パレスチナ問題と聖書の民 <第3回>
大塚裕司
「過越の祭(ペサハ)」の謂れ
 さてモーセはイスラエルの民をエジプトから解放しようとラーメス2世に度々交渉しましたが、ラーメス2世はなかなか心よくそれを認めようとしません。そこで主なる神はエジプトにいくつかの災いをもたらします。その最後の災いについて「出エジプト記」には次のように書かれています。

その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち(殺し)、またエジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。あなたがた(イスラエルの民)の家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを通り越そう。…
(「出エジプト記」第12章12節〜13節)

 主なる神は、イスラエルの人々に子羊の血を家の入口にある2本の柱と鴨居に塗っておくように命令され、その血が塗ってある家には災いをもたらさないことを約束されたのです。この、神がイスラエル人の家を通り越されたことを記念して、ユダヤ人の最古かつ最大の祭である「過越の祭(ペサハ)」が行われるようになりました。つまり、ユダヤ人にとってはエジプトでの隷属状態から解放された史実に基づく、民族独立の象徴としての最大の祭が「過越の祭(ペサハ)」であるというわけです。

 この「出エジプト」(エクソダス、BC 1230年頃)の約1200年後にウェツレヘムに誕生したイエスは、ユダヤ民族のメシア(救世主)として民衆(ユダヤ人)から期待されながら、ユダヤ民族の神(ヤハウェ)を超越した神の愛を説いたが為に民衆から逆に憎まれ、ユダヤ民族最大の祭である「過越の祭(ペサハ)」の時期にユダヤ人の手にかかって処刑されたのでした。恐らく当時(AC30年頃)のユダヤ人達は神の愛を説く宗教家よりも、ローマの支配からユダヤ民族を解放してくれるモーセのような預言者をイエス・キリストに対して求めたのだと考えられます。しかし、イエスの教えはユダヤ民族のためだけでなく広く全人類を救う愛の教えであったわけです。

★イスラエル人の王国
 エジプトから脱出し「約束の地」カナンへと入植したイスラエル人達は(BC1220年頃)は、その後王国を建設しダビデ王(BC1000-961)とソロモン王(BC961-922)の時代に絶頂期を迎えます。しかしソロモン王が死んだ後王国はサマリアを首都とする北のイスラエル王国とエルサレムを首都とする南のユダ王国に分裂し、やがてイスラエル王国は北方から攻め入って来たアッシリアに滅ぼされます(BC 722頃)。そしてユダ王国も新バビロニアのネブカドネザルに滅ばされ(BC 586)ユダ王国のイスラエル人達はバビロニアの虜囚となり約50年間の捕虜生活をおくることとなります。(ユダ王国の名前の由来はダビデ王がユダ族出身であったことによります。またユダ王国からバビロニアに連れて行かれたイスラエル民族の上層階級を指してユダヤ人(ユダ王国の人たち)という名称が用いられるようになりました。)
 この頃バビロニア捕囚時代のユダヤ人達の嘆きの歌が旧約聖書の「詩編」に綴られています。また所謂シナゴーク(ユダヤ会堂)が建てられ、組織宗教としてのユダヤ教がはじまったのもこのバビロン捕囚の頃と言われています。

バビロンの川のほとり、そこで私たちはすわり、
シオン(エルサレム)を思い出して泣いた。
…………
エルサレムよ。もしも、わたしがおまえを忘れたら、
わたし右手がその巧みさを忘れるように。
もしも、私がおまえを思い出さず、私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、
わたしの舌が上あごについてしまうように。
(「詩編」137編1〜6節」)

ユダヤ民族の興亡と救世主イエスの登場
 その後バビロニアはペルシア帝国のキュロス王の手によって陥落しますが(BC 538年)、寛大なキュロス王はユダヤの捕囚民にエルサレムへ帰ることを許し、また彼らの宗教に対しても寛容な措置をとり、エルサレム神殿再建の勅令も出しました。(第2神殿と呼ばれるこの神殿の完成はBC 511年のことです)ペルシア帝国はユダヤ人の宗教や律法に基づく慣習(ヤハウェ以外の神や権力者に対して絶対礼拝しない)に対して寛大であったようで、これはマケドニアのアレクサンドロス大王がペルシア軍を破り(BC 333年)、イスラエルの地にヘレニズム文明の足音が聞こえて来るようになるまで続きます。(但し、旧約聖書の「エステル記」にはペルシアの重臣ハマンがユダヤ民族を全滅させる陰謀を企んだ物語がのっています。従ってペルシア帝国のユダヤ民族に対する寛容さはイスラエルの地を統治する為の政治的なもくろみも大きかったと考えられます。)

 前述したように、アレクサンドロス大王の東征により、古代オリエントとギリシャ文化の融合が生まれ、大ヘレニズム文化圏が形成されるに至りましたが、このヘレニズム文化の影響を受けたシリア王アンティオコス4世は、ユダヤ人にとっての至聖なるエルサレムの神殿にギリシャ世界の主神ゼウスを祭り、ユダヤ教の禁止令まで出したのでした。これがマカベ戦争(BC166-BC142)の発端になりました。ユダヤ人にとっては自らのヤハウェへの信仰とその掟(律法)を死守すべきまさに生死を賭した戦いとなったわけです。やがてユダヤ人は、20年以上に亘るシリアに対する抗戦の末、その頃マケドニアを破り(BC168)さらにシリアを強引にエジプトから撤退させたローマへ使節を送りこれと同盟を結ぶことに成功します。こうして、ユダ王国滅亡以後4半世紀ぶりにユダヤ民族は再び国家の独立を実現し得たのでした(BC142)。

 しかしやがてローマはエルサレムを占領し、ユダヤ人の国はローマの属州となります(BC 63)。そしてかの悪名高きヘロデ王がローマ元老院の認可を得て、ユダヤの伝統的なハスモン王家(マカベア王朝とも呼ぶ)を滅ぼし(BC 37)、ユダヤ王として君臨してユダヤ民族を支配するようになりました。つまりヘロデ王に対する反抗はローマ国家への反逆を意味するようになったのでした。しかしユダヤ人たちは、ローマ市民権所有者でありアラブ系(イドマヤ人)であり、またヘブライ語でなくギリシャ語を話すヘレニストであったヘロデをユダヤの王とは認めようとはしませんでした。ヘロデ王の死後(BC 7)、ユダヤ王国は内紛が絶えなかったため、ローマ皇帝アウグストゥスはユダヤを属州としローマ人のユダヤ総督を置き統治しました。したがってイエス・キリストが誕生した時代はユダヤ人達にとっては、ローマの圧政に苦しみつつ聖書に基づく救世主(メシア)の到来を熱願する時代であったのです。同時代のユダヤ人の民衆がメシアと呼ばれたイエスに何を求めたかは容易に予想出来ます。それはローマからの民族の独立であり、かつてダビデやソロモンの頃に栄華を誇ったユダヤ人の王国の再建であったことでしょう。

★ユダヤ戦争とディアスポラ(離散)
 ローマの属州になる以前は、ユダヤ人はエルサレムの神殿に納めるための税を全帝国の同胞から集めていましたが、ローマ支配に対する納税義務はありませんでした。しかし、BC6年にはローマへの納税義務も施行され、ローマ皇帝への礼拝を強調するような刻みのある貨幣が発行されたりしました。ヤハウェ以外の神や偶像を絶対に礼拝しないユダヤ人に対する挑発行為は続き、特にAC 37年に即位したカリグラ帝は自らを神なる皇帝と称し、エルサレムの神殿に自分の神像を建てることを命じたのです。この計画はユダヤ人大群集の嘆願と阻止の為中止されましたが、彼はエルサレム郊外では皇帝礼拝の為の神殿や祭壇を建てることを強要しました。

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。
上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも。
どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。…
(「出エジプト記」第20章3節〜5節)

 エルサレムではユダヤ人過激派のテロが横行し、ローマ支配に忍従し平穏を願う多くのユダヤ保守層、大司祭などが殺されました。そしてついに、ユダヤ総督フローロスが使節を送りエルサレムの聖なる神殿の宝庫から金を奪い取った時、ユダヤ人たちの怒りは頂点に達し破滅的なユダヤ戦争(AC67-70)に突入して行きます。当時世界帝国であったローマに立ち向かうことはまさに自殺行為に等しかったのです。

 こうして紀元70年9月26日、6万人のローマ軍に包囲され1ヶ月以上に亘って燃え続けたエルサレムは陥落し、ユダヤ民族は土地も神殿も持たぬ民族として離散(ディアスポラ)して行きました。「国家なき民族が如何にして可能であるか」という命題に、この後ユダヤ人は1900年間も向かい合うことになるのです。(つづく 平成14年3月1日)

※ユダヤ戦争後ユダヤ人のエルサレムへの立入りは禁止され、彼らはパレスチナの地中海沿岸地域やガリラヤ地方へと散って行きました。またAC1世紀当時、ローマ帝政初期には既に約600万人から800万人のユダヤ人が散在し定住しており、彼らはディアスポラ・ユダヤ人としてギリシャ語(当時の国際語)を話していました。

注:参考にした文献は本連載の最終回に掲載します。
筆者のプロフィール:大塚裕司(おおつか・ゆうじ)昭和32年静岡県生まれ。学生時代より真理を求め、放浪生活、音楽活動の末、生長の家青年会の活動に参加。平成4年生長の家本部に奉職、同8年に本部講師。現在埼玉県さいたま市に妻と1男2女と住む。
★この論文を読まれた感想や質問などをお寄せ下さい。大塚裕司yujio1957@ybb.ne.jp
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