受験も付き添って行ったので、辛い乗り物です。電車の中で、サッカーの部活の帰りか子供達が楽しそうに騒いでいました。見てるのが辛くて、席を替わりましたが、悲しくなって、声をだして泣いていました。電車を降りて、またずっと大声をあげて泣いていました。いつも泣かないで自分を保っていますが、悠の居ない現実は辛いです。殺されても、被害者になっても、大切な家族を失った悲しみは同じなのに、いろいろな意味で差別される現実は厳しいです。


2002年9月10日 火曜日
今日の朝刊です。朝日新聞・京都新聞 産経新聞・読売新聞
わかりにくい記者会見で読者の方にわかりやすく記事にされるのは大変だなぁと思います。いろいろな方に心配していただいているので、「テレビ見てたけれど報道されていなかった」と電話いただきました。


2002年9月9日 月曜日
今日、第6回和解協議があり、朝まで悩んで、和解に応じることに決めました。
7月24日の第5回和解協議で主犯のHに判決求めました。8月にHの弁護士から賠償金の見直しがあり、和解に応じてくれて言ってきました。和解に応じるのが辛くて、辛くて悠の仏壇の前に座って、脳死にさせられた写真を見てどうしてこんな残忍な加害者に和解に応じなければいけないかと苦しみました。賠償金以外のことで、Hに和解案を提示しました。すぐに返事でることでなかったので、「検討する」で、次回は10月24日になりました。
記者会見があり、和解協議は非公開なので、説明も難しく、テレビの取材の方も長い時間待っていただきましたが、取材はありませんでした。せめて、1分でも、なぜ和解に応じたのか聞いてもらいたかったです。


2002年9月6日 金曜日
朝、目覚めた時、雨が激しく降っていました。悠の月命日です。悠が悔しい、悔しいと泣いてるようでした。Sは殺人しても、1年3ヶ月あまりで少年院から出てきてます。一生許すことができないのに、和解か判決かで悩み、私も泣き叫びたいです。日本の法律はおかしいです。
仏壇の前で悠の脳死状態にさせられ、頭が倍に腫れあがった痛々しい写真を見ながら、考えていました。
取引先の方が名古屋からわざわざ来て、送別会をしてくれました。私が去年より若返り、元気になって安心されました。せめて、悠がこれ以上悲しまないように、明るく振舞っています。


2002年9月2日 月曜日
友達に「テレビの映画見てたまま寝てしまったせいか、ドラマのように悠ちゃんの夢見た」と話したら、「ドラマだったら続きが見れるや」と悲しみを冗談にして話しをしてました。そんな会話をしてたせいか、また悠ちゃんの夢見ましたが、マーケットに行って、皆、子供連れで買い物しているのに、私は子供が殺されて一人になったと泣き叫んでいる夢でした。加害者が出てきて、毎日、耐えられない気持ちですが、朝から夜までは、必死で仕事に打ち込んでいます。疲れて寝てうなされてる状態です。


2002年9月1日 日曜日
久しぶりに1人で大阪に出かけました。電車の窓から、加害者は少年院から出て、この町のどこかで普通の生活をしていると思うと耐えられませんでした。デパートの地下でいか焼き買って悠に供え、疲れてテレビを点けたまま寝てしまいました。夢の中で幼い悠ちゃんと添い寝してて、何て可愛い顔をして寝てるんだと見とれている自分と、亡くなっていないのにと不思議な夢でした。


2002年8月29日 木曜日
今日は悠の誕生日です。18歳を迎えるはずでした。悠の祖父母はあまりに不憫と泣いていました。
残業する元気はなく、定時に帰宅し、たこ焼きを供えました。加害者は太陽の光を浴び、おいしい物も食べられ、歳も取っていくのに、悠は16歳のままです。
もちろん、加害者側からは、お盆にもお線香1本のお供えはありません。何もいらないから命を差し出して、謝罪してもらいたいです。


2002年8月27日 火曜日
共犯の17才のSは少年院からもう退院してて、残忍な15才のHももうすぐ少年院から出るらしいです。
悠はあんなに毎日マッサージした手足がお骨になり、小さな骨壺になったというのに・・・・
殺人しても1年4ヶ月足らずで少年院から出てくるのです。あれだけリハビリ頑張っていた障害者の悠を、笑いながらなぶり殺しにした加害者を法律も裁判所も加害者の弁護士も保護者も守るのです。
再犯しても村地裁判官は責任負わなくていいのです。


2002年8月26日 月曜日
今日から新しい方に仕事の引継ぎ始めました。
退職してから9月28日・29日のJR東京駅・八重洲口で開催される犯罪被害者支援キャンペーンに悠と共に私も参加します。お近くの方は訪れてください。


2002年8月24日 土曜日
スイミング行く以外は毎日残業してて、疲れて寝ていました。歯医者に行くつもりでしたが、昼から取材があり、あわてて掃除していました。
救いようのない被害者の状況を一人でも多くの方にしってもらいたいです。加害者ばかり守る少年法や、民事訴訟しても、命の代償をお金で償うといっても、賠償金を加害者が払う保証はなく、それを裁判所が責任も保証しないということをわかってもらいたいです。私も、息子が殺されるまでわかりませんでした。
今日のニュースで、「生命のメッセージ展」のことが放映され、森山法務大臣が訪れていました。
8/23(金)〜8/25(日) 生命のメッセージ展IN宇都宮 とちぎ福祉プラザで開催されています。お近くの方は是非訪れてください。


2002年8月23日 金曜日
HPの日記に退職することを書いたので、たくさんの方に心配かけました。
悠が交通事故に遭った時、思い切って退職していたら、こんな不幸な結果にならなかったと、ずっと後悔と自分を責めていました。悠が亡くなってから辞めるのはとても辛いことですが、今まで辞められずにいたのを、後押ししてもらったと思い、いい方向に持っていきたいです
悠が果たせなかった将来の夢を少しでも、母親として叶えたいとおもいます。

2002年8月21日 水曜日
歯が痛くても、病院に行くのが辛くて我慢してきました。でも、我慢の限界で健康保険のある間に治療受けようと思いますが、引継ぎも出来ていないのに休むなでした。でも、まだ引き継ぐ人は決まっていません。あとのことは心配するなで辞めるの勧められたのに、辞めるとなると、休んではいけないそうです。


2002年8月19日 月曜日
悠が亡くなって、忌引き休暇後出勤しました。裁判や手続きなどで休んだことはありますが、どんな辛い時も、睡眠不足も休まず出勤しました。取材なども土・日の休日や夜にしてもらっていました。
辞めると決めたので、大事にしてきた有給休暇を使おうと申請したら、即、却下でした。


2002年8月18日 日曜日
3年前の1999年8月18日に悠は交通事故に遭い、奇跡的に助かりました。20才の加害者の女の人の顔も知りません。謝罪もありません。加害者の父親は滋賀県警勤務の人でした。ICUで意識の無い時は一生かけて責任持つと言われましたが、意識が戻ったら、保険会社に任せたと、その後、年賀状がきただけです。私は悠が事故に遭い、左半身不随になってから、年賀状も出せなくなりました。人に「おめでとう」とか新年を祝う気持ちにならなくなりました。ただ、ひたすら悠が元の身体になることを願い必死でした。悠の大津市民病院入院中は、自転車で毎日通いました。交通事故の加害者は4人家族で4台車を持っているとのこと。あれほど、ひどい交通事故を起こして、ショックでもう車は運転しなくなったと私は思っていました。
生命のメッセージ展の84人のメッセージ集(価格1,000円)が届きました。悠も悲惨ですが、交通事故も殺人です。どうして加害者ばかり守られるのだろう。被害者は毎日生きてるのも苦しいのに。


2002年8月16日 金曜日
いつもこわい夢を見ます。普段は悠がいつも私に笑顔で話し掛けていた顔を思い浮かべています。でも、寝付かれない時は、加害者の言葉で、殺されていった様子が書かれていた残酷な調書の悠を思い、苦しみます。いつも気が狂わないように、どこか神経を殺しています。「悠ちゃん、お母さんにどうしてほしいですか?」


2002年8月15日 木曜日
毎日、悠ちゃんに夢にでも現われてと思いながら、寝苦しい夜を過ごします。あまり、悠の部屋に入るのは辛くて、取材時以外は毎日、窓を開けるぐらいでしたが、今日はあまりにほこりだらけのカーテンを洗い、窓ガラスを磨いたり、拭き掃除してました。ロフトは悠がきれいにお布団引いていたので、見るの辛かったです。掃除は悠が亡くなって以来です。悠は綺麗好きな子だったので、いつも悠ちゃんに怒られそうでしたが、今日は、「お母さん、ありがとう」と夢に出てきて欲しいです。


2002年8月14日 水曜日
悠は長い間、痛かったと思いますが、尿は管をしていました。両手は毎日の点滴で手が倍ほど腫れていたこともあり、痛々しい限りでした。右目は見えにくく、前歯もかけていました。車椅子になり、土・日は私がお手洗いに連れていき、便器への移し方がわからなくてぎっくり腰になったこともありました。改めて看護婦さんのご苦労を思いました。外泊が許されるようになって、自宅でのお風呂は私が入れていました。でも、亡くなる前は恥ずかしがって、私が洗ってあげようと言っても嫌がりました。右手では届かない背中などあったと思います。
でも、かゆい、痛いと言っても辛いとは言いませんでした。そんな、入院中やリハビリの悠のことを思うと、私は泣けません。悠の張り裂けそうな悲しみ、怒りを思うと加害者・加害者の保護者・見殺しにした人・殺人罪にできなかった大津警察署・加害者を保護観察処分にした大津家庭裁判所・加害者を擁護した加害者の弁護士を一生許すことはできません。加害者・見張り役の3人は悠が受けた暴力・恐怖・痛みを味わってもらいたいと思います。


2002年8月13日 火曜日
何年振りかで釜など洗い物してました。悠が居たら手伝っていたであろう、悠の祖父母を楽させたいと言ってたことを、少しづつやっていこうと思います。


2002年8月12日 月曜日
久しぶりに長い時間、実家の家業を手伝っていました。今までは、「和代は疲れてるから」と両親は遠慮していましたが、母は足を痛がっているので、代わりにしていました。


2002年8月11日 日曜日
昼寝していたら電話が鳴り取ってみると、悠の大学受験の塾の勧誘だった。「青木悠に伝えてください」と、言われても殺されて居ません。眠気も覚め落ち込んでいました。
2、3日前も勧誘の電話ありましたが、勧誘してきた電話の方が、「とても申し訳ないことをした」と、こちらが恐縮する位、深く謝っておられた。これから、家に居ることが多くなると、また違う傷つくことがあるのだろう。


2002年8月10日 土曜日
<NO.142の方への返事です。>
恨んだり、自棄にもなるでしょう。でも、命があり、足もあり、目も口もあります。
悠は15才の誕生日の10日前に交通事故に遭い、奇跡的に助かりました。7ヶ月余り、3つの病院に入院しました。リハビリ1年余りで一生動かないと言われた左手も動き、歩けるようになって殺されました。悠のなげき、悲しみ、怒りを思うと気が狂いそうです。悠は負けず嫌いで、弱音ははきませんでした。あまりにも頑張って殺されました。悠は突然身体が不自由になっても、愚痴も言いませんでした。私が愚痴るのも嫌がりました。今になればそんなに頑張らなくてもと思います。でも、あまりにも悠が不憫すぎて責められません。
毎日、どんなに悠ちゃんと話したい、生きて帰ってきてほしいと願います。どんな身体になってても生きてほしいと思います。返ってこない命は大きいです。

疲れた時はゆっくりして、また英気を養って、頑張ってください。治る可能性もあり、未来も将来もあります。自分の努力で勝ち取ってください。

悠はたくさんの夢を持っていました。お母さんを幸せにしたいと思っていました。
どんな思いで殺されていったでしょう。身体の不自由な無抵抗な子を5人で取り囲んで殺したのです。法律も警察も加害者を守ったのです。法律で裁いてくれないのなら、被害者に復讐の権利を与えて欲しいです。あまりに毎日、毎日自分の気持ちを押さえて、今に気が狂うのではと思います。悠のいない人生って考えられません。どんなに嘆いても悠は返ってきません。悠のためにも、前向きに生き、悠の命を生かしたいと思います。

 命あるのに感謝です。のんびり温泉にでもつかって、また英気を養って頑張ってください。

追伸
(悠が左半身不随になった時は、毎日泣いてました。でも左手があったことは感謝しました。)


2002年8月9日 金曜日
6ヶ月の定期券を解約しました。空っぽになった定期入れが寂しそうでした。何があってもこの1年は乗り越えようといつも定期購入しながら、ここまできました。


2002年8月8日 木曜日
今日は琵琶湖花火大会です。「生命のメッセージ展」で知りあった、交通事故で一瞬に息子さんを亡くされたお母さんが、遊びに来られました。悠が亡くなって1年4ヶ月ぶりに掃除してました。悠が集めてたコミック本など片付けられなくてほこりにまみれています。
いつも寂しい食事をしているので、焼肉にしました。家のベランダから見える、1万発の花火を楽しみました。去年は泣きながら少し見てました。


2002年8月7日 水曜日
昨日は月命日で、去年、民事訴訟提訴した日でもありました。悠が亡くなった時、会社の取締役の方からとても心配していただきました。その時、お礼の手紙と一緒に、93年5月、会社の保養所の玄関で偶然、社長と一緒になり、悠達と写真を取らせて戴きましたものを隅にでも飾ってほしいと厚かましくお願いしました。快く役員室に飾っていただきました。とても心配していただいていたので、退職することを8月5日に伝えました。昨日、月命日であったので、取締役から立派なお花と悠の写真を役員室に飾り、「いつもご冥福を祈っております」とメッセージいただきました。次期社長と噂される方からねぎらいの言葉と励ましとお花いただきました。とても胸に響くものでした。

今日、読売テレビで報道被害の放映ありました。飯島さんの言葉で「大切な息子を奪われた被害者はどんな権利を与えられるのか!」 加害者ばかり守られて私も問いたいです。
悠の時も大津警察署が発表した、加害者側の言い分だけ聞いた報道が新聞に載りました。
あれだけリハビリ頑張っていて、前向きに生きたため殺されたとはどこにも載っていません。身内が各新聞社に抗議の電話したため、去年の4月頃は各新聞社の方に毎日2時間ぐらい同じことを何回も説明していました。報道の方に少しでも悠のこと判ってもらいたいので、泣きながらこのHPの「悠の生きた16年」をワープロして渡していました。でも、一生懸命説明すればわかっていただけるし、今は裁判の時は取材して、新聞にも掲載していただいています。悠の事件が風化されないように願っていますので、取材していただけるのは感謝です。言い続けていくことは辛いことですが、いつまでも報道してもらいたいです。


2002年8月6日 火曜日
悠も宗教の勧誘はよくありました。交通事故でICUに入ってた時、近所の方が「お参りさせて」と来られました。私はどうしていいかわからず、婦長さんに相談してお断りしました。その後、いろいろ勧誘などもありましたが、断っていました。悠が脳死状態になった3ヶ月前頃、12月24日に長男の友人のお母さんが「家に遊びにおいで」と車で迎えに来られました。(丘の上で歩いては遠い所)いろいろな話をした後、宗教の勧誘でした。入信しないと帰れない状態と、身体が不自由になり、仏様にお参りすることにより、少しでも、治ればと思い入信しました。その後、3ヶ月、休日、夜、朝、毎日お参りしました。節分の頃は寒行といって、朝6時から7時まで、暗いうちから雪の中一週間お参りに行き「悠ちゃんは仏様に守られているから、1年無事過ぎる」と何度も導き親の方から言われました。早朝奉仕もあり、AM4時から起きて、1度だけですが参加しました。週1回リハビリで会社休み、土・日の1日は1日かけて大阪にお参りに行き、毎日、必死で信仰してました。会うたびに「守られている、守られている」と何度も言い続けられていました。「守られている」と言われ殺されました。いつも悠のこと心配してた私に油断ができたようで、入信したことも責めます。土曜日のお昼で、小学校で殺されるとは夢にも思いませんでした。
悠はとても優しい子で外出がちの私に何も言わなかったけれど、寂しい思いばかりかけて亡くなって申し訳ないと、今も、毎日責めます。やっと、元気になり、昼間の高校合格し、夜はスイミング行って、これから、夕食も一緒にできるとホッとした時、殺されたのです。
亡くなった後も、たくさん署名集めていただいた方から、宗教の勧誘もありましたが、お断りしていました。近所の友達が強く生きてきた私が入信したことで、「よほど介護で疲れていたんだねぇ」と言いました。


2002年8月5日 月曜日
今朝、町内の役の方が、地蔵盆の当番に来て欲しいと家に来られました。「無理なので、みんなに迷惑かけますが、ご辞退させてください」と頼みました。家の裏が集会所で、今、夏休みでラジオ体操の音楽聞くのも辛いし、子供の集まる所に出かけるのも辛すぎます。取材は被害者の救いのない状況を一人でも多くの方に知ってもらいたいので応じられます。
悠はボバース記念病院入院した時は、あまり歩けない状態でした。今林先生はじめ皆様のおかげで歩けるようになりました。ニュースステーションの特集の表紙は一生動かないと言われた左手でピースしてます。血のにじむような努力の結果歩けるようになり、普通に見られるようになっていました。明日を信じてさん、努力すればきっと報われます。


2002年8月2日 金曜日
退職することは、伏せておこうと思ったのですが、最初、7月2日に上司から呼ばれて「今、退職したら何千万退職金がもらえますが、魅力ありませんか?」と言われ、その時、私の気持ちを正直に「悠がお母さんは会社で頑張って」と言っていたので、「辞められません。これからも実験センタで設計者のサポートしていきます」と返事しました。
7月1日に裁判所からの和解案を受け取ったところでした。私が退職したら即もらえる退職金よりはるかに低い金額でした。和解案は非公開なのですが、10万円ぐらいの金額を10年間ぐらい払い続けるというものでした。それも裁判所が保証してくれるものでありません。7月5日の和解協議のあとで、新聞記者さん達の記者会見で、和解案は非公開で何も答えられないのは集まっていただいた記者さん達に気の毒で、私の退職金の話と比較して、あまりに低い和解案の説明をしました。退職するかどうか、テレビ局のスタッフの方もとても心配してくださり、いろいろ励ましていただきました。勤めながら取材に応じたり、被害者の活動するほうがいいとわかっていたので辞めたくなかったのです。でも、50歳代の人が辞めていく状態で、私だけ残るのは厭だったのです。借金もないし、大学行きたいと言ってた悠も殺されて、もうこれ以上無理するのやめようと思いました。管理職ばかり残って、どうして、今まで真面目に働いてきたものばかり辞めさせられるのかと思いますが・・・・
どんなに辛くても、取材に応じるのは、被害者の救いのない現実を知ってもらいたいからです。今、退職して家に居たら、息子の命で賠償金もらって、ゆっくりしているんだろうと思われるので、何があっても、今は辞めたくなかったのです。しかし、辞めると決めた以上、時間を有効に使って、見張り役の3人も訴えたいので、証拠集めしたり、職安通いながら、また、簿記など勉強して1からやり直そうと思います。曲がりなりにも、悲しいですが、悠のHP立ち上げ、私でもやれば出来るんだと自信もついたし、悠の自伝も書きたいし、今までできなかったことをやろうと思います。


2002年8月1日 木曜日
朝、早速、職場の上司から9月30日に実施する計測器の棚卸しを、「9月2日にしなさい」と言われました。退職日は9月20日付けです。会社からあとの仕事は心配しなくていいから辞めろなのに・・・・
「今、たまっている仕事はきれいに片づけます」とは言いました。悠が元気な頃は、「青木さんほど忙しい人は居ない」と言われていました。去年、書類ファイルしてても、この時は悠が元気だったと涙浮かべながら処理していましたが、今日は、バサァバサァと処分してました。


2002年7月31日 水曜日
今日、退職届を提出しました。
7月になって、新しく転属されてきた、私がどんな仕事をしているかわからない上司から、私が50歳代ということで「辞めませんか」と勧められました。
実験センタの計測器約3500点・部品約1万点を管理し、年間で何億の設備発注をし管理して、とても責任もあります。仕事の種類も多く大変ですが、設計者やメーカーさんから頼りにされ、会社にいてもあれだけ「青木さん、青木さん」と声をかけられるのはとても有り難く、やりがいあったのです。(4月から残業代は付きませんが、それ以上のコストダウンも努力していたのです。)
皆様の暖かい思いやりで、この辛い1年を乗り越えられました。(会社は冷たかったですが、でもその冷たさで乗り越えられました。)
実験センタがあるかぎり、設計者の縁の下の力もちになろうと思っていたのですが、33年間勤務も上司の「辞めませんか」の言葉で、仕事に対する意欲はなくなります。
私のエネルギー源だった、「大学行きたい」と言ってた悠もむごい殺され方して、何も残らないです。欲しいものは悠の命だけです。


2002年7月30日 火曜日
今日、1日辞めるかどうするか考えていました。7月になっても、頑張って勤めるつもりで、定期券も半年買ったところです。ぼけてて、スイミング休みなのに、家で水着に着替えて、プ-ルに行き、休みに気が付きました。


2002年7月28日 日曜日
「ご意見”の中で、51番から67番までのもの(あるいは、それら以外にも、あるかもしれません)が、タイトルとその内容が一致しておりません。どうぞ御確認下さい。」とのご指摘を受けて、1日かかって修正していました。まだ、日記欄で新聞記事などとあってないものがありますが、至急修正しますので、申し訳ありません。(7月18日に太字は読みずらいと指摘を受けて、修正した時転送で変になってしまったみたいです。)


2002年7月27日 土曜日
悠も交通事故で半身不随になり、普通に見られるよう血のにじむような努力をしていました。
入院中まだあまり歩けなくても、外泊で家に帰る時、車椅子や杖が厭で、一歩づつ私の肩を借りて歩いていました。大阪駅などで人の視線を気にしていました。退院しても夜中歩く練習していました。大津市民病院・大阪ボバース記念病院の先生・看護婦さんの懸命の介護・リハビリで歩けるようになりました。あまりにも前向きに生きたため殺された悠が不憫で不憫で堪りません。


2002年7月25日 木曜日
和解案見直しの新聞記事が掲載されましたので、紹介します。
産経新聞朝日新聞・京都新聞・読売新聞
交通事故から奇跡的に助かって、死に物狂いでリハビリ頑張り、一生懸命勉強して、受験し直した高校の入学式をお葬式にさせられた、悠の無念の思い、母親の悲痛の叫びをもっと裁判官・加害者の保護者は和解案に命の重み・誠意を示してほしいと思います。
悠の命を奪った加害者は一生かけて罪を償ってほしいです。加害者に命があるのだから。


2002年7月24日 水曜日
第5回和解協議がありました。自分の気持ちを伝えました。また、話し合いで9月に和解協議があります。とても疲れましたが、また、明日から仕事に集中して頑張って行きたいと思います。
たくさんの方に心配いただき、皆様の励まし、優しい心づかいありがとうございます。


2002年7月22日 月曜日
皆様の暖かい励ましに感謝しています。とても優しかった悠が私に頑張れと励ましているように思いますが、前向きに生きたため殺された悠が不憫すぎます。寝たきりだったら殺されずに済んだのにとか私自身責めます。泣き言や愚痴が嫌いだった悠のために生きようと思いますが、大声を上げて泣き叫びたくなります。加害者の前で「悠ちゃん返して」と泣き叫びたいです。


2002年7月21日 日曜日
久しぶりに洗濯物干してました。身体が重くて、掃除できてません。
川崎の「生命のメッセージ展」行きたかったですが、ニュースステーションで取材してくださり、テレビで会えました。
土・日と家に閉じこもっていました。


2002年7月20日 土曜日
昨日は朝までHPしてました。見にくいというご意見もあり、書式の修正してました。
HPで見て「おうみ犯罪被害者支援フォーラム」(被害者に案内もきませんが)が午後から大津で開催されたので、参加したかったのですが、寝てました。
たくさんのメールありがとうございます。
スーパーニュース・ニュースステーションの製作スタッフの方々には、心から感謝とお礼を申し上げます。たくさんの時間・労力かけていただきありがとうございます。


2002年7月19日 金曜日
去年、ニュースステーションで放映され、たくさんの署名・お手紙いただき感謝しています。
とても母親想いの優しかった悠が作ってくれた出会いが、私の生きる支えになっています。
スーパーニュースのビデオ送っていただき、見ていました。むごい写真もあり胸が押しつぶされそうです。ニュースステーションは、悠の幼いビデオもあり見ながら泣いていました。裁判中で毎日緊張し、泣くこともできない日々です。テレビ放映していただいて心から感謝しています。


2002年7月18日 木曜日
定時に帰宅し、明日、ニュースステーションで特集していただける案内をメール・FAX・電話してました。


2002年7月17日 水曜日
明日、ニュースステーションで特集される予定なので、ビラに書き足して、膳所のマンションや朝日ヶ丘・竜が丘にビラ配ってました。昨日は2、3時間しか眠っていないので疲れました。


2002年7月16日 火曜日
昨日も今日も帰宅時間が遅く、あげくにウィルスに感染してしまいました。大変ご迷惑かけ申し訳ありません。(全部削除しました。)明日、安藤優子さんのフジテレビ FNNスーパーニュースで「青木悠の特集」される予定です。(ご意見欄NO.102)テレビ放映は関東地方です。放送日が決まったらご連絡くださいとおしゃっていただいてたのですが、発信を制限されていますので、申し訳ありません。


2002年7月15日 月曜日
大変申し訳ありませんが、ウィルスに感染して私のメールから発信されているようですが、絶対に開けないでください。
現在凄まじい勢いでウィルスメールが飛び交っています。
Re:YourePassword!
という件名のメールは、発信者が知り合いであっても開かないでください。
添付ファイルがついています。
大変ご迷惑かけて申し訳ありません。


2002年7月14日 日曜日
土・日とほとんど1日家に居ました。何もする元気がなくだらだらとしていました。悠は几帳面でしたので、だらしのないお母さんを怒るでしょう。あんなに辛いリハビリを一言も弱音を吐かず頑張っていたのに、努力の結果、待ち受けてたものが命を奪われるなんて、泣くにも泣けない心境です。帰ってこない命は大きいです。


2002年7月12日 金曜日
今,退職すると、いい条件で退職金もらえます。民事訴訟してますが、その和解案よりはるかに多いです。辞めて家の商売手伝おうかなぁと思いますが、ほとんど夜中眠られず出勤してます。一週間があっという間に過ぎます。疲れていても、仕事している時は緊張して、頭使って、気使っています。悲しくても愛想笑いしています。家に居ても、急に掃除する訳もなく、だらだらしそうです。職場の親睦行事が18時30分からあり、1時間ほど待ってる時間があって、草津のマンションにビラ配っていました。見ていた見張り役の3人の情報も集めています。


2002年7月10日 水曜日
一週間経って、上司からまた「希望退職されませんね」と確認されました。「辞めたくても、今、退職したら立ち直れなくなります」と答えました。悠の居ない家に居るのは辛すぎます。また、辞めて家に居たら、賠償金たくさんもらったんだろうと思われるし、また職場でも、民事訴訟起したらもらえると思っています。帰り道電車の中で昔を想っていました。18年前悠を出産して、4週間の産休後に仕事して、母乳を飲ませたくてもできず、あまりに胸が張って、その痛さで会社のお手洗いで母乳を捨ててたら、離席が長いと、上司に告げ口する人がいました。「これから断って、お手洗いに行きなさい」と注意され、そのショックで母乳も出なくなりました。育児休暇もない時です。家に居て、母乳でどんなに悠ちゃんを育てたかったか、あの時の辛さは忘れません。疲れて家に帰って、うたた寝していたら電話が鳴り、悠の大学受験のゼミの勧誘の電話でした。悠はどんなに大学行きたかっただろうと思います。悠が毎日生きてたらと思うばかりです。


2002年7月9日 火曜日
昨日12時前に寝ましたが、寝苦しくてすぐ起きてしまいました。眠られずテレビ付けてました。罪のない人が絞首刑にされていました。悠は何の罪もないのにむごい殺され方しました。殺人したら絞首刑になるとわかっていたら、少年も簡単に人の命を奪わないでしょう。
悠は滋賀県警に勤めている父親Kの娘さんの車に当てられ半身不随になりました。父親は謝罪しましたが、20才の加害者の謝罪はありませんでした。今日、Kの近所の人から手紙がきて、両親、娘2人それぞれ1台づつ車を所有し(外車も1台)計4台もあるとのことです。ICUの待合室にKは1万円の商品券を置いて行ったきりです。私は謝罪がなかったので、加害者に母親はいないのかと思っていました。滋賀県警の父親は悠から当たってきたように自分らを被害者のように周囲で装っているとのことです。加害者は一旦停止する所をせず、あげくにブレーキをアクセルと間違えて加速し、1回跳ね飛ばされ、車が橋に激突して、も1度車の下敷きになったのです。本当に神様が奇跡的に助けてくれたのです。私はペーパードライバで、雨の中も自転車で走り回っています。


2002年7月8日 月曜日
あまりに暑かったので、残業の帰り、アイスクリーム買って悠に供えました。残業した時、ささやかなお土産買って帰ると、何でも喜んで「あいがとう」と言った悠の笑顔は見られません。先週は不規則な生活をしていたので、悠に怒られそうです。
和解協議の言葉だけでも、鳥肌立つほど不快な気分でしたが、加害者・加害者の保護者から謝罪を受けるため和解に応じました。佐賀裁判官は加害者がいつ少年院から出てくるかわからないので、賠償金の話し合いと言われましたが、話し合いはなく、和解案を示されただけです。


2002年7月7日 日曜日
今日は七夕です。夢の中でも悠に出会いたいです。
7月になって、勤めている会社で希望退職募られています。1人づつ面接で確認され、私も上司から「青木さん今辞めたら退職金何千万円もらえますが魅力ありませんか」と聞かれました。
私は悠が「お母さん会社で頑張って」と言ってたので、「辞められません」と答えました。今すぐ辞めたら何千万入ってきて、大事な大事な悠の命を奪っても、賠償金はその退職金よりはるか低い金額でした。
悠の将来の夢に向かって、仕事を優先して必死に働いて、悠にとても寂しい思いをかけていたのに、悠が亡くなってから辞めるのはあまりに辛いことです。悠が交通事故に遭った時、辞めるか休職してもっと付添いすれば良かったと後悔したり、あまりに前向きに生き、親子でリハビリ頑張って、歩けるように元気になったから殺されたと思うと、もっと寝たきりのほうが長生きしたんだと思うと、辛くて悠に申し訳ないと思います。あまりに考えると気がおかしくなりそうですが、生きることに必死だった、悠の命をむごいバックドロップやパイルドライバーかけた加害者を一生許すことはできません。見張り役の3人も絶対許せません。加害者達も同じ暴力の恐怖を味わってもらいたいです。


2002年7月6日 土曜日
悠の月命日です。悠が亡くなって、1年3ヶ月経ちました。毎日、「悠ちゃん帰って来て」と願うばかりです。何もする気が起こらず、お昼、焼きそば作って供えました。悠の笑顔は2度と見れません。昨日、和解案が出され、朝刊に載りました。朝日新聞・京都新聞 産経新聞・毎日新聞 中日新聞・読売新聞 和解金額は加害者の保護者が支払える金額です。一生かけて償う金額でありません。加害者に一生かけて支払ってもらって、悠を殺した罪を償ってもらいたいです。
和解協議といっても、被害者と話し合う訳でなく、和解案が出されただけです。何度も何度も裏切られます。神経がズタズタになっても、悠の苦しみに比べたら、弱音は吐けないと思います。
悠が小学校の春休み遊びに行った、奄美大島の友達から心配して、お電話いただきました。
偶然、月命日でとても母親想いで優しかった悠が「元気を出して」と言ってるようでした。昨年の春休み、奄美大島に旅行していたらと思ったこともありましたが、4月2日に登校日があり行けませんでした。悠は4月2日をシニで縁起が悪いと言ってました。


2002年7月5日 金曜日
第4回の和解協議がありました。佐賀裁判官は和解案だされました。非公開です。(和解案の金額が低くて、私だったら恥ずかしくて出せないです)「命の保障ではない」と言われましたが、和解案はあまりにも低い金額でした。加害者・加害者の保護者が一生かかって支払う金額でもなく、大津家裁も大津地裁も加害者を擁護しました。和解協議は話し合いと思いましたが、初めて、裁判官から低い賠償額を提示され、次回に返事するという形です。不服なら判決にするということです。1円もいらないから悠を元の元気な姿で返してほしいです。


2002年7月4日 木曜日
明日は11時から和解協議があります。テレビの取材も朝からあります。取材に応じることにより、加害者を守る少年法が廃止され、年令に関係なく、人の命を奪ったのなら、命で償ってもらいたいです。どんなに嘆いても悠は戻ってきません。悠の命はお金で買えません。もっと、加害者・加害者の保護者は命の重みを感じてもらいたいです。裁判官も自分の大切な家族が理不尽な理由で殺されても加害者を守るのかと言いたいです。


2002年7月3日 水曜日
昨日は落ち込むことがあり、ビール飲んだあと、梅酒を飲んで、HPの日記のデータ転送の画面のまま、パソコンの前で朝まで寝ていました。テレビも電気も点けたままでうなされていました。去年の5月、Hが中等少年院行きと決まる前夜も夜中うなされ、脂汗かいて腹痛に苦しんでいました。裁判の結果があまりにも被害者を侮辱している時、予感を感じます。悠が知らせているようです。7月5日に和解協議があります。悠をむごい殺しをしたS・Hに和解に応じることで謝罪を求めています。どうして裁判官は弱い被害者を守ってくれないのだろう。被害者になって、身体にしみてよくわかりました。命を奪った加害者にどうして味方するのだろう。反省のない加害者は命で償ってほしいです。加害者に自分の命を盗られたらどうするのか聞きたいです。加害者の親は頭下げましたが、自分の息子が殺されたらどうするのか聞きたかったです。


2002年7月2日 火曜日
スイミング行って、帰ってから飲み続けてます。加害者に命で償ってもらいたいと思ってもそれは出来ません。民事訴訟しても、加害者は罪状を認めたので、法廷に出て来ませんでした。
何のために民事訴訟したのかと思いました。せめて佐賀裁判官に大きな裁量を求めます。今までの判例でなく、誠意のある結果を望みます。


2002年7月1日 月曜日
残業して21時にテレビ見れるように帰りました。被害者は大切な家族・息子を守れず気が狂いそうです。被害者は法律で裁いてもらえると思っていました。しかし、裁判所は加害者を守ります。
信じられないです。被害に遭って、むごい現実を知ります。悠は2月に定時制に退学届だして、昼間の高校合格しました。3月31日に脳死されました。悠は几帳面な子で昼間の高校の手続き記入してて、私に保護者の欄記入して捺印するだけにしていました。しかし、春休みの出来事で、学校から保険金など一切でず0円です。悠を大事に育ててくれた祖母が悠が10年後結婚する時のために貯金してくれてました。悠が亡くなって、そのお金でお葬式費用・着手金など弁護士費用・民事訴訟した時の印紙代40万ぐらい使いました。現実は厳しいです。悠は愚痴が嫌いでした。
母親として、悠を幸せにできなかった罪の意識から、毎日、泣きながらHPの日記記入してます。


2002年6月30日 日曜日
金沢大学の村井先生から送られた6月21日の授業のビデオ、感想文見ていました。学生さん達が真剣に聞いていただき、悠の命が学生さん達の優しい心に生き続ければ悠の命が生かされるでしょう。雨の日は悠が泣いてるようで、気が重いですが、いろいろな方から励ましていただき、落ち込んでいられないと思います。
7月1日(月) 日本テレビ(読売テレビ) 夜9時からの「スーパーテレビ」で、少年犯罪で殺された友樹君の事件が取り上げられます。ぜひご覧になってください。http://www3.ocn.ne.jp/~my-angel/飯島さんはNPO法人を立ち上げられました。


2002年6月29日 土曜日
「生命のメッセージ展」のハート作りの集まりが阿倍野でありました。ニュースステーションの取材もあり、一緒に西大津駅から出かけました。去年は悠とリハビリに通っていたので、大阪は辛い場所ですが、交通事故・少年犯罪で大切な息子を一瞬で亡くした被害者が集まって、辛い胸の内を語りながら、一針づつハートを作っていくのは慰めになります。
和歌山の丸谷さんは(http://www4.ocn.ne.jp/~marutani/)疑問と再捜査要望書をH.12年6月29日に和歌山県警察本部に提出されています。警察から何の回答もありませんが、偶然同じ日になり、息子達の悲痛の叫びが聞こえてきます。「生命のメッセージ展」大阪代表の米村さんの泰彦君の誕生日は6月30日です。26歳の誕生日を迎えるはずでした。
被害に遭ってからからでは遅すぎます。裁判所・警察・弁護士・学校関係者などはもっと深く考えてもらいたいです。どうして加害者ばかり守るのでしょう。取材に応じることにより、被害者の名誉が回復され、、加害者を守る法律が見直されることを望みます。眼を覚ましてもらいたいです。
村井先生から「青木さんとの出会いは悠が導いてくれた」と言っていただきました。悠の最後の言葉は「死に物狂いで大学目指す」だったので、学生さん達から暖かい励ましいただき感謝です。
「生命のメッセージ展」代表の鈴木恭子さんのビデオ見ていました。署名運動されてる姿を見て、きっと、一人息子の零君は、「お母さん頑張ってる」と声援を送られたと思います。とても悲しいことですが、自分の命より大切な息子を亡くして、戦うことにより息子の命を生かすことに、母親は全エネルギーを注いでいます。


2002年6月28日 金曜日
朝、早く起きて洗濯物干していました。朝もやにけむった比叡の山々がきれいでした。以前は何を見ても悠は2度と見れないんだと思うと辛くて苦しかったですが、あまり思い込まないようにしています。ニュースステーションの取材があり、わざわざ東京から悠のため来ていただきました。
金沢大学の村井先生から学生さんの感想文が送られてきました。村井先生、学生さんの暖かい気持ちは胸が打たれます。


2002年6月27日 木曜日
会社の組織の解散会が、京都駅のホテルグランヴィア京都でありました。去年は悠が亡くなって、会社の行事や会議など参加できませんでしたが、1年経って、少しづつ参加できるようになりました。駅や人の多いところにいるのは辛いことですが、乗り越えようと思います。悠が元気な頃はいつも「早く帰らないと」と思っていました.悠はお骨になってしまいましたが、早く帰りたいと思います。言っても無駄ですが、毎日「悠ちゃん帰って来て」と願います。
「明日、ニュースステーション取材伺います」と連絡ありました。部屋も片付けないといけませんが、ビールもたくさん飲んだので、今日は早く寝て、明日の朝、掃除します。


2002年6月26日 水曜日
6月22日掲載の北陸中日新聞朝日新聞送っていただきました。テレビ朝日のニュースステーションも6月29日(土)も取材していただきます。テレビ・新聞報道が私のお守り・パワーになっています。
ニュースステーションは事件から1年経ってということで、今後も取材され、7月頃報道していただけると思います。


2002年6月24日 月曜日
金沢大学の村井先生に「社会科教育法始まって以来のものすごい感動感想文の渦です。感想文読んでいても、思わず涙が出てきそうです」とメールいただきました。
悠の命は亡くなりましたが、皆様の優しさをたくさんいただきます。
悠の命が生かされて、悲しいですが「命の大切さ」を伝えられて良かったです。
今まで、傷つくことも多かったですが、少しは、私自身生きてて良かったと思いました。


2002年6月23日 日曜日
メダカの卵が、赤ちゃんに1匹かえりました。悠の仏壇の横の庭のつるばらが伸びて、とげに刺さりながら枝を切っていました。悠が亡くなってから、伸びだした雑木に、もうすぐ鳥がとまりながら、木苺をついばみにくるのを待ってます。


2002年6月22日 土曜日
悠が脳死状態にさせられ、ICUで脳外科の先生に「100%だめだ」と言われ、加害者がどんなむごいことをしたか写真に撮りました。辛くて現像できなかったのを、フジテレビのFNNスーパーニュースの取材あった時、現像していただき、宅急便で送っていただきました。
あまりのむごさに泣いていました。加害者・見張り役の3人・2階から見ていたおじさん達に改めて怒りと悲しみが増しました。こんなに顔が倍に腫れてるまで見ていた人、手を下した人、見て見ぬ振りした人、殺人を傷害致死にした人、殺人者を中等少年院送致の保護観察処分にした村地勉裁判官。あまりにも被害者に救いがありません。
どうして責任を取らなくていいのでしょうか?


2002年6月21日 金曜日
金沢大学の教育学部の学生さん100人ぐらいの方に、8時50分から10時20分まで「青木悠の命の大切さ」の講義を村井淳志先生にしていただきました。ニュースステーションのテレビ取材もあり、とても緊張しましたが、学生さんは真剣に聞いて、感想文もほとんどの方が書いてくださり、「来て良かった」と思いました。この場を設けてくださった村井先生、東京から来てくださったニュースステーションの取材の方、心から感謝します。去年の5月、悠のために、取材や署名運動に協力していただいた方が来てくれました。
朝日新聞・北陸中日新聞も取材していただいたので、6月22日の朝刊に紹介していただけたと思います。
「学校の教員を目指している学生諸君におっしゃりたいことは何ですか」の質問に
悠は中学2年の時に、バトミントンの顧問の先生に「青木からバト取ったら何も残らない」と言って退部させられました・・・悠にも悪い面もあると思いますが、よい面もあると思います。交通事故に遭って、リハビリ頑張って、夏休み一生懸命勉強して、9月にH高校受験しようと中3の担任の先生に電話したら、「そのまま定時制に居たら」と言われ、勉強やる気無くした時期がありました。その時、HやSに出会ったと思います。悠が何度もやり直そうとしたけれど、報われませんでした。教育学部の学生さんにお話できると聞いて、ここまで来ました。魅力のある先生・生徒を生かす先生になってほしいと思います。悠は大学行きたいと夢を持っていました。悠は夢も生命も何もかも奪われました。皆様の夢を叶えてほしいです。生命があるのだから。
講義のあと、テレビ取材もあり、感想文読んで、構内も見ました。私が兼六公園にあると思った大学は、山に移転して広く立派な校舎でした。悠は大学目指していたので、学生さんを眩しく見ていました。悠が亡くなってから、札幌に行っても、金沢にきても、観光する気分になれないので、すぐ帰りました。


2002年6月20日 木曜日
夕方、京都駅からサンダーバードで金沢に行きました。途中、携帯に「これから、飛行機で行きます」とテレビ朝日のニュースステーションの方から連絡入りました。
初めてのことで、緊張します。寝られず、学生さんから質問があった時、答えられるよう少年法改正の内容など朝方まで読んでいました。


2002年6月19日 水曜日
6月21日金沢大学の授業の時間が早いので、明日、前泊することになり、京都からサンダバードで行くことにしました。京都から特急で2時間ぐらいです。初めて、20歳頃、冬に金沢から能登半島旅行した時は夜行で行った記憶があります。松本清張の小説の舞台になった関野鼻など1人旅しました。取材もあり、緊張しますが、悠の命が生かされることを願います。
大津駅前に行く用事があり、悠が元気だった時、いつも買っていたかしわ屋さんに寄り、焼き鳥買って悠の仏壇に供えました。毎日、悠がいたらどんなに喜んだろうの事柄が、皆、悲しみに変わり、悲しみに押しつぶされそうになる私自身を忙しさで乗り越えようとしています。


2002年6月16日 日曜日
中学校の恩師と昼食一緒にしました。悠が亡くなった後、とても心配かけてましたが、ビラ配りしてる時、道路で会ったことありますが、今日はゆっくりお話ししました。私が、去年と違って、顔色もよく勤めもスイミングも続けていて、元気そうにしているので安心されました。
父も元気になったので、とても喜んでいただきました。
「青木さんの活動が地下水に浸透するように少しづつ活かされてる」と言っていただきました。


2002年6月13日 木曜日
悠がH小学校に呼び出され、惨殺され、せめて助けられなかった母親の気持ちで、H小学校の女校長先生に「お花を飾らせてください」といっても「飾るな」と言われました。
加害者5人ともU中学校出身です。悠の亡くなった後、H13年5月3日にU中の校長先生からかん口令がでたとは噂で聞いていました。U中の郵便受けに去年ビラは入れましたが、U中の校長先生は全く無視したのです。
http://www.telmail.co.jp/research/kesa/010/010503/25.htm
U中の校長先生から謝罪もお悔やみもお線香1本もありませんでした。報道の方が校長先生に取材されましたが、「もう卒業した子やから関係ない」ようなことを言われたことは聞きました。
どんなに嘆いても悠の命は戻ってきません。せめて、2度とこのようなむごい被害者が出ないよう悠の命をいかしてもらいたいと願います。U中の父兄の方から励ましや、せめて弁護士費用に役立ててくださいと寄付までいただきました。絶望のドン底でしたが、暖かい励ましや、あれだけお母さんの幸せを願っていた悠へのお詫びの積もりで頑張っています。
金沢大学の教育学部の学生さんに、「悠の命の大切さ」を6月21日(金)に話させていただきます。


2002年6月12日 水曜日
高槻の病院に手続きのことで、行きました。悠が入院中は、毎日のように、たこ焼き買って、職場から病院に通ってました。土・日は外泊で自宅に帰っていましたが、夜は病院からタクシーがなく、高槻駅までの10分ぐらいが歩けなく、私の肩を貸して、1歩づつ休憩しながら、必死で励まし帰ったことを思うと辛すぎるので、今日は何も考えないようしていました。
いつも倹約してましたが、1度寄ったスパゲティのお店にもっと寄って、たくさんおいしいものを食べさせてあげたら良かったと思います。


2002年6月11日 火曜日
昨日も、PM11時前に帰宅し、メールの返事したり、HPの日記書いてたら、遅くなり、今日はとても疲れていました。会社で大きな組織異動があり、希望退職も募られています。悠は、交通事故で入院中も、私に「お母さんは会社で頑張って」と言っていたので、今の職場で頑張りたいと思います。
去年、悠が亡くなった後、会社に勤務することはとても辛く、電車の中で涙ぐみながら来てました。大きな会社なので、食堂行っても、「あの人が被害者だ」というようにじろじろ見る人もいたりしましたが、今になれば、仕事があり、私を頼りにしてくれる人も、とても心配してくれる人もいて、辛い時期を乗り越えられたと思います。溜めていた資料の整理していても、この時は、悠は元気だったとか、涙ぐみながら、ファイルしてる時もありますが、悠が「頑張って」といつも励ましてくれてるようで、あんなに辛いリハビリを泣き言ひとつ言わなかった悠のためにも、乗り越えたいと思います。


2002年6月10日 月曜日
お姉さんを殺された被害者の妹さんと、近江八幡で会って話をしていました。
金沢大学の教授がおられて、教育学部の生徒さんに「命の大切さ」を話させていただくことになりました。悠の命が生かされることを願います。


2002年6月9日 日曜日
「生命のメッセージ展」でお知り合いになった方に会いに行き、何時間も話をしていました。交通事故も、あまりにも加害者の罪の軽さ・反省のなさに驚きます。市道をサーキットのように暴走して殺人しても、新聞報道もされず、大きな会社に勤めています。
悠も滋賀県警の娘さんの車に当てられ、障害者になりました。滋賀県警の父親から謝罪はありましたが、悠の意識が戻ったら、「任意保険に任した」で終わりでした。警察の仕事していたら、家族が事故起こしたら勤めていられないと聞きましたが・・・。その時20才だった加害者から謝罪もなく、顔も知りません。悠を障害者にしても、僅かな罰金と免停1ヶ月らしいです。事故証明も「忘れていた」と言っていた大津署ですので、それもどうなったかわかりません。


2002年6月8日 土曜日
ボバース記念病院に手続きの事で行きました。病院に近ずくと涙が溢れます。あれだけ死に物狂いでリハビリ頑張っていたのにと思います。この前は辛くて見ることができなかった、リハビリの部屋のぞきました。左手も戻らないと言われてたけれど、少し動くようになり、腰の負担のかからない歩き方をできるようにしてくれたリハビリの先生に会えました。突っ張っていたけれど、素直で優しい子だった悠がこんなむごい殺され方して、言葉もありません。さらに、あまりにも悠を殺した加害者の罪の軽さに驚かれます。2階の病室も見に行きました。15才の悠には厳しかった入院生活でしたが、先生・婦長さん・看護婦さん達、皆様の厳しくも優しい介護で悠は元気になり、人間的にも成長しました。
病院の帰り道、とてもお世話になった婦長さんに出会えました。


2002年6月7日 金曜日
高体連なのか、JRで帰宅途中、電車の中で、高校生がYONEXのラケットを持って、試合から帰る姿を見かけます。悠が中学2年の時、バトミントンの顧問のN先生から「青木悠からバト取ったら何も残らない」と言って退部させ、悠に意地悪して、教頭のT先生も「何とかする」と言いながら何もしてくれなかったことを恨みます。悠が生きがいにしてた部活を辞めさせなかったら、交通事故に遭う事も、半身不随になることもなかったと思います。悠にも問題あったと思いますが、反省している子供を大人の教育者が、生徒を絶望に突き落とすことはないと思います。
あれだけ、何度も部活に置いてほしいと頼みに行っている、母親に悠の悪口を言った、教頭のT先生・バトの顧問のN先生は許せません。誰でも長所も短所もあるので、良い面を伸ばしてほしいと思います。
毎日、胸のつぶれる思いですが、スイミング行って、思いっきり、手足を伸ばすのは、せめてもの救いになっています。


2002年6月6日 木曜日
悠の月命日です。平野小学校に行けず、家でお線香あげました。叶わぬ願いですが、毎日「悠ちゃん帰って来て」と祈るばかりです。寂しさは増すばかりです。
死に物狂いでリハビリ頑張ってた悠を思うと堪らないです。加害者・加害者の保護者に,
この苦しみを味わってもらいたいです。


 2002年6月5日 水曜日
月曜日、大津市民病院に自転車を置いてきたので、取りに行き、少し、マンションにビラ配って帰りました。見張り役のOの家の前、通りました。家も新築され、車も新しくなり、家の前通った時は、新しい洗濯機を運んでいました。身体の不自由な子を見殺しにしたのに、テレビの取材で「何も悪くない」と言ってたOの祖父(元警察官)は、きれいな家でどんな気持ちで過ごしているのでしょう。


2002年6月4日 火曜日
日曜日、ガーデニングして、重いプランターなど持ったので、身体がガタガタで、スイミング行って、少しマシになりました。日本のW杯のサッカーの試合があるので、サウナはひっそりしてました。
悠は小学校の時、「Jリーグに行って、お母さんを楽させたい」と言ってたので、テレビ見るのも辛いです。「生命のメッセージ展」に参加されてた北海道の9歳の俊彦君、奈良の純君、交通事故でW杯への夢を一瞬で奪われて、どんな無念の思いでいるでしょう。


2002年6月3日 月曜日
朝、大津市民病院に行く用事があり、自転車で行きました。悠が交通事故で入院していた時、毎日通いました。意識不明から、ICUから個室から4人部屋とだんだん元気になって行きました。坂道なので、疲れて汗だくになって、病院に行くのですが、元気になると、意識が戻ってきた頃は「お母さん、お母さん」と言ってた悠も、看護婦さんに構って貰いたいので「早く帰って」と言うようになりました。
「生命のメッセージ展」北海道実行委員会の小野様から写真など送っていただきましたので、紹介させていただきます。悠が亡くなって、悲しいですが、皆様から優しさ戴きます。

写真・ 札幌の12歳の女の子が書いてくれた天国の手紙北海道新聞


2002年5月30日 木曜日 
悠が亡くなった4月6日から、2ヶ月足らずの後、交通事故で亡くなられた小早川尚也君の命日です。悠が脳死状態にさせられ、ICUにいた時、会えないのに、毎日のように彼女とお見舞いに来てくれていました。
悠の受験した高校の近くが自宅です。悠と一緒にバス乗って、受験に付き添ったので、バスに乗れなくて、会社の人に送ってもらい、お悔やみに行きました。
悠も尚也君も大好きなお母さんを残して先に逝ってしまった、張り裂けそうな悲しみを思うと、泣くにも泣けません。あれだけ親孝行したいと言ってた悠のことを思うと堪りません。             


2002年5月29日 水曜日
悠が「生命のメッセージ展」に初めて参加し、その様子を関西テレビが取材し、報道していただきました。ありがたいことです。3日間ぐらい取材され、5分間ぐらいにまとめられます。取材に応じることにより、今までの判例により、大津家庭裁判所の村地勉裁判官は加害者を守り、被害者の言葉に表せないどんなに深い悲しみ、辛さ、怒りをどこにもぶつけることができなくて、悠の悲痛の嘆きは、母親しか訴えることができないと、自分自身を叱咤激励し言いつづけます。
今朝も一人でも多くの方にテレビ放映見てもらいたくて、H小学校の近くのマンションにビラ配りし、H小学校に手を合わせ、悠に謝っていました。悠がいかに勉強していたか、勉強部屋も撮って戴いてましたが、それは映りませんでした。悠の嘆きを思うと耐えられません。悠は「これから幸せになります」と3月29日にメッセージ残し、3月31日に脳死状態にされました。悠を見殺しにした人達が普通に暮らしているのは許せません。


2002年5月28日 火曜日
スイミング終わった後、また、近くのマンションにビラ配っていました。少しでも、テレビ放映見ていただき、悲惨さは伝えたいと思います。署名などたくさん戴いた方などにもFAXしていました。


2002年5月27日 月曜日
残業終わった後、「生命のメッセージ展」で悠のテレビ放映がされることを、ビラの裏面にコピーし、西大津駅前に出来た巨大マンションにビラ配っていました。疲れてめまいしそうでした。


2002年5月24日 金曜日
「生命のメッセージ展」
のテレビ放映のお知らせです。
関西テレビ 8チャンネル
放送予定日 5月27日(月)〜29日(水)
番組  「スーパーニュースほっとKANSAI」(18:20〜18:55)

特集のタイトル 
27日(月)「生命のメッセージ展IN札幌・77のオブジェが伝えるメッセージ」
28日(火)「北海道にかける遺族の思い」
29日(水)「謝罪の言葉が聞きたい・・・改正少年法施行から1年」悠の特集していただけます。被害者が声を上げることにより、悠の命を生かしたいと思います。


2002年5月23日 木曜日
去年は17才のSが中等少年院送致の保護処分に決まった日でした。大雨でニュースステーションも取材していただきましたが、悠が「悔しい、悔しい」と泣いているようでした。残忍で卑劣なSを旧法でも逆送して刑罰を受けるものと思っていたのに、少年院で職業訓練を受け、資格を取って、普通の暮らしをし、Sはまた高校へ行きたいと手紙に書いていました。頭遣ったら死ぬとわかっていて、頭ばかり殴り、お金を脅迫し、「障害者やから助ける価値がない」と悠を笑いながらなぶり殺しにしたSを、村地勉裁判官は内省力があり、感受性があると保護処分にしました。信じられなかったです。法律で裁いてもらわなければ、被害者はこの怒り・悲しみをどこにぶつければいいのでしょう。村地勉裁判官の家族がもし、こんな理不尽な殺人に遭っても、加害者が少年だったら、反省していると保護処分にするのでしょうか?本当に信じられなくて、あのむごい調書を裁判官は読んだのかと思いました。
今朝の新聞です。


2002年5月22日 水曜日
第3回和解協議がありました。加害者本人の謝罪を求めています。
去年の3月31日悠を脳死状態にして、Hに、大津市民病院で私は「やっと、元気になった子に何てことした」と言っても、Hは無表情でした。反対にまだ、私を見下していました。まさか、悠をコンクリートにバックドロップかけたと思えない態度でした。
少年院で矯正教育受けて、どのように変わったか見てみたいです。


2002年5月19日 日曜日
「生命のメッセージ展」in札幌の講演会が午後からありました。
理不尽に生命を奪われた天国の本人に代わって、遺族10人がメッセージしました。私は無念の死をとげた悠の悲痛の叫びを伝えました。
凶悪な犯罪や悪質交通犯罪などで突然、最愛の家族を奪われ、あまりにも加害者の罪が軽く、死人に口無しのように、加害者が有利に裁かれ、被害者の人命軽視・人権無視に遺族が悲しみのどん底から、亡くした生命を生かそうと戦っています。
取材も講演もあり、緊張してましたが、帰路、札幌から新千歳空港の電車の中、飛行機のなかで、悠が99/8月交通事故に遭う前、富良野・美瑛の丘・日高の牧場で馬と遊んでいた元気な悠を想い、泣いていました。もう悠に会うことも、一緒に旅行することもできない。悲しみは日ごとに増します。元気だった悠を返して。


2002年5月18日 土曜日
ホテルと会場しか行きませんでしたが、奈良の児島さんが大通公園で署名運動すると言われ手伝いました。悠と一緒に行った噴水を見ながら、寒さに震えながら、悠の幼かった笑顔を想い浮かべながら、署名運動とビラ配っていました。
北海道に来たら、毎回寄っていた、小樽の酒屋さんに寄りたかったですが、元気だった悠も居ず、悠の祖父も精神的にまいっている状態で辛すぎて行けませんでした。


2002年5月17日 金曜日
お昼に札幌に着きました。あまり何も考えたくなくて、飛行機の中でも、ビラなどホッチギスしてました。「悠ちゃん、生きて札幌に一緒に来られなくてごめんね」テレビカメラもあり、声をかけられませんでしたが、等身大の人型になった悠に生前身につけてた帽子をかぶせ、首飾りを付けながら、謝っていました。


2002年5月16日 木曜日
去年は、残忍な15才のHが中等少年院送致の保護処分が決定しました。私は、笑いながら悠をなぶり殺しにしたHをもっと厳しい処罰にしてもらいたかったです。記者会見で泣いていました。これでは、悠も浮かばれない。村地裁判官は調書を読んだのかと思いました.。法律で裁いてもらわなければ.、被害者はどこに救いを求めればいいのでしょう。去年の5月17日の新聞報道です。
明日は札幌です。20歳で初めての北海道1人旅は3段ベットの夜行列車でした。
長男が小学校から中学校に入学するまで、悠と祖父母と一緒に、家から車で、毎年、夏休みに新日本海フェリーで小樽まで30時間かけ北海道ドライブ旅行を楽しんでいました。99年8月に悠と私と悠の祖父と3人で北海道に行ったのが、最後になりました。旅行から帰宅後、3日目に交通事故に遭いました。


2002年5月14日 火曜日
疲れていましたが、スイミング行きました。少しでも体力が付けばと思います。
45分アクアビクスしてサウナ入ります。サウナで旅行の話・ゴルフの話など世間話されている人をうらやましいと思います。被害者になって、将来は無くなりました。毎回、水風呂入って、小学校で水をかけられ放置されてた悠を想い、「悠ちゃんお母さんを守って」と祈ります。


2002年5月13日 月曜日
土・日と取材があり、さすがに疲れましたが、取材していただけるのはありがたいことです。何時間もかけて悠のために番組を作られるのは感謝です。悠の事件が風化されずに、加害者を守る少年法が見直され、安心して暮らせる世の中になってほしいです。悠を見殺しにした人達や、加害者も罪の意識を持ってもらいたいです。


2002年5月12日 日曜日
フジテレビのスーパーニュースの取材があり、平野小学校に行きました。4月から赴任された校長先生は日曜日なのに迎えてくれて、「生きてる者が供養すべき」とおっしゃいました。5月末か6月に安藤優子さんのスーパーニュースで悠の特集が、関東地方で報道されます。
悠が生きていたら、私に贈ってくれたカーネーションを買って、悠に供えました。長男は私に紫のカーネーションを贈ってくれました。私の最大のプレゼントは悠が「ただいま」と元気に帰って来てくれることです。1年経っても、悠が大好きなお母さんを残して死んだとは信じられません。取材では泣かなかった私も、日記を書きながら泣いてます。
「悠ちゃん帰って来て」毎日、待ってます。助けられなかったお母さんを許して!


2002年5月11日 土曜日
午後、関西テレビの取材がありました。一生懸命勉強して高校受け直し、合格して、歓喜し、たった四日間しか喜んでなくて、入学式がお葬式にさせられた無念を伝えました。
「生命のメッセージ展」札幌も取材していただけます。
5月17日の15時頃〜5月19日のお昼頃まで、私も参加させていただきます。
是非、お時間の都合の付く方は悠に会いに会場に訪れてください。お待ちしてます。


2002年5月10日 金曜日
「生命のメッセージ展」札幌に参加するため、旅行券購入しました。会社の永年勤続表彰のDC旅行券使いました。悠が大学行って、英会話に強くなったら、悠の通訳で外国連れてもらうのが私の夢でした。悠の夢・私の夢を叶えるため、一生懸命働いていました。


2002年5月9日 木曜日
去年は改正少年法施行後、初めての意見陳述を、大津家裁の村地裁判官に、残忍な加害者の厳罰を1万人以上の署名を集め、涙で訴えました。
私の命より大切な息子が、突然こんなむごい殺され方して、気が狂いそうでしたが、涙でしか訴えられなかった悠の変わりに、張り裂けそうな悲しみ、怒りを裁判官に訴えました。悠のお骨を拾うより、辛い辛いむごい調書を読んで、厳罰を望んでも、何の反省もない15才のHは、鑑別所から友人にただ遊びたいだけの手紙P1.2P3.4を送っています。
身体の不自由な子をコンクリートにバックドロップを笑いながら何度も投げつけたHを、村地勉裁判官は反省していると旧法で裁き、中等少年院送致にしました。信じられないことです。


2002年5月6日 月曜日
悠の月命日です。平野小学校に行こうと思いながら、行けませんでした。
久しぶりにメダカの水を変え、ガーデニングをしていました。悠が「お母さん 家の掃除をしてからにしたら」と聞こえそうでした。また、悠から「お母さん」と声が聞きたいです。
朝は「生命のメッセージ展」のメッセージ文を作成していました。悠の祖母がお参りにきましたが、泣いているのを見ているの辛くて、2階に上がりました。


2002年5月3日 金曜日
去年はパルコの前やH小学校の前で、署名運動していました。「加害者を極刑か、一生刑務所から出さないでください」と「見張り役の3人も責任を課してください」と訴えていました。たくさんの暖かい励ましや応援、署名いただきましたが、加害者は殺人しても、少年法で守られて、刑務所でなく、少年院で、私達の税金で将来のために、矯正教育を受けることを、被害者になって、初めて知りました。
今日は「生命のメッセージ展」のハート作りに大阪に行きました。5月17日〜5月19日に札幌で開催される「生命のメッーセージ展」札幌から参加させていただきます。悠は生きて、札幌には行けませんが、参加することによって、「命の大切さ」を伝え、少年法が見直されることを願います。


2002年5月1日 水曜日
去年の5月1日は、新少年法に基つき、初めて、I弁護士と大津家裁に調書閲覧など手続きをしました。午前中、手続きし、午後、生まれて初めて、記者会見もしました。
会見後、裁判所で調書見ました。私の命より大切な息子がだまされて殺されていく様子がわかり、1文字見て泣き、まわりに人がいるのに、大泣きして見ました。悠が殴られているのを2階からずっと、見ていた人や、Sが電話した人やいろいろな関わっている人がいるのに、誰にも助けてもらえず、殺された悠の無念を思うと耐えられません。
やっと、少し春が来たと親子で喜んでいたのに、むごすぎます。
あれだけ、マッサージした手足がお骨になった時、気を失いそうでしたが、死人に口無しの加害者ばかりの言い分の調書は、気が狂いそうに成る程、むごいものでした。どうして、立つのがやっとの、身体の不自由な子にHはバックドロップなどかけ、また、4人は止めることもせず見ていられるのでしょう。見張り役の3人は警察から何の罰も受けず、普通に暮らしをしています。